第18話 水の流れと勇気の一歩

 巨大な坑道のようになっているレースのコース、その道の先には広大な川が横切っている。

 川の幅は随分広く、およそ40メートルほどもあるだろう。そして、見上げると天井からは水が染み出ている。

 この様子だと俺のような小さい生き物は、川の先に天井を伝っていくこともできないだろう。

 道の先に行くためには、どうあってもこの川を越える他にない。


「すごい川だね」

「そうだな」

 

 カメ子の言葉の通り、その辺りにある川よりはるかに流れに勢いがある。並みの生き物なら、どこまでも流されてしまうだろう。むしろ川というより大河というものだろう。この大きさには圧倒されそうになる。

 それに川に向かうまでの道に、多くの生き物の死骸があった。もちろんこれまでの道のどこにでもそんなものはあったのだが、少し気になるのは、その傷跡だ。多くの生き物の頭蓋が砕かれていた。

 川に近づくごとに、そんな死骸が増えている。


「カメ子、慎重に行こう」

「うん」


 カメ子は声を潜めて頷く。俺はカメ子の上から周囲を確認する。

 今のところ、俺たち以外の他の生き物の気配は感じられない。

 しかしどうにも嫌な予感がする。

 死骸の落ちている場所を考えると、川の付近で餌をあさる生き物がいたのではないだろうか。

 今は目の前になんの生き物も見えないが、何かの生き物が川の中にいるのかもしれない。

 それに他の生き物の障害は別に考えたとしても、この川の流れは激しい。カメ子の甲羅の上に乗ったとして、俺は水飛沫水しぶきにすら流されてしまうだろう。

 しかも渡った先には、俺の天敵である土蜘蛛までいるという。

 考えれば考える程に呼吸が荒くなる。

 本能というべきものが、俺の全身に警鐘をならしている。この先に進むなら俺の命がないと。

 俺は周囲を見渡すと、近くにいたヘビ子と目があった。

 

「ところでヘビ子は泳げるのか?」

「うん。ボクは大丈夫さ。蛇は泳ぎも得意なんだ。ボクは後ろから付いていくし、気にしなくてもいいよ。……というより、ここだとそんな余裕できないと思うよ」


 ヘビ子の言葉に俺は頷いた。

 流れる川も、その先の巨大な広間も見えている。だが、それをとりまく悪意のようなものはまだ分からない。


「ええとね、クー。ボクは何も言えなんだけど……頑張って……」

「ああ、ありがとう」


 具体的な言葉ではない。だが、ヘビ子の言葉に俺は少し息が軽くなった気がした。

 そうだ。気負いすぎても仕方がない。慎重であることと臆病であることは一致しない。

 まずは進もう。そして全ては川を越えてからだ。

 俺一匹なら詰んでいたが、今はカメ子が付いてきてくれる。


「カメ子、頼むぞ」

「うん。わたしに任せて」


 いつものようなやりとりのはずだが、カメ子の声が固い。カメ子もまた、目に見えぬ何かに緊張しているのだろう。

 そしてカメ子は、普段より少し進みが遅い。そして、手足が少し硬直しているようだ。


「どうした? カメ子。震えているのか」

「あれ、おかしいな。くーちゃん、わたし何だか体が動き辛いよ」


 地面はところどころに水で浸されているが、特に何があるようにも見えない。おそらくは精神的なものだろう。俺も気持ちは痛い程に分かる。

 それに先ほどから地面が少し揺れている。間欠泉の揺れではないようだが、不安を感じるのにも理解ができる。

 俺はそんなカメ子になんと言ってやれるだろう。


「川の前に着いたら、狼を待つか。それなら少しは安心だろう」


 俺はカメ子に提案してみる。狼は俺たちに友好的だし、大きい生き物に対しても戦えるだけの実力がある。


「うん、そうだね。……でも、もし女王アリちゃんが先にたどり着いたらどうするの?」

「女王はこの川を渡れないだろう。例えどれだけ数がいようと、川を渡る手段を持たない生き物はここで終わりだ」


 そう考えると、少し悲しくもなる。この人間レース、小さい虫の種族はそもそも勝てるレースではなかったのだ。

 

「先に女王がここに来たら、その時点で川を渡ってしまえばいい。この川が俺達の盾になってくれるだろう」

「うん」


 カメ子の不安は解消されていない様子だった。

 だがまあそれでもいい。生き物にとってみれば警戒心が強くて悪い事はない。油断する生き物から死んでいくものからだ。

 それによくよく考えてみれば、川の直前で狼を待つという選択肢は悪くないかもしれない。

 そもそも川の先には土蜘蛛がいるとのことだったし、クモの性質は罠を張った場所から動かないものだ。そこで待ち構えているのだろう。

 その場所をを何事もなく通り抜けたいところだが、クモの種族は感知能力が高い。俺たちくらいの大きさの生き物でも見逃しはしないだろう。

 土蜘蛛の大きさから考えて、俺たちだけでは決して勝てない。ここを切り抜けるためには、味方でも敵でもいい。何らかの力が必要になる。

 となると、やはり川の前で少し他の生き物が来るのを待つしかない。……それが狼ならばなお良い。


「だからカメ子、川の前で少し止ま……」


 俺がそう言いかけた時、ざばり、と川から何かが這い出す音がした。


「……あ、あ、ああ」


 凍り付いたようなカメ子の声。

 その目の前には大型のワニがいた。全長で5メートルはあるだろう。

 突き出した顎から光る牙は銀色にぎらりと輝いている。

 そうして爬虫類の独特の黄色い瞳を、ぎょろりと俺たちに向けてくる。


「がああああぁぁっっ」

 

 川全体にまで響き渡るかのような威嚇の声。

 俺は揺れるカメ子の上で、少しだけ悟る。恐怖心というのは種族に刻まれているものがあると。俺が土蜘蛛が恐ろしいとの同じように、カメ子はワニという種族が恐ろしいのだろう。

 おそらく水棲に生きる者どうし、ワニは亀を食事にしていたのではないだろうか。

 あの長く際立ったアゴなら、カメの甲羅すらかみ砕けるだろう。道に落ちていた死骸のごとくだ。

 カメ子は、目には涙も浮かび動けずに震えている。

 ワニは叫び終わると、大顎を開けてこちらに駆け出してくる。

 一瞬だ。すべてはこの一瞬で、俺たちの命運が決まる。

 俺は瞬時に周囲を確認する。揺れる大地、流れる川、流木。突撃するワニ、動けない亀。

 まずは、カメ子が動かないことにはどうにもならないが、カメ子とは言葉を交わす時間すらない。

 どうすればカメ子は動いてくれるだろうか。それに俺のこの非力な体で何ができる。

 あいつはどうしたら勇気を出せる?

 自問自答、これまでの経験を瞬時に思い返すと、一つだけ思いついた。

 あまり俺自身やりたい行動ではなかったが、俺は覚悟を決めて、カメ子の背から飛び降りた。


「くーちゃんっ?」


 カメ子は驚きの声を上げた。

 俺のやろうとしていることは意味がないかもしれない。だが、俺にできることは他にない。

 お前が歩き方を忘れたなら、俺が教える。

 恐怖との戦い方なんて、一つしかないんだよ。

 一歩、足を前に踏み出すだけだ。


「俺に付いてこい!」

 

 俺はワニに向けて走りだす。このままでは俺は、ワニに確実に踏みつぶされるだろう。

 だが、きっとお前なら再び前に進めると信じている。誰かの為になら、お前は勇敢になれる奴だったろう。

 それにな。俺たちの生きる道は、前にしかないんだよ。

 こんな程度を乗り越えて、俺たちは人間になるんだろう。

 だから、俺も振り向くことなく一歩駆け出す。


「ああああああぁぁ!」


 カメ子は叫んだ。

 そしてべたん、とワニに向けて力強く一歩を踏み込んだ。

 そしてワニに向って直進する。

 俺はぎりぎりでカメ子の首元に飛びのった。


「このまま顎の下に滑り込めっ」


 カメ子は、俺の言葉の通りにワニの喉元に滑り込む。すると、間近でガチリと顎が閉じる音がする。

 土埃が宙を舞う。カメ子はがっちりと地面をつかむように両手を伸ばしている。

 

「87秒耐えろ」

「うん!」


 俺がそう言うと、カメ子は強く答えてくれた。

 四肢の全てをのばしてワニの下に潜り込み続けている。

 ワニはその場でぐるりと勢いをつけて横に転がりカメ子の甲羅を宙に弾き飛ばした。


「縦回転しろっ」

 

 俺が叫ぶと、カメ子は必死の形相で宙をくるりと前転する。


「次は顎の下だっ」


 カメ子は地に足をつけると、今度はワニの顎の下に潜り込む。ワニはぐるぐるとカメ子を喰おうとその場を回る。

 離れた距離より、内側の方が安全だとはいえ、カメ子はよく耐えてくれている。

 再びワニが体を横に回転させカメ子を弾くが、その勢いを利用してカメ子は回転して着地する。


「三歩右へ進めっ」


 俺はワニの動きを予測しつつ、カメ子に指示をする。

 如何に強い生き物だろうが、賢くさえなければ動きの予見は簡単だ。


「がぁああぁぁあ」

「ああぁああぁあ」


 ワニもカメ子も叫びながら、喰おうと、喰われまいと争っている。

 苛立ちを見せるワニの動きが大降りになる。俺はカメ子に小さく小さく動くように細かく伝えていく。


「止まれっ、左に二歩だっ」


 ワニもまた行動にフェイントを入れて不規則に動きを変えようとするが、ワニが考えるより早くワニの微妙な筋肉の流れを読む。


 時間を計測しながらの戦いではあるが、数えている時間以上にどこまでも長く感じてしまう。

 転がり、弾かれ、立ち上がる。


「3、2、1、今だ、河に向かって全力で走れっ」


 俺が叫ぶと、カメ子は駆け出した。

 ワニが反転するまでの秒数。カメ子が川に飛び出すまでの秒数。ぎりぎりだ。

 だが、何もせずに川に入ると俺は流されるし溺れる。

 俺はカメ子の甲羅から、鼻先まで走った。


「カメ子、口を開けろっ。それで川の途中の岩場まで泳ぐんだ」


 俺は空中に飛び出すと、ぱくりと口を開けたカメ子の口内に飛び込んだ。

 そして口が閉じられると周囲が暗闇で包まれる。

 口の中であるなら、カメ子に飲み込まれさえしなければ、水の中でも安全に移動できる。

 とはいっても、緊張はする。間違って飲み込まれたら俺は終わる。

 そしてさらに問題は、ここだと外の様子が分からない。

 最悪カメ子ごと、ワニに丸呑みされる可能性すらあるが、今はカメ子を信じることしかできない。

 真っ暗な口の中が、泳いでいるせいか揺れている。

 時間の感覚が狂いそうになるが、秒数を自身で測り続ける。

 そして急に浮遊感があってから、光が差した。どうもカメ子が口を開けたようだ。


「ぷはっ。ここでいいの?」

「ああ」 


 俺が指示した岩場に必死に捕まりながら、カメ子は息継ぎのために口を開けた。

 俺は即座に周囲を確認するとワニが速度を上げてカメ子に向かってきている。

 けれど、ワニは川の中で一瞬立ち止まる。

 するとワニの目の前を流木が通り過ぎて行った。

 ワニが嘲笑するように、目を細める。


「くーちゃん……」

「分かっている。これで勝とうとは思っていない……ちょうど、来たようだ」


 ワニは急にくるりと俺達から背を向けた。

 俺はその視線の先を見て、今は命をつなげれた安堵と、それを上回る恐怖心に見舞われることになる。


「ばおおおおおおぉぉ!」


 空気が破裂するような咆哮が響き渡った。川の縁に大きな生き物の影がある。

 難攻不落の生きた要塞。ゾウが現れたのだ。

 ワニはぐるりとゾウに向き直った。

 いつでも殺せる俺達と、あのゾウでは優先順位が違いすぎるだろう。


「なんで、ここにゾウが」

「多分、道に迷ってたんだろうが、ワニの叫び声で呼び寄せられたんだろう」


 地面が時々揺れていたのは、ゾウだった。

 そういう意味で砂漠で遭遇して、ゾウの揺れを体感しておいて良かった。

 

「あいつらが戦っているうちに、俺たちは態勢を整えて先に進もう」

「うん、ちょっと待ってね」


 カメ子はよじよじと岩場に上って、再び泳ぐための態勢を整えている。

 巨大な生き物どうし、共倒れてくれるのが一番良いが、そう簡単に事は運ばないだろう。

 だが、少なくとも俺たちが泳ぎきるまでの時間は稼げるはずだ。

 あるいは水場に引きずり込みさえすれば、ワニの方が戦いにおいてゾウより有利かもしれない。

 ワニが水中から飛び出して、ゾウの鼻に噛り付く。だがゾウは、何事もなかったかのように泰然としている。

 そして長い鼻をワニごと持ち上げると、地面に叩きつけた。ワニは痙攣して動けなくなった。

 そしてゾウは、巨大な前足でワニを踏みつぶす。頭蓋が割れる鈍い音があたりに響いた。

 あれだけ恐ろしいワニが、たった一撃、ただの一撃で絶命した。

 ゾウは勝ち誇るわけでもなく、地面を揺らしながら淡々と川に歩を進めた。

 あれだけの巨体泳げるのだろうかと疑問に思っていると、ゾウは鼻を高く持ち上げた。

 川に入った巨体は水に沈んだが、川の外に突き出している鼻で呼吸をしているようだ。

 まさか、あんな方法で泳げるとは。


「くーちゃん、行けるよ」


 ゾウに気づいているだろうに、カメ子は意気揚々と俺に声をかけた。

 手の震えはよく見るとまだ止まないようし、これが虚勢なのは間違いない。

 違うか。恐怖を感じて前に進めるからこそ、このカメ子は勇気があるのだろう。


「行こう、水の底のあたりを進めばゾウに巻き込まれないはずだ」

「うん」


 カメ子は大きく息を吸い込んで再び俺をくわえると、水の中に潜っていった。

 再び暗くなった視界で、俺はこの先の事を考える。

 ゾウに土蜘蛛、罠も張り巡らされているだろうし道の先は防がれている。

 絶望してしまえれば楽だが、怯えるカメ子についてこいといった以上、俺が諦めるわけにはいかない。

 どうする、どう勝てばいい。どうすれば先に進める?

 状況、地形、敵の能力、カメ子の能力。何をどうやって組み合わせればいい。

 生き残る道は、蜘蛛の糸より細いだろう。だが必ず道筋を探してみせる。

 暗い世界で、俺は静かに息を整えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る