第36話 業火の夢想 影と正義と

 赤く煮えたぎる世界に、人間が一人立っている。

 人間はゴールの前に立ちふさがっていて熔岩の道を造っていた。

 その場に集った多くの生き物が、そんな人間に立ち向かうかのように牙を剥いたり睨み付けているのだが、どの生き物も瀕死だった。

 虎や狼は生き物の中でも頂点に近いだろうに、人間はまるでそれを寄せ付けない。人間とはこれほどまでに強い生き物だったとは。

 いや、あるいは人間という種族ではなく、この目の前の個体が強いのだろう。そして、何より恐ろしいのはその性質だ。

 圧倒的な強さを誇るというのに、生き物の苦しむ姿を見るために毒すら使う。人間にこれほどの実力があるならばレースの優勝も容易かっただろうに、こんな場所で待ち構えて他の生き物の絶望を楽しんでいる。

 ただの人間がそこに一人立っているだけ。それだけなのだが、どうにも恐ろしい。

 かつて土蜘蛛に感じたような強制力とはまた違った感覚だ。そう、あの人間に対して自分は嫌悪感とでもいうべきものを感じている。

 本能的にあの生き物に近寄ると、目に見えない泥が体中にまとわりつくような不快感がある。

 自分は天井で一匹だけで張り付いているので、幸いなことに人間にはまだ見つかっていない。

 そしてこのまま隠れ潜んでいれば人間にも気づかれないうちに、優勝台に向かえるかもしれない。

 そうするのが命として正しい行いだ。キョウダイの後を追って、傷つけたこともあったが間接的に助けだってしている。

 放っておくべきである。

 だが、地上では皆が戦っている。

 キョウダイと亀、虎や狼、残り一匹となった女王アリでさえ、人間に対抗している。

 だが、このままでは正直勝ち目があるようには見えない。他の生き物は既にボロボロ。人間は傷らしい傷一つ追っていない。

 自分に何ができるだろう。この身体の小ささでどうやって人間に立ち向かえるというのだ。人間の気まぐれな、指先一つで自分達は死ぬ。

 だが自分がそうして反問している間にも、キョウダイは人間に飛び掛かったり距離をとったりしている。

 キョウダイよ、その今にも砕けそうな身体で、それでも戦うのか。

 自分は遠くからキョウダイの顔つきを見る。その瞳には恐怖も怯えもなかった。ただ、勇気の光だけがそこにあった。

 ……そうか、そうだな。キョウダイは光だ。その道標に惹かれて自分はここまで来れたのだ。

 だが今までの敵はともかく、この人間はこれまでと何かが違う。光さえ飲み込むような闇の気配すら感じる。

 それに、いつも冷静で未来をも見通せるような女王がここで立ち止まって戦っているということは、この人間はここで倒さなければならないということだろう。

 通路では人間がキョウダイたちに嘲りながら声をかけている。


「オレに対抗できるとしたら、このレースに参加している中の四匹程度。大方は予想通り……まあ一匹はここに辿り着けなかったようだがな」


 ……その一匹とは、多分、自分のことかもしれない。

 事実としてこの場に辿り着いて、気づかれていないのは自分だけだからだ。

 そして地上ではみんな戦っている。キョウダイどころか、あの足の遅い亀ですら人間に立ち向かっている。

 生き物としての格差。だがどの一匹たりとも、それを理由に足を止める生き物はいない。

 どいつもこいつも傷だらけで、しかし、どうにも美しく見える。

 正義とは自ら信じる眩しい世界の為に、戦う事なのかもしれない。

 だから自分も『できない』ことを数えるのを止めた。

 自分にできることはなんだ?

 そもそも人間には容易には近づけない。アリの群れは頭上から攻めたが、人間には気づかれた。

 だが、自分ならば羽音もないしより体もアリよりも小さい。糸を使えば、機を見て人間に近づき忍び寄ることはできる。

 自分は人間を観察していて気づいたのは、自分がこの人間を嫌悪するように、この人間もまたクモにおぞけが立つらしい。

 それなら。

 一瞬、たった一瞬だけの時間を稼ぐことはできるかも知れない。

 自分の背にはキョウダイが落としたサボテンの刺が残り一つ。毒アリの毒成分を漬け込んでいるので、直撃すればそれなりの痛みになるだろう。

 もう一度だけキョウダイの姿を見て、震える足を奮い立たせる。自分の光が、あんな闇に呑まれる事など許さない。

 ふわりと、人間の瞳に目掛けて飛び降りる。

 頭上は完全な死角。だが人間の感知能力は異常なので、気づかれれば一瞬で真っ二つ。

 何も考えずに単に目の前に飛び出すだけだと、意味もなく自分の命が消えるだけだ。

 その期を待たねばならない。

 自分は、人間の髪の毛に触れないくらいのぎりぎりの位置で宙に止まる。いつでも飛び掛かれるように準備をしないといけない。

 人間を見ると、虎も片手でいなし、狼も蹴り飛ばしている。

 いつだ。いつ、仕掛ければいい。じわりと焦る。

 だが出来ることは、『待つ』ことと『信じる』ことだ。

 途中何度もキョウダイが踏み殺されそうになっても、怒るのではなく静かに時を待つ。


「人間よ、詰みチェックだ」


 女王アリが人間に宣言すると、人間の意識が女王アリに逸れる。

 行くのは今しかない! 

 糸を急速に伸ばし人間の顔面近くまでいくと、その大きな瞳と自分の目があう。その瞳に自分の姿が映る。

 人間は顔を歪め反射的に目をつぶり、軽くのけぞりながら片手で、自分を払い除けようとする。

 自分は振り払われる手の風圧を利用し、空中にとどまり更に人間に近づく。

 そして人間がうっすら目を開けた瞬間、サボテンの針を突き刺した。


「ぐっ」


 人間は大きく体勢を崩す。

 そして、自分は地にふわりと落ちながら見たのは、キョウダイが全速力で人間の体を駆け上がっていくところだった。

 キョウダイの残る前脚は二本しかない。それでも尚も戦い続けている。

 今度は代わりに自分が人間の視線を釘づけておかないといけない。

 ゆっくりと地に落ちながら人間とは目が合ったので、前脚でくいっと挑発してみる。

 冷静だった人間も自分に腹を立てたようで、自分の動きに目に見えて眉を逆立てた。

 人間はこちらに手を伸ばしかけて横を向いた。

 狼と虎が時間差で人間に牙をむく。一匹ずつ容易くいなすが、キョウダイはもう人間の体を上り自身の脚を人間に突き刺す。

 キョウダイは強く振り払われた手に当たり、地に落ちる。身体が軽いからそれ自体は致命傷ではないが、少し体が削れたようだった。

 そして磔になっていた山羊がむくりと立ち上がって、人間に体当たりし、亀も人間の足元にまとわりついて溶岩の淵に押し込むが、人間は何とか態勢を整えた。


「あやうく死ぬところだったな」


 人間は呼吸を整えて、まずは女王アリを踏み殺そうとする。

 その時、溶岩の下から手が伸びた。

 雪山で助けたゴリラだった。身体の半分はもう燃え尽きたように真っ黒になっている。


「神よ。あなたを疑う我が身を許したまえ」


 人間は驚き、何度も何度もゴリラを蹴りつける。それでもゴリラはその手を離さない。

 そして二人でゆっくりと溶岩に消えていった。

 自分はそのまましばらく視線が外せなかった。それは他の生き物も同じようで、じっと溶岩を見ている。

 だが、待ってもそこから人間が這い出てくることはなかった。

 ……やっと終わったのか。

 女王アリがゴリラの命を雪山で拾っておいた狙いはこれかと納得した。人間を止める最後の手として、同士討ちを誘ったのか。

 どこまで知ってるんだろう。

 ……まあ、いいか。

 キョウダイの姿を見ると何やら亀や狼と話をしている。

 どうにも亀を優勝させるつもりのようだ。狼は亀をくわえて優勝台に向かう。

 ……そう、こうなる気がしていたんだ。

 だから、自分はどうしても亀を排除したかった。

 優勝は亀で、キョウダイは命が尽きる。 

 させない。させるわけにはいかない。

 キョウダイは納得して自身の命を諦めたとしても、自分がそれを諦めてやる理由にはならない。

 亀も狼も瀕死。だが、引きずってでもキョウダイを優勝台に連れていく。

 そうしてキョウダイの元に近づこうとする自分の前に虎が立ちふさがった。


「ふむ。弟のクモよ、お主が何をしようとしているかは予想がつくのである。だが、まずはあれを見るのである」


 虎が爪で指示した先には、キョウダイと女王アリが対峙している。

 女王の表情は変わっていない。だが、何となく晴れ晴れとした表情である気がする。

 何故、ここでキョウダイは戦うのだろう。そして女王アリは何を考えているのだろう。

 だが、この戦いには、自分さえ割って入ってはいけないような気がした。


「……さあ、決着をつけよう」


 キョウダイはそう女王に宣言する。

 ここまで来てこのキョウダイと女王は争うつもりのようだ。

 確かにレースでどちらが勝つかは決めないといけないのだが、脚を止めてまですることだろうか。


「ふむ、弟のクモよ。立ち入ってはならぬ戦いというものは存在するのである。命がけの逢引に割って入るは紳士として野暮なのである」

「ジブンはキョウダイに、まだ……」


 言いかけてふと思う。話したいことは多くある。だが、何を話せばいいのだろう。

 それに今は女王アリと戦うところだ。

 キョウダイは責任感が強いから、自分を殺したと思い込んでいるぶん強くなっているのだとしたら、自分が実は生きていたと知れば弱くなってしまうかもしれない。

 それなら、どうするべきなのだろうか。

 

「言い方を変えるのである。あの男ならば優勝台に辿り着く。信じて待つのである」


 虎は断言する。何の根拠もないが、その目は本気のようだった。

 あるいはこれは一種の挑発なのかもしれない。お前はキョウダイを信じてないんじゃないか、という。

 ふざけるな、と自分は思う。自分こそ誰よりキョウダイの事を信じているのだ。


「……そうか、そうだな。優勝台で待っているぞ、キョウダイ」


 もはや、自分の言葉も届かないかも知れない。だが、祈りを込めて自分は声を掛けた。

 そして、虎に連れられて優勝台に向かった。

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