第37話 天国と蜘蛛の糸 影と終焉と

 優勝台は空に向けて昇っていく。その更に先でキョウダイと女王アリが相争っている。

 女王アリがニンゲンの姿になり、さらには羽根を生やすなんて思いもよらなかった。それでもキョウダイはろくにもう目も見えぬだろうにやりあっている。

 黒い姿のキョウダイと、輝く白い羽根の女王アリの戦いから目が離せない。


「きれいだ」


 その場にいた誰かが言う。

 ああ、まったく同感だ。ずっと戦いを見ていた気もするのだが、それは一瞬の事だったのだろう。

 キョウダイが女王アリに捕まった。これで終わりなのかと息を飲んだ。

 だが、視界の端から赤い火が二匹に向けて飛ぶような速さで向かっていく。

 キョウダイは、自身の糸に火をつけたのだ。

 そして一瞬、空が赤く光ったと思ったら、ぼとりと女王アリが優勝台に落ちてきた。羽根も燃え尽き、火によって身体は黒ずんでいた。腕が無事なようだったのだが、何故か受け身をとることがなかったので身体の関節がおかしな方向になっている。

 その腕の中には、黒ずんだ塊があった。それを見て、自分は愕然とする。

 そこにいたのは、もはや原型を留めないキョウダイの姿だった。

 生きている方がおかしい。もういつ息絶えてもおかしくはない。

 キョウダイは意識を取り戻したのか、女王アリと一言二言交わすと優勝台に向かって這いずっていく。

 自分はただ、その後姿を見ていた。

 途中途中でこれまでキョウダイと道を共にした生き物たちに声を掛けていく。

 ……邪魔をしてはならないだろう。これが最後の別れになるだろうからだ。

 亀は優勝して転生するだろう。それに自分もこの場に生きて辿り着いた以上同じく人間となりうる。だが、その他の生き物がどうなるかは何も言われていない。

 同じ生き物に転生するのかもしれないし、あるいは命も魂もここで終わりかもしれない。

 少なくともキョウダイが亀と話し終えるまで、少し待とう。

 自分は話しかけたくなる気持ちをぐっと抑えて、キョウダイを後ろから見つめることにする。

 いや、本音を言えば話しかける勇気がない、だ。生き残る側の生き物がこれから死ぬ生き物に何を言えるんだろう。命にとっては生きる死ぬが一番の問題で、それ以上はない。そのはずだ。

 だが、キョウダイが話しかけている虎だろうが狼だろうが女王アリだろうが、どの生き物を見ても穏やかな表情をしているように見える。

 優勝や人間に拘らないとしても、お前らの命だってもう尽きるのだろうに。

 満足であるのか、諦めであるのか、納得なのか。自分にはわからない。

 キョウダイは亀と話をしているうちに、最後に残ったぼろぼろの前脚もとうとう折れて失ってしまった。


「楽しかった。ありがとう、カメ子」


 キョウダイはそう言い残すと、ふわりとした風に吹かれて優勝台からゆっくりと落ちていく。

 時間が急に遅く進むかのようだった。

 これでよいのだと、誰もが納得している。

 だが。……だが、それでも。

 自分の脚は落ち行くキョウダイに向けて走りだす。

 そして思わず自分は優勝台に糸を巻き付け、そこから飛び降りる。

 そして自分は落ちながら、キョウダイに近づこうとする。

 こんなことをして何がどうなるかなんてわからない。だが、どうしても心を割り切ることができない。

 キョウダイは他の命は諦めなかったから、みんなでここまでこれたのだろう。

 自分だって、命が燃え尽きるまで足掻こうじゃないか。

 覚悟を決めて一歩を踏み出したのなら、あとは冷静に行動するだけだ。

 下は溶岩の熱で気流が乱れている。ただの小クモの一匹には厳しい変化だ。

 だが、自分は見てきた。じっとキョウダイを見てきた。

 キョウダイは風に舞って宙に踊る。

 それなら風を読むくらいならば、同じ生き物である自分にだって出来るはずだ。

 自分の八つ目の全てで風を視認して未来を予測する。宙にある埃の一つ、触覚の全てを利用して風の動きを知っていく。そうして前脚と糸を振り態勢を整え、じたばたと足掻くように泳ぐようにしてキョウダイに近づく。

 そうしてようやっと、もはや何の生き物かもわからない黒い塊を自分は掴む。

 全ての脚で傷つけぬように抱えるようにする。キョウダイにもう意識はないが、ほんの僅かだけ命がまだある。


「キョウダイ! 諦めるな! 目を開けろ」


 自分の身体よりはるかに軽くなっているキョウダイの身体を抱える。

 分かっていたことだが、これだけ傷がついては仮に傷口を縫ったところでどうにもできない。

 自分以外の他の生き物だって、対処はできないだろう。

 どうにかならぬものはないのかと考えを巡らせ、堂々巡りでありもしない期待をしてしまう。

 今までキョウダイに助けられて生きてきた自分は、誰かが助けてくれるという幻想を抱きやすいのかもしれない。

 光る玉は自分自身の事を神みたいなものだと言っていた。それなら、自分にはどうにもできないことを何とかしてくれる存在がどこかにいるのかもしれない。

 それは、ニンゲンがよくしている祈りというものなのかもしれない。


「もしもいるなら、神よ!」


 キョウダイを落とさないように抱き留めながら、自分は上を見上げた。


「俺の脚も、体も、魂もいらない。だから、今、キョウダイに命を!」


 自分は叫んだ。叫ぶしかできない。

 どうあっても、キョウダイの命に諦めはつかない。

 だが、世界はやはり甘くない。

 これまでだって、自分たちにとって都合のいいことなどなかった。

 天からの応えはなく、声が聞こえてきたのは地の底からだった。

 期待する答えの代わりに聞こえてきたのは、耳が腐るようなどろりとした呪詛だった。


「反吐が出るほど、うるわしい兄弟愛だな。お前らはいい加減に、くたばれ」


 舌打ちの音が聞こえて、自分が下を向くとそこにはマグマで燃え尽きたはずの人間がいた。

 優勝台の下にはいつの間にかロープがぶら下がっており、そこにしがみついている。

 下半身は半ば炭化しているが、腕の力だけで登ってきている。


「人間っ! なぜだ! なぜ生きている!」


 自分は動揺を抑えられなかった。


「これでも、特別製の体でね。……まったく、快楽の為に触覚を残しておいたのは誤算だったな。下手をしたら永遠に焼かれ続けて苦しむところだった」


 その言葉に、腑に落ちた。つまるところこの人間は、元は蛇と同じく運営側の人間なのだろう。道理でコースに異様に詳しく、溶岩なんて用意できたのだ。

 そんな者がレースに参加したのは、どんな理由かは知りようもない。だが、分かることは一つ。この人間は自分達全ての生き物にとって脅威だということだ。

 

「そうだ。知っているか? 人間は自分にとって都合のいい力ある者を神と呼び、都合の悪い力のある者を悪魔と呼ぶんだ。残念だったな、オレが神ではなくて」


 人間は口元を半月の形に歪めて笑う。

 どこまでも執拗でしぶとい。悪意がある以上、こいつとはどうあってもここで対決するしかない。

 しかしどうやって? 糸を伝って戻ろうにも、自分はキョウダイを抱えているために動けない。少しでも衝撃を与えるとキョウダイの体が砕け散ってしまうかもしれない。

 できること……まずは、人間を観察しよう。

 両手の力でロープを昇ってきていて、だんだん自分達に近づいてきている。

 だがよく見ると、人間の右足が全く動いていない。足は大きな手の形に陥没している。おそらく、ゴリラに握りつぶされた足だ。

 自分と同じ高さまで来ると、軽くロープを揺らしてこちらに手を伸ばそうとしている。

 こちらを殺そうとしているのか?


「あんたも死ぬぞ、いいのか?」

「ああ、それより、お前らにはどうしてもここで死んでもらいたくてな。本来はクモになぞ近よりたくもないが、そうもいっていられんからな」


 どうしてだ。この人間に、ここまで拘られる理由が分からない。


「何故、憎む? ジブンたちはあんたに何をした?」

「……何も。……というか、お前らごときオレに何かできると思うなよ」

「それなら、ジブンたちは放っておいてくれ」


 こっちだってこんな奴に少しも関わりたくない。


「嫌いなんだよ。お前らみたいなのが生きていると思うだけで、気持ちが悪くて落ち着かない」

「ふざけるなよ。自分たちは、どんな気持ちで生きてきたと思っている」


 生まれてからこれまで生きるのに必死だった。走り回って、戦い続けて生き残ったと思っても、落ち着くまもなくこんなレースにたたきこまれる。


「お前らの苦痛なんざ知ったことか」


 人間は一笑に付した。

 他の命の在り方など、この人間にとってはどうでもいい事のようだった。


「お前らは、ここで意味もなく死ね」

「ぎぎ……断る。ジブンたちの命の行方を、あんたが勝手に決めるな」


 期せずして、キョウダイと同じことを口走ることになった。

 人間は自身の掴むロープを揺らし、勢いをつけてこちらに近づいて自分たちの少し上に手を走らせた。

 やはり自分たちに触りたくないのか、優勝台に繋がっている糸を切ろうとしているようだ。

 糸にぎりぎりとどきそうなところまで手を伸ばしてきた。

 次に同じことをされたら、糸は切られてしまいそうだ。


「どこまでもしつこい奴めっ」

「お前こそ、いい加減諦めろ」


 自分は人間に対して吠えながらも、打つ手がなかった。

 キョウダイを抱えているので、糸をたぐってもとの場所にも戻れない。

 心の中の焦燥も強まるが、どうにもできうる状況ではない。


「何度殺そうとしても生き残る。……運のいい奴らだ」


 運がいい? そうでもないと自分は思う。

 そもそも運が良ければ、最初から生きづらいクモになぞ生まれていない。

 何より、だ。


「キョウダイの必死の行いを、運なんて言葉で貶めるなよ」

「ふん、馬鹿馬鹿しい。そら、後ろを見てみろ。お前らに助けがくるのは運以外のなんだというんだ」


 人間のその言葉に警戒しながらも、目の一つで後ろを確認する。


「捕まってっ!」

 

 すると直ぐ近くで響いたのは、亀の声だった。

 いや、まさか亀が宙に浮けるはずなどない。

 亀の尻尾には蛇が噛みつくように、蛇の尾には狼が噛みつき、その先には虎がいる。

 生き物たちがその身体でもって、一本の糸のようにつながっている。まさしく命の綱だ。

 それを見た人間は都合がいいとばかりに、くつくつと笑う。

 間違いなく、自分たちを始末する気だろう。

 ……この人間はここで倒さないといけない。

 自分とキョウダイが亀に飛び移れたとしても、人間は必ず邪魔をする。そして自分たちを皆殺しにするだろう。

 このままでは人間に全てを奪われてしまう。

 キョウダイがあれだけ頑張ってきたのに、命も削ってここまでたどり着いたのに、全てが台無しになってしまう。キョウダイの勝利をなかったことになど、させはしない。

 時間がゆっくり流れている気がする。

 今、自分はとても静かな空間にいる。何の音も聞こえない。

 だから、もう少しだけ考えてみた。

 この人間は強い。まずはそれを認めることから始めよう。

 体の大きさ、戦う技術、ぶれない精神。負けるための言い訳はいくらでも思い付く。

 だがキョウダイならば、それでも冷静に立ち向かうだろう。

 まずは人間を観察してみる。両手でロープにぶら下がって、笑みを浮かべているがよく見ると時折表情が引きつっている。特別な体とはいえ、肉体のダメージはそれなりにあったのだろう。それに、どうにも片足が不自由なようで全く動いていない。ゴリラに潰された足が響いているんだろうか。

 この人間はこの人間で余裕がなくなっているのではないだろうか。

 これまでの人間の行動を一つ一つ思い返してみる。

 この余裕綽々な人間が驚いたのは、たった一回きりゴリラが現われた時だった。

 ……試してみるか。


「いまだ、やれっ、ゴリラっ!」


 人間は一瞬、視界を自分から離した。

 気を引くために言っただけなのだが、人間には何かが見えているようだ。

 舌打ちすると、人間は何もいない空間を何度も踏みつけた。


「放せ、この猿がっ」


 幻覚、……なのだろうか。少なくとも自分の目には何も映っていない。

 自分はこの隙に、糸を動かして亀に辿り着いた。

 そしてキョウダイを亀に括り付けてから、小声で伝えることにした。


「キョウダイの事、頼む。最後の一瞬まで、助けてやってくれ」

「もちろん、任せて」


 亀は力強く頷いた。亀や蛇、狼や虎の命の綱は、誰か一人でも力尽きれば諸共に溶岩真っ逆さまのはずなのだが、どうにも頼りがいがあり丈夫なように見える。

 それならもう、何も心配することはないな。


「弟さんはどうするの?」

「ぎぎ……決着をつけてくる。地獄の道でのキョウダイへの借り。ここで返す」


 なんだかんだと自分はキョウダイを殺しかけた。

 例えキョウダイがその事を許したとしても、自分で自分をまだ許せていない。

 だから、その贖いはここで果たそう。

 人間は今、見えないものに恐れを抱いている。

 ならば、恐怖をさらに掻き立ててやる。人間の最後の弱点は、自分たちの姿だ。

 何度も繰り返して、人間は口にしていた。自分たちの姿が嫌いだと。

 嫌悪は恐怖の裏返しだ。そして感覚が鋭敏な人間ならばなおさらだろう。

 自分は亀の背を蹴って、勢いをつけて人間に飛び掛かる。


「よるなっ、汚らしい蜘蛛がっ」


 遠近法というものが人間にはあるそうだ。

 それは近づけば近づくだけ、姿は大きく見えるという。

 気配を感じてか、人間がこちらに振り返むいて目を大きく見開いた。

 本来ならば自分の身体程度では何もできないはずなのだが、人間は自分を振り払おうと体を傾けて右手で振り払おうとする。ずるり、とロープを持つ人間の手が滑る。


「ふざけるな! 貴様ら如きが! オレを誰だと思っている!」

 

 落ちながら人間は叫ぶ。

 自分と異なり、空気抵抗の少ない人間は勢いよく落下していく。

 ぼちゃり、と溶岩に人間は墜落した。

 聞こえるのは叫び、あの人間だけの叫び。

 阿鼻叫喚。そんな地獄があるという。死ねぬ世界を地獄というなら、人間が落ちた先はまさにそこだ。

 あの人間は、これからも特別なボディとやらで焼かれ続けるのだろう。


「ぎぎ……あんたは人間だよ。きっと、どこにでもいる人間なんだろうな」


 そして今度こそ、人間は浮かび上がることはなかった。

 やっと、……やっと勝った。

 安堵とともに、自分も人間よりはゆっくりと溶岩の海に落下する。

 これが自分の命の終着か。けれどもそれも悪くない。

 善なるものは貴重だ。キョウダイにしろ、亀たちにしろ一億の命でもどれだけいるものだろう。

 だとしたら悪魔と差し違えるなら、自分のような悪の方がいいだろう。

 地獄行きの席など、少ない方が良いのだ。

 さよならだ、キョウダイ。

 ああ、自分も落ちる。

 まあ、いいさ。キョウダイが一瞬でも助かるなら、それでもいい。

 わずかの寂しさと、確かな満足と共に溶岩を見つめていた。

 しかし、自分の体はふわりと持ち上がった。

 何故、落ちていかない?

 驚いて自分の体を見ると、キョウダイがいつのまにかの吐いた糸が、自分に絡まっていた。

 意識を失ったままのキョウダイは、いつのまにか俺に糸を結び付けていたようだった。


「……兄弟。約束した……誰にも負けない……と」


 朦朧とした意識で、キョウダイが小さく呟く。

 そう、約束したんだ。渇きの海で仲直りをした時に。


「ああ、そうだ! その通りだ! キョウダイ。ジブンも、キョウダイも誰にも負けていない。いいや、勝利だ。ジブンたちは、力を合わせて、全てに勝ったんだ!」


 意識を失っているキョウダイに、それでも必死に声をかける。


「だから、生きろ。……生きよう、これからもだ。どんな姿だろうが、どんな生き物だろうが、共にあろう」


 これが自分の願い。夢だ。

 いつか、自分も兄弟と一緒に花火を見るんだ。

 だから神よ。

 さっきのは取り消す。命の全てと引き換えじゃない。

 取り消しなんて都合がいいって言い出すなら、そいつはお互い様だろ。あんただってミスしたから、こんな悪魔みたいな人間がレースにいたんだろう。

 だから、自分の命と魂の全てじゃない。自分の半分をキョウダイに。これからは体も命も魂も、二人で分かち合っていきたい。

 いきる。

 いきるんだ。

 いきたいんだ。

 命綱とともに昇る優勝台の先にある光に、自分たちの身体は包まれていった。

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