舞台袖

第31話 開幕前 影と太陽と

 人間レースが始まる前の事だ。


 あれはそう、自分が生まれた瞬間の話だ。

 卵の殻を破って、光を感じ周囲を見渡す。八本足で八本の目のおびただしいほどの兄弟たちが孵化していた。

 そして、その端から親クモに喰われていく。

 生まれ落ちた瞬間から、食い殺そうとしてくる親クモから逃げきれねば、死するのが自分達の運命だ。

 運命はそこで振り分けられる、すぐに動ける強い生き物か、恐怖に足を竦める弱い生き物か。

 そして自分は、動くことのできない弱い生き物だった。

 自分よりずっと大きい親クモは、動けない自分に視線を合わせてきた。

 逃げなくてはならないが、体が痺れたように動かない。


「ぎぎ……」


 がちがちと、自身の牙が恐怖で震えている事だけが分かった。

 時間の流れが急に遅くなったかのように、ゆっくりと流れていく。

 何のために生まれたのか知ることもなく、ただただ餌になるために生きるだけの命。それが自分だった。

 悔しいとも悲しいとも思えないほどに、自分の命は空っぽだった。

 そんな自分に嘆くこともできないまま、このまま親クモの牙にかかるのかと思った刹那、何者かに強い力で引っ張られた。

 ふと体をみると、自分に糸が結びつけられていた。

 自分を引き寄せる先を見ると、自分と同じ姿のクモがいた。

 その糸に引っ張られながら、自分は初めて世界を駆けだした。

 この目の前のクモは、自分と同じタイミングで生まれたクモなのだろうか。

 そして自分は、このクモに助けられたのだろうか?

 何故だろう。意味が分からない。

 だが、考える時間はない。親クモがこちらにも襲い掛かってくるからだ。

 自分たちは、とにかく走った。

 走って走って走り続けた。多くの障害を乗り越え、時には何度も足を踏み外しそうになったが、その度に糸に支えられながら

 そして体の小さな俺達にしか入り込めない隙間を見つけて、親クモをやり過ごしてやっと息をつくことができた。


「ぎぎ……何故、自分を助けた?」


 この自分と同じ姿ではあるが、決して自分と同じではない生き物に問いかけた。

 ここまでリスクをおって、この生き物にはどんな思惑があるのだろう。


「俺にも分からない。何となく、苦しそうに見えたからかもしれない」


 その生き物は考え込んだあげくに、そんなことを言い出した。


「直感で動いてしまったが、何かしらの理由はあるだろう。多分、一匹で行動するより二匹で行動した方が生存確率が上がるだろうし、何か利用できるのではないか、とな」


 その生き物は、おそらく後付けの理由を答えた。

 もし自分を利用する気だったら、何も言わずに恩に着せていればいい。

 こいつは、おかしな思考回路をしている。そう思った。


「自分は駄目だ。弱い生き物だ。利用価値すらない、ただのゴミくずだ」


 何故なら自分は弱い。動くだけの意思がない力がない。だからこの世になんの価値も持たない。


「ぎぎ……さあ、自分を喰え。喰ってしまって、あんたが動くための燃料にしろ」


 自分は醜いな。

 本当に自分はあさましい。

 死ぬことだって自分では選べない。

 目の前のクモと同じ姿をしていながら、何もかにもが違う。

 生きることを命を惜しまず選ぶことができる目の前のクモと自分はあまりにも違いすぎる。

 同じ姿のはずなのに、いったい何が違うのだろう。

 クモは静かに自分に近づいてきて、前脚を振り上げた。

 ああ、これで終わるんだ。

 自分は覚悟を決めた。

 そしてざくり、と軽く体をつつかれた。


「……った!」


 自分は思わず声を上げてしまって、クモは前脚を止めた。


「刺されたら、痛いだろう」

「ぎぎ……やるなら一思いにやってくれ。折角、覚悟を決めたのに」


 自分はたまらず文句を言ってみる。


「死ぬ覚悟をしてどうする」


 クモは腹を立てたようだ。先ほどまでより声が低く、唸るように機嫌を悪くしている。


「ぎぎ……あんただって覚悟したから、あの親クモに立ち向かったんだろう?」


 それもただ逃げるだけじゃない。

 自分のようなお荷物を抱えた上で、生き延びた。


「生きる覚悟をしろよ」


 自分には同じ言葉に聞こえるが、何かが違うんだろう。

 それこそ自分とこのクモのように、似ていたとしても全く本質が異なるのだろう。


「生き辛ければ、多少は手を貸すぞ。……兄弟」

「キョウダイ?」

「……ああ、そうだ。隣で生まれたからな」


 キョウダイ。自分はその響きが何となく気に入った。


「お前の苦痛は、俺の嘆きでもある。俺だって、何でこんな生まれなんだ、って思ったよ」


 そうか、キョウダイも悲しかったのか。それは自分だけではなかったんだな。

 ただそのうえで、ああした行動がとれるのか。

 何故、他の命に目いくのだろうか。得の一つもしないというのに。

 ただ、この頭のおかしいキョウダイのことは嫌いにはなれなかった。

 キョウダイ、いい響きだな。

 隣で生まれたものは本当に数え切れないほどいる。だが、自分がキョウダイと呼びたいのは、有象無象の自分と同じ姿をした連中ではなく、この目の前にいる一匹だけだ。


「俺達の運命は、俺にだってよく分かっている。俺達の体の小ささだと、基本は何かに喰われるだけだし、仮に生き延びて遺伝を残せてもその後に雌に食い殺される」


 それが自分たちに課せられている運命。


「命には意味がない。だから喰われるのは仕方がない」


 そう、そうして命は巡っている。


「……でもな、きっと世界それだけじゃない。この世界に何かの望みや願いができるかもしれない、それに生きるに足る価値のあるものだってあるかもしれない」


 キョウダイは、自分でも信じていないだろうことを口にした。

 だって自分たちは今、同じタイミングで生まれた。希望などないことなど本能に刻まれている。

 否定の言葉なら、いくらでも作れる。

 けれど、キョウダイを見ているうちにそんな言葉は失われていった。


「ぎぎ……そうか。生まれてきてよかったと思える価値のあるものが、いつか見つかるだろうか?」

「仮に命に意味がないのだとしたら、意味は後からつければいいだけだ」


 眩しいな。

 そうだ、キョウダイを見ていると光を感じる。

 自分は目の前のキョウダイが、特別なものなのではないかと思った。

 もし心が器でできているなら、キョウダイといると満たされていくのを感じる。

 早速だが自分には命の意味が、あるいは願いができた。

 こんな生き物になりたい。

 少しだけ死ぬのが怖くなって、生きてみたいと思うようになった。


「ぎぎ……キョウダイの言う通りだ」


 自分は強く頷いた。


「さて、そろそろ行こうか」


 キョウダイはそういって自分に背を向ける。

 この背中を追っていれば、どこにだって行ける。

 この無慈悲な世界だって、生き続けることができるのではないか。

 どこまでもそう信じられる背中だった。

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