第32話 大地の監獄 影と恋人と

 随分と長い夢を見ている気がするが、目が覚めるに伴って零れ落ちるように夢の内容を忘れていく。

 だが、その中に忘れてはいけないことがある気がする。

 それは、キョウダイの事だ。自分はキョウダイを探さなくてはならない。


 ふと、自分が目が覚めると透明の檻のようなものに入れられていた。

 色々な生き物がそこにはいた。

 大型の生き物もいれば、自分より小さいくらいの生き物もいる。

 ただ自分にとって問題なのは、ここのどこかにキョウダイがいると感じることだ。

 何となくではなく、何故か具体的な距離も分かる。ここからだと32メートル、15度の方向にいる。

 キョウダイとはしばらく会えていなかったが、今はどうしているだろう。

 そわそわと、透明の檻が開けられるのを自分は待っていた。


「やあやあ。みんな――」


 そうしていると、光る玉が人間レースの説明を始めた。

 自分は聞き流しながらキョウダイの位置を追った。

 レースに勝てば人間か。

 人間に拘っていたキョウダイにとっては朗報かもしれない。

 強い生き物はいくらでもいるが、キョウダイならこのレースを制することができるかもしれない。

 体の大きさを考えると多少不利ではあるのは事実でもある。だが、キョウダイならばと期待してしまう自分がいる。


「キョウダイっ!」

 

 自分は声を上げるが、キョウダイまでの距離が遠く気付かれない。

 そして、キョウダイも移動を始めており、なにやら優勝台で光る玉と話をしている。

 自分は、他の生き物に潰されないように必死で移動する。

 やっとのことで、光る玉の所に辿り着いたら、キョウダイは今度はレース会場に降りて亀に話しかけていた。

 自分は、その亀を見て不安を感じた。

 その亀は、まずい。何だか分からないが、こいつはキョウダイの命を縮めてしまうのではないかと。

 なんとかキョウダイに近づこうとする。だが、入口の奥に黒い柱ができているのを見て、自分は足を止めた。


「ぎぎ……あれは、一体……」


 自分はポツリと呟いたつもりだったが、レースの管理者から声を掛けられた。


「女王アリだよ。だからあれは、アリの群れさ」

「何という……。だが、おかしい。あれだけのアリの群れになるためには、どれだけ準備を早くしていたというんだ?……いや、そんな事より」


 黒い柱が気になりもするが、それよりもキョウダイの事だ。

 キョウダイと亀の細かい話は聞こえないが、どうやら亀を励ましているようだった。


「キョウダイめ。自分というものがありながら、あんな亀にうつつを抜かすとは」

「うーん。君って結構なブラコンなんだね。それとも、それだけあの小さいクモには魅力があるのかな」


 ブラコン? よく分からないが、良い響きだ。多分、褒められたのだろう。


「ぎぎ……魅力、なるほどそうかもな。自分と兄弟がそろいさえすれば、このレースなど乗り越えられるし、その方が安全かもしれない」

 人間を見ていると底知れない

「難しいと思うよ、いくら何でもそんなことあるわけないよ。……このレースどれだけ試練があると思ってるんだい? そう何度も奇跡は起きないし、仮に一度奇跡を起こしたくらいじゃ、試練の数は乗り越えられないね」


 自分は適当に考えて答えた。


「試練の数……四つくらいか?」

「……当てずっぽうでも大したものだよ」


 当たっていたようだ。

 そう、自分は知恵と勇気でキョウダイに及ばないのだ。

 せめて直感くらいの何かしらの長所がなければ、キョウダイの隣には立てまい。


「まあ、昔から勘は良い方だ。だから、何となくわかる。あの亀さえおかしなことをしなければ、キョウダイは必ずここに辿り着く」


 別段、あの亀自体に悪意を感じているわけではない。

 だが、キョウダイは知っているはずだ。他の生き物は、誰かを利用する生き物だと。

 そして、生き物というのは良くも悪くも変化する。全ての生き物に善が宿るわけではない。

 それなのにキョウダイは、他の生き物の善意を信じようとする。生きるのには優しすぎるのだ。キョウダイが、たまたま強い精神を持つばかりに生き残っているだけで、本来だったら何度命を落としているか分からない。

 もし悪意に飲まれなかったとしても、あの亀は弱い。弱い生き物に関わると、キョウダイはつい助けてしまうだろうし、それが元で破滅しそうな気がする。

 だが、賢くもあり愚かでもあるキョウダイには、自分がいかに説明しても聞いてはくれまい。何だかんだと言い訳をして、結局亀を連れてあるくだろう。キョウダイがそうすることの危険性に気づいたときには、もう目の前には死が迫ってしまっているだろう。

 どうしたものかと、自分は堂々巡りで考える。

 その間にキョウダイは亀の背に乗り、アリの一団から逃れるようにスタートしていった。


「ねえ、君。これからどうするの?」


 どうするべきだ。

 ここに残るのはまずい。

 だとすれば、いつもの事だ。


「ぎぎ……キョウダイを追う。自分が生き残る道はそれしかない」


 生き残りたい。そして何より、あの背を追いかけたい。


「ボクは、あの小さいクモが生き残れるとは思わないんだけどね」


 そのあと、光る玉は自分に文句を言うように声を荒げて否定した。

 光る玉のそんな言葉に、自分はふっと息を漏らした。

 口で何といおうと、何か思うところがあるからこそ態度にはこうして現れているのだ。

 なんだかんだ言って、この光る玉もキョウダイを気にかけているに違いない。

 本当に何とも思わなかったら、反発さえすることもないだろう。


「なんなの? 君のその態度、腹が立つんだけど」

「ぎぎ……素直に生きた方が、命は楽しい」


 ともかく自分は、キョウダイを見失わぬように後を追いかけることにした。



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 自分は途中でキョウダイを追い越し、長い壁の上でキョウダイを待ち構えることにした。

 ここならば、亀は上れまいと思ってのことだ。

 だがしかし、キョウダイはあろうことか亀を糸で引っ張り上げながら壁を登っていった。

 ニンゲンで言う恋人でもあるまいに、随分と仲が良さそうだ。


「おい、何の用だ。俺は争う気がないぞ」


 もちろん、自分だって争うつもりはない。……なかった。

 だが、久しぶりにキョウダイから声を掛けられたのが、そんな苛立ちを隠せない言葉だったので気に障った。

 むう。キョウダイよ、何故に自分を睨むのだ。

 それはきっと、この亀がいるからに違いあるまい。

 亀は足手まといそのもので、キョウダイの糸にしがみつきながら壁に張り付いている。

 自分にはそれは地獄の底で、亡者が張り付いているようにしか見えなかった。

 キョウダイの体はミシミシと軋んでいる。このままでは、どう考えても引きちぎれるだろう。

 亀も必死の形相だ。余裕がない今だからこそ、亀は本性をさらけだすかもしれない。


「ぎぎ……亀、そのクモは、欠陥品だ。脚も失った。ここを抜けたらジブンと組め」


 自分はキョウダイに話しかけずに、亀にそう問うて揺さぶってみようとした。

 こんな程度の誘惑に負けるような亀ならば、自分がこの場で亀を始末するがな。

 亀の身体は俺よりずっと大きいが、平地ならともかくこの場所では壁を歩ける自分の方が圧倒的に有利だ。

 だから亀に自分と組んだら有利だと、分かりやすく伝えてみる。

 すると、亀は毅然とした態度で俺に反発した。


「嫌に決まってるよ。怒るよ」


 拒絶はされたが、思ったより尻軽な亀ではなかったことには少しばかり安堵した。

 こういう亀だからキョウダイは連れて歩いているのかもしれない。だが、このまま一緒に亀と進めば、多分キョウダイは亀に情が沸いてしまうだろう。

 だとすると、仮に最後まで辿り着いたところで、せっかく得られる勝ちを譲りかねない。

 ならば、やはりここで亀は始末しよう。例えここでキョウダイに嫌われようが、キョウダイが死ぬ所を見るよりはずっといい。

 例え命を懸けてでも、キョウダイが亀に結び付けている糸を、ここで断ち切らねばならない。


「ぎぎ……諦めろ。ここが、終着だ。所詮、ジブンたちは、その程度の生き物だ」


 亀と自分は普通の生き物だ。キョウダイとは違うのだ。

 それにキョウダイがこのレースを進んでいくんだとしても、この亀は邪魔になるだろう。自分たちの前脚は、他の生き物より多い。だが、それでも全てを救えるほどには多くない。

 その亀はキョウダイの糸より重いんだ。自分自身より重たい荷物を抱えた生き物はどうなるかなんて、死ぬ以外の道はない。キョウダイだって、そのことはよく知っているはずだ。

 ここで引いてくれるなら、自分もキョウダイを傷つけずに済む。


「俺の限界を、お前が決めるなよ。諦める理由を、俺に求めるな」

 

 兄弟は退かなかった。重力に反し、自分に立ち向かう兄弟を見て心がざわめく。

 キョウダイはどこまでも輝いて見えるのだ。光に集まる虫のように自分はいつも惹きつけられる。

 自分の中から論理というものが吹き飛んでいくようだ。居ても立っても居られない。

 生存するという命にとって唯一大事なことよりも、目の前の生き物に相対することが価値があるような気がする。

 喰うためでも奪うためでもない、あるいは勝つためでもなく、ただ本気になったキョウダイを見てみたい。

 同じ体。同じ性能。頭上の有利、脚の数、足手まといの亀。どう考えても自分が勝つ要素しかない。

 だがそれでも、ひょっとしたらキョウダイは自分を力を超えるかもしれない。

 超えて欲しいとも願ってしまった。そんな姿を見てみたいと思ってしまった。

 キョウダイが勝ち残る。自分が生き残る。そのために互いに争うことなど無意味どころか有害だ。

 だが、どこまでキョウダイが強いのか確かめてみたい。どれだけ本気で他の命の事を守れるのか知りたい。

 これはさがだ。男としての性でもある。だがそれ以上に、光を求める生き物としての性だ。

 気が付いたら俺は壁に糸を残し、キョウダイの眼前まで迫っていた。

 キョウダイはたった三本の足で、自分の八本の足をしのぎ切る。

 勢いをつけてぶつかるために糸を使い一瞬、キョウダイと距離をとる。

 するとキョウダイは自身の前脚を噛み切る。そして自分と交差する瞬間に、千切られた脚を剣のように突き立ててきた。

 自分はなすすべもなく、身体につきささった前脚を眺めることになった。


「ぎぎ……見事……だ」

 

 心のそこからそう思う。自分はキョウダイにぐうの音も出ないほど完敗した。

 身体が貫かれて、自分の意識が薄くなっていった。

 



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 自分は気が付くと、地に伏していた。

 体が軽いものだから、この高さから落ちても生き残れたのだろう。

 それに、キョウダイにギリギリのところで手加減されたのだろう。俺の体に前脚が刺さったままだが、体を貫くほどには押し込まれてはいなかった。


「ふっ……流石だキョウダイ。あの状況をひっくり返すとは……。冷静クールの中にも、激しい情熱パッションがなければなしえぬことだ。そして自身を救うだけでなく、足手まといの亀すら助けるとは。これこそ無双の……む?」

 

 キョウダイを賛辞していたら、背後から大きい影が伸びてきた。


「なあ、お前。あのクモの、いったい何なんだぜ?」


 そこにいたのはキョウダイと話をしていた狼だった。こちらを怪訝に見ながら声をかけてきた。


「自分たちは、この世でたった二人きりのキョウダイだ」


 同じタイミングで生まれた同じ種族は無数にいるが、自分と兄弟は特別だ。


「じゃあ、何で殺しあってるんだよ?」

「キョウダイの恰好がいいところが見たかったからだ! それと亀に嫉妬していたのかもしれん! だって、自分という者がありながら、あんな亀と行動しおってからに。悔しい。おのれ、あの亀め!」


 自分は地面をざくざくと抉った。なんだか気持ちを吐き出してみると、すっきりした。

 なんだかんだ理由をつけて亀が嫌いだったのは、嫉妬をしていたからなのだろう。

 狼は自分の様子をみて、くつくつと笑った。


「お前、正直だな。なかなか愉快な奴なんだぜ」


 狼は小さく笑って、いつのまにか振り上げていた前足をそっとおろした。


「それで、これからお前はどうするんだぜ」

「キョウダイに無駄な傷を負わせた。その分の借りは返さないといけないし、自分が生き残るためにはキョウダイの後をついていくことが必要だ。だから、これから追いかける」


 自分はそう言いながら、狼の後ろ足に飛び乗った。

 

「それで、何で私に乗ろうとするんだぜ?」

「ジブンは、キョウダイの位置が何となくわかる。連れてけば役に立つぞ」

「いや、だから何で私があのクモを追うと思ってるんだぜ?」

「ぎぎ……だってあんた、キョウダイに惚れ込んでるだろう」


 狼は自分の言葉に、しばらく沈黙した。


「本当に不思議だぜ、私はあいつと同じ姿のはずのお前を見ても、何にも思わないんだぜ」


 狼の婉曲的な言い方からすると、自分の何となくの感想は真実だったようだ。


「私はこの気持ちが何かを確かめたいんだぜ、……だから、振り落とされなきゃ別にいいんだぜ」


 軽く吠えると狼は絶壁を駆け上った。

 死体が積み重なるのを待つのもなく、この狼にはこれくらいの能力があった。

 風圧がびりびりと身体をうった。


「なあ、ここまで能力があったら、さっきは何でキョウダイを助けなかったんだ?」

「それはお前と同じ理由なのだぜ」


 狼はそう言って軽く笑みを浮かべる。

 強い信頼があるのだろうが、何となく悔しくなったので自分は狼に言い返してみた。


「ふん。自分はキョウダイとは生まれた時には隣にいたんだからな。お前なんかより関係性はずっと深いんだぞ」

 

 威嚇するように前脚を上げてみる。


「私はあれだぜ。あいつに最初に出会った時に、なんていうかこうビリっと来たんだよ。関係性の深さは出会いの長さじゃないんだぜ」


 俺が言うことにすぐに言い返してくるこいつは、意外と負けず嫌いなのかもしれない。


「よし、目的は違えど方向は同じだ。さっさと行こう」

「いや、待つんだぜ。あいつらと少し離れたのには理由がある」


 何だろう。これだけハイスペックな生き物はどんな困難でも乗り越えられそうなものなのだが、立ち止まるとはどんな理由だろう。


「そろそろ腹も減ってきたことだ。多少の補給をしておかないといけないんだぜ。でも食事中を見られて、はしたない女だとか思われても嫌なんだぜ」


 すごく、くだらない理由だった。

 狼が倒れている他の生き物に噛り付いて食事をしている傍ら、自分は次の試練はどんなものが待ち受けているのだろうと思いを馳せた。

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