第2話 運命の輪は静かに転がる

「おい。お前、何で泣いているんだよ」


 俺は苛立ちを感じながら、涙の溢れる亀に尋ねる。


「だって、わたし亀だよ」


 脈絡がない言葉のようだが、亀の言葉の意味はよくわかる。

 一億の命でのレースで、たった一つの席をめぐって勝たなければならない。

 突然言われたとき、俺だって絶望的な気持ちだった。

 圧倒的なその他に比べて、この身体。有利不利と言う次元の問題ではない。


「それがどうした。お前が亀である事は、お前が生まれた時からわかり切っている事だろう」


 だからこそ俺は、無性に腹が立った。


「何で諦めなきゃならないんだ。誰かがお前に負けろと言ったのか」

「みんながそう言うよ」

「そんな事は、当たり前のことだ。これはレースなんだぞ。それはお前が弱いからじゃない。みんながお前に勝ちたいから、お前を貶めるんだ」


 誰かを貶める奴は、きっと不安なんだ。相手が弱いと安心するから、相手が弱いと決めつける。勝ちたい奴らのやることは二つ、自分が強くなるか、相手を低めるか。


「お前にできないという奴には、知るか馬鹿、とでも言っておけ。ただ、お前が弱いと、お前が決めるな」


 何で俺がこんなにムキになるか。それはこいつの言葉は、俺に刺さる言葉だからだ。

 俺だって弱い。それは事実であるし、ずっと他の生き物に命を狙われ蔑まれても生きてきた。

 だから、俺は必死で否定する。別に、この亀の為じゃない。

 つまるところ、俺はこの亀になんだかんだと文句をつけた連中と同じく、自分勝手なだけなのかもしれない。

 自分に都合のいい理屈をこいつに押し付けようとしているだけなのかも知らない。

 こいつだってこんななりでレースの参加者、競争相手だ。

 俺は、絶対に油断しない。こいつだって敵だ。だから、同情などするものか。


「……うぅ」

 

 ぽろり、と亀から涙が落ちる。だが、先ほどよりは涙の勢いが減ってきている。

 亀に涙はあるかもしれないが、クモには無いのだ。

 だが、どうしたものか。

 この亀をここに置いていった場合どうなるか。……予想するまでもなく、何者かの餌にしかなるまい。

 泣き叫びながら喰われていく亀。何故だか、気分はあまりよくない。

 ……そうだ。こいつを味方にするメリットを思いついた。

 俺には絶対に進めなくてこいつが超えられる障害物。

 それは水だ。

 これだけ多くの生き物が集められたのだ。水なのか川なのか、その類の障害は絶対にあるはず。

 俺は水には弱いが、こいつは水にはとてつもなく強い。

 だからこいつを連れていくことは、絶対に意味はある、……はずだ。

 これは自分にとってのメリットがある話で、決して言い訳ではない、と思う。


「……お前には価値がある。まずはその甲羅だ、並の爪では傷一つつかんだろう」

「うん。甲羅は硬いよ、……でも重いよ」


 確かに亀は遅い。それでも俺よりは速いし、俺よりは移動距離も長く走れるだろう。


「なにより陸を移動するだけでもなく、海も渡れるだろう」

「……そうだけど。もっとわたしより早い生き物はいるよ」


 勿論、それはいくらでもいるだろう。


「それでも、だ。お前は俺よりは速い。だいたい、できないことを数えて何の意味がある。出来ることを積み重ねて走ればいいだろう」


 俺がそう言うと、亀はやっと顔を上げた。

 つぶらな瞳で俺を見つめている。


「よし。じゃあ行くぞ亀。ついてこい」

「え。どこに行くの?」

「人間でいうところの『一緒に走ろう』だ」


 なに、ぎりぎりまで一緒に走るだけ。

 それに、この賢くなさそうな亀は気づくまい。

 人間にとっての一緒に走ろうとは、途中で出し抜くという事と同義であると。

 俺の牙は麻痺の牙だ。

 いざとなったら、がぶりとすれば身動きだって取れはすまい。

 最後に勝つのは俺だ。

 ……途中まで、途中までのことだ。


「一緒に行って、いいの?」

「だからついて来い、と言っている」


 俺がそういうと、亀は前足でごしごしと目元をぬぐうと、にっこりと笑みを浮かべた。


「うん!」


 よく表情の変わる亀だ。

 周囲を見ると、もうほとんどの生物が出発したようだった。先程の狼も、もういなくなっていた。

 諦めた連中の隙間をくぐりながら亀と移動していると、後方から悲鳴が聞こえた。

 後ろを振り向くと、そこには黒い巨大な壁があった。

 何だ。あの黒い壁は? さっきはあんなものなかった気がするが。

 目を凝らしてみると、黒い壁の中は所々が赤く光っている。

 うぞうぞと蠢いている光を見て、俺は心底ぞっとした。

 あれは生き物だ。

 複数の目を凝らしてみると、そこにいたのは蟻だった。

 千匹や万匹どころではない、無数の蟻の群れが壁になっていた。


「急ぐぞ、亀!」

「うん」


 そして俺たちは走り始めたが、他の生き物の流れに押されて上手く進めないし、俺は踏み潰されるのを躱すので必死だ。


「くーちゃん、わたしにしがみついて」


 俺は亀の首元にしがみついた。

 くーちゃんとは俺のことだろうか。クモだからくーちゃんとは安直な。

 そんな心の声に気づかずに、亀はしっかりと動いた。

 時には体をすくめ、時には手足を伸ばして踏みつけられながらも前に進んでいく。

 俺が想像している以上に動いてくれている。さっそく頼もしいじゃないか。

 後ろを確認すると、それでも動けなかった生き物たちが、悲鳴を上げながら生きながらに黒い壁に食われていった。

 そして目に見える死の黒い壁が、徐々に迫ってくる。

 亀も必死に進んでいるが、このままでは壁が近づくペースのほうが早い。


「端だ。まずは通路の壁際、端に向かえ! 他の生き物の射線上から外れるんだ」


 黒い壁との距離が近づいてしまうが、他の生き物に邪魔されるよりましだ。

 亀は俺の指示に疑うことなく、方向を即座に変更した。

 間近で、ぎちぎちと蟻たちの顎が噛み合わされる音がする。


「端っこについたよ。次はどうすればいい」

「あとはコースに沿って全力疾走だ。後ろは気にするな」


 黒い壁から吐き出される息が感じられる程接近した。

 俺は糸を吐いて、アリの壁の隊列を僅かに遅らせた。

 アリが亀の尻尾に噛みつけず、突き出した顎が空をきる。

 亀はそのまま全力で駆け抜け、ぐんぐんと黒い壁を引き離していった。

 かなりギリギリのところだったが、なんとか立て直すことができた。

 こちらが意図したことではないがレースを諦めた連中が、食料となり壁になってくれたのだろう。

 ふと、振り返ると。黒い柱の中央にいる一匹のアリと目があった。

 これだけ夥しい程のアリがいて、自分でもなぜかは分からないが他のアリとは違う気配を感じる。

 アリの女王だろうか。そいつも俺のことをじっと見ている。

 そして、俺を見て静かに語り掛けた。


「勝てぬと知ったうえで、それでもあらがうか?」


 それなりの距離があるはずなのに、アリの女王の言葉が聞こえた。

 悔しいが、このアリの女王は恐ろしく強いだろう。アリは群れで一つの命だというし、そう考えるならアリは夥しい命を帯びていることになる。


「勝つのは俺達だ」


 俺はそう宣言した。

 亀といつまでも一緒にいる気はない。最後は裏切るつもりだし、こいつだって、いつ俺を殺すか分からない。

 ただ、この女王アリを見ていると、負けたくない気持ちになる。

 俺たちは、黒い壁のアリの群れを更に引き離していく。


「次に会うのを楽しみにしている」


 笑みを浮かべた女王の言葉が、俺の頭にいつまでも響いていた。

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