第11話 渇きの海と空の皇帝

 俺は狼の方へ一匹で走り始めたが、それなりの距離がある。

 今までカメ子に乗って移動することも多かったが、それよりずっと遅い。

 一瞬だけ後ろを振り向いたら、カメ子達のいる緑の木は豆粒のように遠かった。

 砂の迷彩を着ているし、ここまで距離があるから鳥に気づかれないと思いたい。

 更に進み続けていると、狼は俺に気付いた様子で駆け寄ってきた。

 よく気が付いたものだ。俺は目が良い鳥にすら気付かれぬ程度の、砂漠の砂粒のような大きさだろうに。

 狼は俺を掠めるくらいの至近距離に来たので、俺は狼の足に飛び乗った。

 そのまま狼は地を駆け抜けると、俺に向こう風を強く当たる。

 何とか風を避けて、狼によじ登りながら俺は狼を観察眺める。

 黒一色の美しい毛並みの大きな狼で、体をうまくしならせて跳ぶように走り続けている。

 狼の女帝と呼ばれながらも、狼の一族のたった一匹の生き残り。

 気を張っているのだろうか、普段の狼はまるで男のような話し方をする狼で、レースに勝つ気はないと宣言している。

 それでも何かの目的のために生きているという。

 狼の頭の近くまで来たところ、狼が軽く声をかけてきた。


「よう」


 狼は遠吠えを使ってまでここに来ることを止めてきたのに、俺がここに来たことを特に怒ってはいないようだった。


「ああ。どうした困っているみたいじゃないか?」


 最初に会話をした時と逆に、俺が聞いてみた。


「いや、うるさい鳥の連中にたかられてな」


 多くの鳥が、狼を上空から狙っている。

 あたりには遮蔽物がどこにもないので、あらゆる方向から攻撃されるだろう。

 しかも砂も思った以上に、狼の足を鈍くしている。


「俺が役に立つなら、この前の借りを、ここで返しておこう」

「おう、ちょうど背中に目があればと思ったところだぜ」


 俺のような小さい体の者の助力を笑うでもなく、狼はすぐさまに俺に言葉を返した。


「そうか、俺は目は他の生き物より大分多いんでな、ちょうどいい。それに距離を測るのは得意な方だ」


 俺は軽口をたたきながら、狼の様子を見る。

 狼の息が荒い、ずっと鳥たちと戦い続けだったのかもしれない。

 この暑い中、ここにいるだけで消耗し続けるだろう。まして、この狼の毛並みは寒さには強いが暑さには弱かろう。


「まずはあの鳥の連中が襲ってくる方向と角度。それと接触するまでの秒数を知りたいんだぜ」


 狼は人間に詳しいらしく、人間が使っている単位を教えてくれた。

 世界を征服した人間は、単位を細かく定めている。それもまた人間というものの強さなのだろう。

 角度という方向の概念、時速という速さの概念。秒という時間の概念。

 狼から知識として教えられて、俺はそれらを頭の中に整理していく。


「理解した」

「じゃあ、頼むんだぜ」


 俺の言葉に狼は、ぴたりと足を止めた。

 それを見て隙ができたと思ったのか、上空から一匹の鳥が嘴を突き出し滑空してくる。


「方角273度、仰角42度、距離3メートル、時速92キロ」


 俺が言うと、狼は目をつぶり、大きく息を吸い込んだ。

 ぎりぎりまで動かないつもりか、鳥が俺の眼前に迫りくる。

 鳥のくちばしが狼に当たると思った瞬間、狼はするりと身をよじって、鳥の喉元にかみついた。

 ぺきり、と小気味よい音を立てて、大型の鳥は血しぶきを上げた。


「……大したものだな」


 俺がそう言うと、ぱちりと目を開けた狼が俺を見ていた。


「お前がな。まあ、こんな感じでやってくんだぜ」

「次がくる。方角183、仰角35度、5メートル、83キロ」


 やはり鳥たちは、狼の死角を突いて襲い掛かってくるようだ。

 だが、それも俺に見られている今では意味がない。

 俺の言葉に、狼は低く吠えて答えた。


「任せるんだぜ」


 狼は飛来する鳥を、今度は爪で引き裂いた。さっ、と赤い血が舞い鳥は地に沈む。


「二匹同時、120度、26、7メートル、88キロ。200度、45、12、95」


 俺は話す言葉を省略していって、最適化する。

 狼はそれでも問題なく、襲い掛かる鳥を屠る。


「60、45、8、85」


 俺の声に従って、狼は機械じみた正確さで鳥を血濡れにしている。

 狼も俺と同程度以上の計算能力を持っている。

 しかも、小賢しいだけの俺と違って、すべての鳥を一撃で仕留める身体能力。

 集中力、瞬発力、計算力。どこにも隙はない。優勝候補というのに相応しい実力だ。


「182、32、10、77」


 狼は向かってくる鳥に対して、まるで舞っているように飛び上がり、多くの鳥を打ち倒す。

 その動きは芸術のように洗練されている。

 そうこうしているうちに、見る間に鳥の数が減っていく。


「思ってた以上に、目があると楽なんだぜ」


 もちろん油断はできないが、想像以上に狼は強かった。

 とうとう残り一匹になった。これで複数の生き物から死角を襲われることもない。

 ……だが、最後の鳥は大きい。

 狼は、ぼそりとつぶやくように言った。


「あと一匹はいいんだが……あいつは羽を広げてると、三メートルはありそうだぜ。……大鷲だぜ」

「でかいな」


 かなりの距離があるが、それでも大鷲という鳥は相当な大きさであるとわかる。


「3、45、30、……」

 

 結構な高さと遠さから、高速飛行で大鷲が突撃してくる。

 速い!

 俺は必死で叫ぶ。


「332っ」


 時速332キロメート。先ほどまでの鳥たちより4倍速い。

 狼はぎりぎりでかわすものの、大鷲に飛びつくことができなかった。

 俺と同じく正面から大鷲を見ていたにも関わらず、だ。


「ちっ!」


 狼は舌打ちをした。

 この状況のまずさに気付いたのだろう。

 俺が来るまでの狼は、見えない攻撃だから苦戦していた。

 そこに俺という目が来て、対応することができた。

 けれど、今は違う。目で見えていても反応しきることができない。

 だからこの時点で、俺にできることはなくなってしまった。


「……速いな」


 俺はそうつぶやくことしかできなかった。

 大鷲は再び高く舞い上がる。

 これほど速い生き物は他に見たことがない。はるか彼方にいたはずなのに、気が付けばその爪が目の前にあった。


「かかか。……地を這う生き物は、悲しいもんじゃのう」


 大鷲は高くから、癪に障る甲高い笑い声をあげた。

 距離の壁は狼の足をもってすら、なお超えられぬほど遠い。

 狼は移動する大鷲に合わせて、ぐるりと体を回して鳥に視線を向ける。

 そして今度は鳥を視界に収めたまま、ジグザグに動いて撹乱するように駆け出す。

 再び、大鷲が爪を突き出して急降下する。

 だが鳥も目が良いのだろう、降下しながら複雑な動きを見せる狼の正面に現れる。

 狼は大鷲が接近したところに爪を突き出すが、大鷲は難なく避ける。

 そして狼の体から小さい鮮血が待った。

 かすり傷ではある。だが、これが繰り返されると狼の体力は見る間に削れていく。

 それに最初に合流した時より、狼の反応が少し鈍くなっている気がする。

 狼の息も荒い、無理もない。ずっと戦い続けだったのだ。

 あるいはこの大鷲が最後の一匹になるまで様子を見ていた理由は、狼が疲弊するのを待っていたのだろう。


「遅い遅い。レースにおいても戦いにおいても、速さとは全てを上回る要素よ」


 大鷲の言葉にも一理ある。どれほど鋭い牙であろうと、届かなければ意味がない。


「他の鳥をいかに殺しおおせようとも、この儂は他の連中とは違う。お主に勝ち目はないぞ」

「ムカつくジジイだぜ」


 狼は大分腹をたてているようではあるが、勝ち目がないなら一旦逃げるのも、生き物としての正しい手段だ。

 けれども、この何もない砂の海で、相手はこちらより随分と速い。大鷲からは逃げ切ることは出来ないだろう。


「かかか。どうした、小娘。そんなふうに地面に四つ足で這いつくばりおって。人間で言う、土下座でもしているつもりか。そうだとしても、殺してやるがのう」


 大鷲はくちばしを歪めて笑う。

 狼の奥歯を噛みしめる音が聞こえた。

 けれど、一度大きく息を吐き出して、ふと穏やかな表情が戻る。

 そして俺の方を見て、呟くように言った。


「……お前は、まだあのジジイに気づかれてないみたいなんだぜ。だから、逃げるなら今だぜ」


 狼はそんなことを言い出した。

 確かに、今ならそれも可能だ。


「安心するんだぜ。あのジジイは、私だったら殺せるんだぜ。だからあいつはもう、お前の旅の障害にならないんだぜ」


 狼は矛盾する事を言う。あの大鷲を殺せるなら、俺が逃げる必要などないはずだ。


「なあ、狼はどうするつもりなんだ?」

「人間のことわざに、肉を斬らせて骨を断つ、ってのがあるんだぜ」


 ある種の覚悟を決めたような瞳で、狼は語った。

 狼は、あの大鷲と差し違えるつもりのようだ。


「……残りの旅も、お前は負けるんじゃないんだぜ」


 狼は俺と目を合わせて、穏やかにほほ笑んだ。

 その顔を見ていると、何故だか体の奥が締め付けられるような錯覚を感じる。

 俺は本当に何もできないのだろうか。できうることは、何かないのだろうか?

 色々なものを思い出そう。何ができるか組み立てよう。


 敵のこと。大鷲。翼。速い。一瞬で距離を詰めてくる。視力が高い。狼の攻撃は避けられる。

 俺たちの事。狼の爪と牙。俺の小さい体。糸。サボテンの棘。

 状況。周囲に何もなく狼は逃げきれない。俺は敵に気づかれていない。

 周辺状況。砂。大空。……逃げる水。


 ……酷く馬鹿げた手段を思いついてしまった。

 いや、本当はすぐに思くようなことだが、困難さに思考を停止していたのだろう。

 やること自体は、ひどく単純だ。だが、それができるかどうかは別問題でもある。

 まず、狼に話しかけてみることにした。


「なあ、狼。……この砂の海だと、水が逃げるんだ」

「ああ、私もそれを見たぜ。それがどうしたんだぜ?」

「距離がつかめなければ、生き物は目的地にたどり着けないんだ。あの大鷲も目が良いから、あんなにうまく距離を詰められる。だが、大鷲の目が……」


 俺がそう話していると、途中で狼が驚いたように言葉を重ねてきた。


「おいおい。まさか、あのジジイに飛び乗って、目を潰してくるってんじゃないだろうな?」


 やはり、狼は話が速い。すぐさまに俺の意図をくみ取ってくれた。


「そうだ。ちょっと行ってくる」


 俺の言葉に、狼は少し顔を曇らせた。


「私はお前の事を信じちゃいるんだぜ。でも今回は、さすがにキツイだろ」


 状況が厳しくないわけがない。

 そもそも飛び移れるかという問題もあれば、飛び乗った先は風圧がひどいことになっているだろうし。

 途中で大鷲に見つかったら切り刻まれるだろう。

 俺が一瞬黙ると、狼は続けて俺に声をかける。


「それに、そうだ。亀は?」

「今、離れた所で留守番している」


 姿を隠しているから、サボテンの所で待っていてもらっている。

 あまりはぐれたくはなかったが、今回ばかりは仕方がない。


「そうじゃなくてな。お前が死んだら、亀はどうするんだ?」


 ふと、カメ子のことを考える。

 スタート地点にいた頃と同じく、また泣き続けるのだろうか。

 いや、そうではあるまい。カメ子もまた強くなった。

 この砂の海を渡れるほど、ゾウを恐れないほど。随分と前に進めるようになっている。

 それに、何より。


「……俺が生きて帰れば、済む話だ」


 そもそも俺は死ぬつもりもない。


「なあ狼……何もしなければ、このままでは手詰まりだ」


 狼も計算能力が高い。俺の言いたい事も分かってくれるだろう。


「最初の計算式がずれてることを指摘しておくんだぜ。私を置いていったほうが楽なんだぜ」

「文句は後で聞く。……来る」


 大鷲が翼を広げた。わななきを上げる。

 呼吸をする間もないほどの速度で、目の前に現れる。

 すんでのところで狼は、大鷲の爪を避ける。

 今回は飛び乗る事は出来なかったが、大鷲の速さを体感できた。


「タイミングは理解した。次はできる」

「……分かったぜ。お前には後で言ってやりたいことあるから、絶対に帰って来るんだぜ」


 狼はそれだけ言って、大鷲を見据えた。

 多分、この狼の事だ。次に大鷲の爪を避ける時は、俺が飛び移りやすいようにぎりぎりで躱すつもりなのだろう。

 俺は息を大きく吸い込んで大鷲に視線を合わせる。

 集中だ。ここは外してはならない。

 空にいる大鷲の速度、風の動き、角度、タイミング。狼の躱す速度、その全てを計算する。

 俺の周囲から音が一切聞こえなくなる、暑さも全く感じない。

 大鷲が加速する少し前に、俺は空に向かって糸を吐き出す。

 直後に大鷲が現れる。

 狼と交差する大鷲の足に俺の糸が絡みつき、そして俺は糸を手繰って、大鷲に飛び乗った。

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