舞台裏

第39話 世界は誰そ彼のもの

 にんげんレースが開始してから少し経った頃だ。

 俺が兄弟と共に道を走っていると、呻き声が聞こえたので視線を向けてみた。


「うぁ、ぁ」


 そこにいたのは小さいアリだ。

 アリジゴクの砂の罠にはまっていて必死でもがいている。

 砂の中央に大きい二つの牙を掲げたアリジゴクが、しゃこんと音を立てて獲物がゆっくり降りてくるのを待っている。

 関わるべきではないな。それが俺の結論だ。

 アリジゴクの奴は、俺の身体の何倍も大きい。戦うとなれば、油断しなくたって強敵には違いない。……そう思いながらも、俺はつい自分の糸を小さいアリに投げかけた。


「助かりたければ上がってこい。俺はお前を喰うつもりはない」


 まあ、信じないかもしれないな。身体の小さいクモだって、アリを喰うこともある。そう思いつつも、俺は少し待つことにした。

 すると、よじよじとアリが昇ってきた。

 今すぐ死ぬか後で死ぬかなら、後の方がいいだろう。

 そう思ったかどうかは知らないが、アリはじっと俺を見つめている。

 アリの表情は俺には分からないが、これ以上は関わるつもりもない。


「じゃあな」


 とりあえず、俺は背を向けて立ち去ることにした。


「……何で助けてくれたんですか」


 アリが俺に問いかける。その答えは俺も持っていない。

 強いて言うなら、ついうっかりなのだが、そう答えたとしてもアリは納得はするまい。


「いや、大した理由じゃない」

「ぎぎ……いい加減にするといい、キョウダイ。このアリも、喰ったらいけないのか?」


 レース開始からの同行者であり、俺と同じ姿を持つ兄弟が、呆れたように俺に声を掛けてくる。


「すまん。お前も腹が減っているのは分かっている。だが、こいつの身体は小さいだろう。喰いでがないから、喰うとしても別の奴にしよう」


 俺は、困った表情をしている兄弟に軽く頭を下げた。


「ぎぎ……仕方のないキョウダイだ。まあ、それでこそ自分のキョウダイだがな」


 納得してくれたというより、俺の我儘を飲み込んでくれたようだ。そう言って、俺に背を向けて道の先にずんずんと進んでいった。

 こいつには、負担をいつもかけてしまうな。

 だが、スタート地点の付近に元々の顔見知りである兄弟がいたのは幸運だった。二人で協力していけば、このにんげんレースだって順調に進める。

 俺も兄弟の後を追おうとして、ふと後ろから声を掛けられた。


「あの……」

「どうした?」

「わたしも、あなたに付いていっていいでしょうか?」


 俺は少し考え込んだ。

 ニンゲンレースの勝者は一人。旅連れを作ることに本来デメリットしかない。

 けど俺は、もうすでに兄弟とも一緒に行動している。一匹が二匹になったところで、そんなに変わりはしないかもしれない。だが、俺はそれでいいとして、兄弟はどう考えるだろう。


「なあ、兄弟」


 俺は何といって説得したものかと考えながら、とりあえず先行する兄弟を呼び止めた。


「ぎぎ……まあ、キョウダイはそういう奴だ。……いいんじゃないか。キョウダイの我儘は嫌いじゃない」


 兄弟が俺をどう見ているのか聞いておきたいところではあったが、納得しているようなので黙ることにした。


「よし、じゃあ行こうか。最後はどうなるか分からないが、しばらくは仲間だ」

「……仲間」


 アリは噛みしめるように呟いた。



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 にんげんレースの進んだ先には、歩くだけで焼け死にそうな砂の海があった。

 ここでは、本当に何度意識を失いかけたか分からない。

 だが、何とか水場に辿り着くことができた。


「ぎぎ……水は最高だな、キョウダイ!」

「まったくだな!」


 兄弟は浮かれて、踊る様に水を飲んでいる。まあ、そうなるのも分かる。

 砂道の途中では、乾いて死んだ生き物が数多くいた。俺たちだって、干からびる直前だった。


「方向感覚も狂いそうな砂漠なのに、どうして水場がここにあると分かったのですか?」


 アリはよく質問をする奴だった。

 生きるために学習は大事なことだから、俺も答えられるものはなるべく答えることにした。


「他の生き物の死体の数が少ない方向に、水場がある可能性が高いと考えただけだ」

「なるほど」


 死体の数で進むべき道が分かるというのは、何とも意地が悪い。

 優勝を目指すレースであるが、後発の方が有利な側面もある。勝つためには、先に進む勇気と、適切に待つという忍耐のバランスが必要なのかもしれない。

 走りっぱなしであった俺たちも、ここでやっと一息をつける。

 折角の機会なので、アリに話しかけてみた。


「なあ、お前はどんな奴なんだ?」

「アリです」


 そのままアリは沈黙して、話が続かない。


「いやまあそうなんだが、それだけではなくてだな。何かこう目標とか、何かやっていて楽しいこととかあるか?」

「……いえ、生きる先に何があるとか考える余裕がなくて。このレースも立ち止まっていたら死にそうだから、ここまできました」

「キョウダイ。普通は、みんなそうだぞ」

 

 呆れた口調の兄弟は、かるくため息をついた。

 そんなものなのだろうか。


「あなたには、何か目的があるんですか?」


 アリは静かに窺うようにこちらを見つめている。これからもう少しくらいは一緒にいそうな相手だ。相互理解の為に、まず俺自身から話をしてみよう。


「俺はもしニンゲンになったらな。花火を見てみたいんだ」

「花火? ニンゲンたちがやっている謎の儀式ですね」

「ああ、不思議なものではあるな」


 空に咲く赤い花。一度目にした時から、脳裏に焼き付いて離れない。


「あれに、何か意味があるんでしょうか?」

「ぎぎ……自分も同感だ。あんなもので腹が膨れるわけでもないだろうに」


 確かに二匹の言うとおり、意味そのものはないかもしれない。


「そうかもな。ただ、俺自身もうまく言えないんだが、……そうだな。俺は多くの生き物が集うことに光を感じたんだ」


 かつて一度だけ見上げた花火、それに集まるニンゲンたち。その熱のような何かは、俺の中に残っている。


「道標みたいなものだ。あんな綺麗な光がまた見たい。俺はずっと暗い世界で生きてきたし、多分これからもそうだと思う。けど、その光に少しでも近づきたい。それが目的と言えば目的だな」


 生き物が光を求めるのは本能だ。そして、何を光と思うかは生き物によって違うだろう。


「……わたしは」


 アリも、ぽつりぽつりと自身の話を始めてくれた。


「女王アリの候補として生まれました」


 アリの群れを率いる王か。一匹では恐ろしくなくても、群れのアリはとてつもなく恐ろしい。


「無数の働きアリと、そうでない少数のアリ。アリの社会は歯車みたいなものです。役割が生まれた時から決まっていて、特に難しいことを考えることもなく生きる。それだけです」


 俺達の種族は逆に基本は一人だから、アリの気持ちは分からない。

 ただよくよく考えてみるなら、俺の隣にいる兄弟がいなければ不安だったろう。


「強いて目的というならば、わたしは女王にならなければならなかった」


 アリは過去形で言葉を続ける。俺がこいつを見かけた時には既に一匹だった。


「でも、仲間はみんな死んだ。殺されたり喰われたり。わたしが最後の一匹です」


 俺は、アリの生体は詳しくはないが、アリは群れで一つの命という。

 しかし、今は一匹。どれほど不安と苦痛かなど想像も難しい。

 

「ぎぎ……女王アリか。それにしては弱そうだな」


 空気を読まない兄弟は、あっさりとそんなことを言う。


「……ええ、そうですね。野良のアリなど生きる価値もありません」


 そう言って、アリはうつむいた。

 このレースが優勝の一匹を決めるためのものと言えども、少なくとも仲間の全滅はアリの本意ではあるまい。


「兄弟」


 俺は窘めるように、兄弟に声を掛ける。


「ぎぎ……自分に怒っても仕方ないだろ。事実は事実として認めなければ」


 それは兄弟のいう通りだ。自身への過大評価は命を縮める。だが、萎縮による自身の過小評価もまた生存の確率を下げてしまうものだ。


「ぎぎ……そのうえで、弱ければ強くなればいいだけだろうに」


 そんなふうに兄弟は言う。それは真理だ。

 肉体的な限界があるなら、他の方法で補えばいい。


「そう、兄弟の言うとおり。……まあ、あれだ。確かにこの場にお前の一族はいないかもしれないが、今は俺たちがついている」


 アリの強さが集団によるものなら、俺達だって今は集団ではないか。


「もちろん、だからといってお前の苦しみが、なくなるわけではないと言えばそうなんだがな。それでも、例え俺たちが微力だったとしても、だ。『頼りにならない』と、『頼れない』は違うという事だけは覚えておけよ」


 俺が言葉を重ねていると、アリがふと笑みを見せた。

 

「あなたは強いですね」


 アリは何を思ったのか、俺を見上げて言う。

 本当に俺のこの身体をみて、よくそんなことが言えるものだ。

 この吹けば飛ぶような軽い体、今にも折れそうな脚。生き物として、優れているとは決して言えまい。


「……強く生きたいとは思っている」

「ふふん。そう、キョウダイは強い」


 そしてなんで兄弟が、自信満々なのだろうか。


「……わたしは強くなりたい。……あなたのように」


 ポツリと、アリが呟いた。

 強さを求めるのは、小さい生き物なら、誰しも持つ願いだ。

 とはいえ、何故そこで俺を比較とするのかは分からない。だとするとアリが求めているのは、肉体的な強さではないという事だろうか。

 だが、せっかく語ってくれた本心だ。尊重したいところではある。


「そうだな、アリはどうなると強いと思うんだ?」


 そう、定義だ。何を以て強さとするのかという定義が大事だ。


「あなたは勇敢です。どんな生き物を前にしても、臆することなく対峙できます」


 そうでもない。俺より大きい生き物に出会ったら死を覚悟するし、俺より身体の小さい生き物にだって何があるか分からないから警戒するし緊張もしている。


「そして冷静です。どんな環境であっても、最適な行動をとることができる」


 冷静でありたいとは常に思っているが、本当に冷静な生き物だったら、リスクを考えて他の生き物と一緒に行動してはいないだろうとも思う。


「何より不屈です。わたしだけならこのレース、何度諦めようかと思った事か」


 俺には諦めきれない夢があるだけだ。それがなければ、とっくに折れている。

 どう答えたものか。相手が悩んでいるからこそ、できるだけに正確に答えてやりたい。

 アリが言うほど俺は強くはない。俺自身、勇気も知性もあるとは思っていない。

 だとすると、なんだろうな。


「強さっていうのは、振舞いのかもな」

「振舞い、ですか?」

「強がりと、言い換えてもいい。俺の身体はそんなに強くないことは、誰より俺が知っている。だから強く生まれればよかったとかなんとか、無いものはねだっても仕方がない。弱く生まれようが何だろうが、手持ちの武器で戦うしかないだろう」

「ぎぎ……確かに。キョウダイは恰好つけたがるからな」


 兄弟の言う通りかもな。こいつら前で、臆病なところは見せたくない。


「では、具体的に何からすればいいでしょうか?」

「ぎぎ……アリは話し方が弱そうだ。もう少し強い言葉を使えばいいんじゃないか。例えばそう、一人称を『わたし』から『我』にするとか」

「いえ、それはどうでしょう」


 アリはきっぱりと首を振った。


「『我』か、……強そうだな」


 さすがは兄弟。いい感性をしている。

 アリが嫌なら無理強いはするものではないが、いい響きだ。


「検討しましょう」


 アリは素直に頷いた。


「ぎぎ……釈然としない。自分はキョウダイと同じことを言ったのに……」


 兄弟は憮然としている。


「ともかく補給も済みましたし、ここは熱いので出口を探しましょう」


 アリは足早に再び歩き始めた。

 小声で、我と呟いていて練習している。

 俺と兄弟は顔を見合わせて、少しだけ笑みをこぼした。


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 砂漠を抜けた後には洞窟が続き、今度は地面から飛び出る水の剣に苦しめられている。


「ぎぎ……水は最低だな! キョウダイ!」

「まったくだな!」


 熱水をぎりぎりで躱しながら、俺達は追跡者を振り切るために全力で走っている。

 俺達が水が剣のように噴き出る障害に辿り着いたとき、厄介な敵が襲ってきた。


「かーめー」


 亀だ。

 牙もなく、動きも鈍重。

 本来なら何の脅威でもないはずだが、水場だとこの生き物は移動がとたんに速くなる。

 しかも執拗に俺達を殺そうとしてくる。

 このコースは洞窟のようになっているので、壁に張り付いて亀をやり過ごしたかったのだが、兄弟が水の剣の飛沫で足を滑らせて地面に落下してしまった。


「キョウダイ! 自分の事はいいから、先に行けっ!」


 襲い来る亀を目前にしながら、兄弟はそう叫んだ。

 よく見ると、脚が数本おかしな方向に折れ曲がっている。

 あれでは、すぐには動けまい。

 俺は後ろにいるアリに声を掛ける。


「アリ。ここで待機していてくれ」


 俺はアリに背を向けた。 


「あなたは、どうするんですか?」

「助けに行く。タイミングをみて、引き上げてくれ」


 俺は天井に糸を残して、兄弟の前に飛び出し着地した。


「よう、亀」

「んー? そのクモさんの、お兄さん?」


 亀は今まさに、兄弟を潰そうと振り上げた手をピタリと止めた。

 すっと、倒れこんでいる兄弟の前にでる。


「まあ、そうだな。どちらかと言えば、俺の方が先に生まれたな」


 そう言いながら亀を観察する。

 とぼけた表情の亀は立ち止まって話を聞こうとしているようだ。

 不思議なことに、亀から殺意は感じても敵意ではない気がする。


「キョウダイ! なんでここに来た!」

「とりあえず任せろ」


 俺がそう言うと、兄弟は口を閉ざした。


「……仲良しなんだね」

「まあな、同じ所で生まれた奴等は多くいるが、兄弟は共に生きる仲間だからな」


 口にしてみて改めて思う。生きるためだけに生きているような奴はいくらでもいる。だが、兄弟は他の奴らとは違う。

 こうして今、亀の前に立っているのは俺だが、兄弟が同じ状況になっていたらきっと助けに来ただろう。


「俺たちは体も小さい、お前が食っても腹はふくれないぞ」

「食べることが目的じゃないよー」

「それなら、俺達を殺そうとするのはどうしてだ」


 そう言いながら、俺は亀に気づかれないように静かに糸を吐いて兄弟に巻き付ける。

 そしてアリが一気に糸を引いて、天井まで戻る。それだけのシンプルな逃げ方だ。糸を伝う速さの方が、亀よりは速いはずだ。

 あとはタイミングを計るだけ。

 もう少し亀と会話を試みてみよう。


「うーん。クモさんは、天国って知っている?」

「聞いたことがあるな、人間が死後に行く楽園のようなものらしいな」

「そうだよ。そこは飢えることも寒いこともなくて、静かであったかい場所なんだって。もう死んだら永遠にいられるんだよ」


 亀の説明によると、天国とは随分と都合のいい場所のようだ。


「だからね、死ぬことはね。怖いことじゃないんだよー」


 亀は俺達を説得しているのだろうか。


「正しい手順で命を終えた者は、みんな天国に行けるんだよ」


 少なくとも、この亀はそう信じているらしい。

 殺すことが良いことだと。俺達の為になると。


「そうか、そちらの言い分は解った。だが、俺達は生きると決めているんだ」

「この世界は苦しいことで出来てるんだよ。だから、みんなで天国に行こうよ」


 この亀は本気だ。むしろいっそ優しさで俺達を殺そうとしている。


「痛くないようにするよ」

「なあ、亀。俺は、お前の優しさは信じてもいい」


 俺だって色々なやつを見てきた。こいつが心からそれを信じていることくらい見ればわかる。


「じゃあ、それなら」

「だがな、俺が信用できないのは、お前にその話を聞かせた奴の事だ。死んだあと永遠に天国にいるなら、どうしてその話がこの世界に伝わるんだよ」

「それは、……わからないけど。きっと何か理由があるんだよ」


 亀は一瞬、言いよどむ。


「だから断るっ! アリ! 全力で引き上げてくれ」


 アリは俺達よりずっと力強い。素早く天井の方に引き上げられていく。

 天井に張り付きさえしてしまえば、亀にはどうすることもできないだろう。

 亀は一瞬、俺達の行動に目を丸くしたが、すぐに近くにあった水場に自らの頭を突っ込んで、水を勢いよく飲みはじめる。

 何だ? 何をするつもりだ? 水を吸い込んでいるのか?

 それに気づいた瞬間に、俺はキョウダイを抱えて糸から離れて地上に飛び降りた。

 その瞬間、俺達の頭上を水弾がかすめていく。亀がその肺活量を以て、水を吐き出したのだ。

 水圧が直撃したら、この身体が粉々に砕け散るところだった。

 目の前には亀、足場は濡れていて俺達はそれだけで溺れそうだ。生き残れたはいいが、より深い危機に陥ってしまった。


「ぎぎ……すまない。……キョウダイ」

「ここは謝るところじゃない。まだ生きてる。諦めるな」


 俺は簡単に命を諦められるほど潔い生き方はしていない。逆転の手はないかと周囲を見渡してみる。

 だが周囲には、武器として利用できそうなものも、身を隠せるような遮蔽物すらない。


「さあ、儀式を始めるよー」


 亀が近づいてきたところで、俺の目の前にアリが飛び降りてきた。

 だがアリにだって、策がある様にも見えない。


「もう、儀式の邪魔をしないでよぉ」

「さあ、クモ。ここは任せて行ってください。……この亀は殺す順番を考えて行動しているようです」


 アリに言われて思い出す。

 確かに、さっき俺が飛び降りた時、この亀は俺を殺すことを躊躇した。

 亀は本当に俺達を救う・・つもりでいるのだろう。亀の理屈で天国に送ろうとしている。


「わたしに考えがあります」


 アリが何をするつもりか分からなかったが、堂々と言い切ったので任せてみようと思った。


「頼めるか?」

「ええ、わたしは力がないといっても女王です。……後から追いかけます」


 アリは背中越しに軽く振り向いて、少し笑みを浮かべる。

 俺はキョウダイを背に抱える。


「踏むよ! ちゃんと順番を守らないと、天国に行けないんだからね」


 亀の言葉からの証明だが、アリの読み通りだ。亀は殺す順を決めているようだ。


「ならば、わたしから踏みなさい! わたしだけを殺しなさい!」


 ぎりっと、アリは亀を睨んだ。

 雰囲気の飲まれてか、亀の前足が竦んだようにぴたり、と止まる。

 まさかと思ったが、アリは正面から亀を威圧した。


「そんなことをしたら、手順を間違えたら、地獄に落ちるよ!」

「構わないと言っています!」


 アリは亀の善意を信じたのだろう。だから自分の身を晒して、亀を戸惑わせている。

 だとしても、随分と分が悪い賭けだ。

 亀が怒りに任せて、アリを踏みつぶす可能性だって高いというのに。


「わたしの天国がどこにあるのか、決めるのはわたしです」


 そう、アリの言う通りだ。誰かが用意した楽園なんて、俺達にとって楽園であるかどうかなんてわかるはずもない。


「うぅ……なんだろう。殺さなきゃいけないのに、体が動かない」


 亀はそのまま立ち尽くしている。


「ぎぎ……なんだか知らんが、亀は動かない。今のうちに行こう」

「ああ、亀は動けないようだ。……アリもいこう」


 慌てるでもなく、優雅な動作でアリが亀に背を向けた。


「あなたも、こちら側に来ますか?」


 アリは、それだけ声を掛ける。

 亀がそれにどう思ったのか分からないが、とりあえず前足をおろしてただ俺達を見つめていた。


「ううん。行けない……でも、いいなぁ」


 そんな亀を背に、しばらく無言で俺達は進んだ。俺が時折振り返ると、亀はそこに鎮座していてゆっくりとこちらに手を振ってきた。


「あいつ、悪い奴ではなかったのかもな」

「ぎぎ……ジブンは殺されかけたぞ。キョウダイはジブンよりあいつを選ぶのか?」

「すまん」


 俺は素直に謝ると、兄弟は軽く噴き出した。


「冗談だ。……まあ、あの亀が苦手になったのが本当だが」


 もうあの亀が大分見えなくなるくらい遠くなっていた。


「ぎぎ……そうとも。あの亀の気持ちだって少しは分かる。……ジブンたちは運が良かっただけだ」

「ええ、そうですね」

 

 二匹は頷きあっている。二人ともあの亀に対して思うことがあるのだろう。

 すると遠くから悲鳴が聞こえた。

 振り返ると、遠くで亀が鰐に襲われていた。亀は丸まって難を逃れようとしたが、鰐は大口をあけて亀の甲羅をかみ砕いた。

 そうして、亀の悲鳴はどんどん小さくなっていった。

 死ぬことを怖れなかった亀が悲鳴を上げたという事は、ああして喰われるのは天国に行くための正しい手順ではないのだろう。それで天国に行けないなら、亀はどこに行くのだろうか。


「あいつ……」


 振り向いた俺を、兄弟は糸で強く引っ張った。


「考えるのは後だ、キョウダイ。もう亀の命は尽きている。……だから、先に進もう」

「いくらあなたでも、前脚の数には限りがあります」

「そうか……そうだな。行こうか」


 ただ、ほんの少しだけ亀が可哀想な生き物に思えた。

 だが、喰われた命は戻らない。それにひるむ間もなく、ワニがこちらに走りこんできている。

 ワニは、俺達よりははるかに速く動く。この通路では壁も水滴で溢れているので、張り付きにくく最悪滑って落ちるだろう。

 ただ、ひたすら前に進むことしかできなかったが、進む先に激しい水の流れる音がする。


「ぎぎ……やばいな。この先は、川だ!」

「まずいな」


 このままでは打つ手がない。


「問題ありません。今のわたしなら……!」


 大きく息を吸い込んだと思ったら、アリの背が裂ける。

 そこから輝く羽根が広がった。そういえば、アリは空を飛べるのだった。

 俺達を抱えてふらふらゆっくりと川を渡る。


「ぎぎ……やるじゃないか。まさか飛ぶとはな!」


 俺も兄弟も、空を飛ぶのは始めてだ。

 直前が危機だったので、心が躍るものでもあるな。


「あなたも、もっと褒めてくれてもいいのですよ」


 多分、これは強がりなのだろう。

 なぜなら俺達を抱える脚が震えている。

 無理もない、生まれていきなり羽根を生やして俺達を抱えるとなると難しいものがあるのだろう。


「大した奴だよ、お前は」


 俺がそう言うと、アリはにこりと笑った。



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 レース場を更に奥まで進むと、優勝台がやっと見えてきた。

 他に生き物の姿はなく、俺達が一番最初に辿り着いたようだ。

 後ろから迫ってくる生き物もいない。


「たった三匹で、まさかここまで来れるなんて」


 感慨深そうにアリは優勝台を眺めている。


「ぎぎ……まったくだ。雪山は死ぬかと思った」

「本当ですね」


 言い合う二人はボロボロだ。アリも、折角生やした羽根ももう折れてしまっているし、キョウダイの脚も動いている数の方が少ない。


「……お前ら、最後まで油断するなよ」


 俺はそう言いながら周囲を確認するが、この辺りにひそんでいる生き物はいないようだ。


「……さて、優勝は誰かを決めないといけないわけだが……」


 アリとキョウダイは、立ち止まって俺を見ているいる。

 優勝の席は一つ。ここにいるのは三匹。どうしたって最後は殺し合いと思っていたが、誰も動かない。

 とはいえ、いつまでこうしていても仕方がない。こいつらならともかく、他の生き物に先を行かれるのはどうにもおさまりがつかないから、とりあえず進もう。

 

「ここまで来たんだ。並んでいこう」

「そうですね」

「ぎぎ……それも悪くない」


 三人が横並びで、優勝台に向かっていく。

 誰か抜け駆けして走る奴がいてもいい。これは命のレースなのだ。

 だが、みんなゆっくりと、歩を乱すこともなく俺達は同じ速さで進んでいる。

 誰も何も言わず、ただ前に行く。横一列に並ぶ様はまるで、まるで糸でも繋いでいるかのようだった。

 もし運命が織物であるならば、こんな横糸で編まれているのも悪くない。

 ともかく、優勝台がもう目前だ。酷いレースだったが、何故だか名残惜しいとも思ってしまう。

 誰が優勝するにせよ、そいつとはもう会えないだろう。

 そして、とうとう優勝台にあと一歩のところで、右隣を歩くアリと、左隣のキョウダイが前脚を合わせてきた。

 そうか、みんなで一斉にゴールをするのか。……それも悪くないな。身体の奥が温かくなるような気がした。

 そして、ついに優勝台に辿り着いた。

 達成感というのだろうか、込み上げてくるものがあるな。

 アリや兄弟も同じ気持ちなのか、誰一人何も言わずに佇んでいた。

 そう余韻に浸っていると、光る玉が近づいてきた。


「優勝は一匹だと言ったはずだが?」


 耳障りな低い男の声がその場に響く。

 レース開始の時に、色々説明をしてくれたレースの管理人なのだが、俺はどうにもこいつが好きになれないでいた。


「ぎぎ……誰か一人しか生き残れないことは知っている」

「誰が選ばれても、わたしたちに文句はありません」


 キョウダイとアリは口々にそう言う。


「下らんな。オレが見たいのは、そういうものじゃない」


 苛立っているような光る玉は、舌打ちをしながら吐き捨てた。


「これは殺しあうためのレースだ。誰が一番命を蹴落とせるかの戦いだ。最後は力だろうが。たかがムシケラが、醜悪な生き物がこのレースを貶めるなよ」 


 こんなレースを開催して命をもてあそんでいるような奴に言われたくはない。

 だが、この場において俺達にこいつに抗するための手段はない。


「ここで殺しあえ」

「ぎぎ……なんだと」


 そうくるか。考えずにいたが、……いや考えたくなかっただけなのだが、優勝が一匹であるのなら、その可能性はあった。


「このレースに集う、一億全ての命を以て、人間への転生が開始される。生きてられては、都合が悪いんだよ。別に、やれないならやれないでいいぞ。そうしたらこのレースは生き残りのいない、全滅ということにする」


 この光る玉には、そうするだけの力がある。

 俺は自身の命も惜しいが、それ以上にこいつらの命を無駄に散らせるつもりもない。

 どちらの命を選ぶのか、キョウダイか、アリか。 

 どうする、どうすれば乗り越えられる?

 俺が一瞬考え込んだ間に、キョウダイとアリは頷きあった。

 

「ぎぎ……自分の命はキョウダイにもらったようなものだ」

「わたしも同じくです」


 そういって、二匹でこちらに振り向いて牙をむいた。

 普通なら、ここで殺し合いになるんだろうな。

 だが、ここまで共に旅をしてきた仲だ。こいつらが俺を殺すつもりがないことくらい、考えなくても分かる。


「ぎぎ……ちょっとだけ大人しくしてくれ、キョウダイ」

「ええ、悪いようにはしません。ただ、抵抗するなら脚の一本二本は覚悟してください」


 こいつらは、二匹で協力して俺を身動きさせなくするつもりだ。そうして俺を勝たせようとするだろう。

 そうはさせない。俺だって、お前らに死んでほしくはないのだ。

 争うことはないと思っていたが、最後にこんな形で戦うことになるとはな。

 

「断るっ!」


 俺は叫びながら横跳びして、キョウダイの吐く糸を躱す。

 そしてあえて、アリの顎に身を晒す。すると、アリは一瞬立ち止まった。

 俺を殺さないようにしているなら、戦いようなどいくらでもあるのだ。

 アリの背を軸に半回転しながら跳躍しながら糸を吐く。アリの動きが糸に絡まれて止まる。

 そして近づくキョウダイを、アリの身体を盾にするようにぐるぐると回りながら距離をとる。

 

 足元にキョウダイの吐いた糸が残っていて、俺の俺折れかけた前脚に引っかかる。


「焦ったな、キョウダイ!」


 兄弟はアリを飛び越える様に跳躍し、俺に襲い掛かる。

 俺は全力でもって、折れかけた前脚を引きちぎりそのまま兄弟の牙に向かって体当ろうとする。このままぶつかればおそらく俺は即死するだろう。だが、兄弟は口を閉じて態勢を崩した。


「……お前がな」


 そして、兄弟は俺の吐いた糸に足が数本絡まり、身動きが取れなくなる。


「ぎぎ……何故、ここまで力に差がある? 自分とキョウダイは同じ力のはず」

「さあな、なんでだろうな」


 理由はただ一つだ。力に差はないが、理解に差があっただけだ。

 こいつらは、こいつら自身で思う以上に優しい奴らだからこそ、隙があった。俺はそのことを、知っていただけに過ぎない。


「あなたが、生き残れるんですよ……何故、こんなことをするんですか」


 アリも兄弟もこの様子だと、俺が生き残ることを考えていないことを察したようだ。

 俺自身、愚かな選択かもしれないとは思うし、アリの言う通り、生き残りたい気持ちは重々ある。

 

「俺が、お前らより強いからだ」


 でも、俺は強がることにした。

 周囲に沈黙が広がる。そして、もう一つ解決しないといけない大きい問題がある。


「聞こえてなかったのか? 優勝するのは一匹だけだ」


 光る玉が、俺に声を掛ける。本当に、性格が悪い奴だ。

 そう、俺はどちらかの命を選ばねばならない。

 時間切れで、どちらも無為に死ぬのだけは避けねばならない。

 悪辣にも程がある。どちらかを生かすためには、どちらかを殺さねばならない。


「ふん、キョウダイ。こんな奴のいう事なんて真に受けて、悩む必要なんてない」


 兄弟は、俺の悩みを笑い飛ばすように言う。


「ぎぎ……この糸を解いてくれ……自分は、キョウダイの次に強い。意味は……分かってくれるよな」

「……いいのか?」


 レースを降りるという事だろう。それはつまり、命を終えるという事になる。


「ジブンは、キョウダイの命より意志を優先したい」

「あなたまで!」


 糸に包まれて動けずにいるアリは、声を震わせる。

 

「ぎぎ……自分はキョウダイの死ぬ姿なんて、死んでも見たくない。それに、アリがどう生きていくのか、自分は興味ある。……例え、自分がそれを見れなくても、だ」

「……」

「ぎぎ……情けない顔するな。前に弱いと言ったことは訂正する。十分強い、強くなった」

「そんなこと……」


 そして、兄弟は俺に向き直った。


「兄弟……」

「ぎぎ……じゃあな。色々あったけど、楽しかった。キョウダイ、ありがとう。アリは、誰にも負けるなよ」


 自らの脚を噛みきり、兄弟はその脚を自身に突き刺した。

 少しだけ、痙攣してから兄弟はぴくりとも動かなくなった。


「ああ。こちらこそ、ありがとう、だ。兄弟」

「約束します。……負けません」


 すこしの沈黙の後、俺はアリに向き直った。

 残る命は二つ。命の席は一つ。

 俺も兄弟と同じことをするが、特に恐怖は感じなかった。

 諦めきれない夢がある。だが、それ以上に諦めきれない思いがある。


「さて、そろそろ。俺達もお別れだ」

「……あなたも、わたしを置いていくんですか」


 アリはぽつりとつぶやく。

 酷いことをしているという自覚もある。

 一族を失い、俺達と出会って、そしてまた一匹になる。


「置いていくんじゃない。生き残るお前が、俺達を超えていくんだ。……そうあって欲しい」


 ふと、思い付いたので俺は糸をはいて、小さい八角系の形に糸を編んだ。


「それは、何ですか?」

「王冠の代わりだ」


 とても小さい白の王冠。


「お前は女王だ。他の誰が認めなくとも、誰がお前を嘲笑おうとも、俺が、俺達が認める」


 俺はそっとアリの頭に、王冠を乗せる。

 

「これだけは覚えておけ。前に進むお前は強い。困難に立ち向かうお前は美しい」


 アリは静かに俺の言葉に耳を傾けている。


「だから、強く生きてくれ。女王」

「……分かりました。わたしは……我は、これから、あなたと、あなたたちの誇りを抱えて生きよう」


 アリは、言葉遣いから強がりを始めたようだ。

 言いたいこともあるだろうに、口元を引き締めて弱音が出ないように耐えている。


「それなら、安心だな。……どうか元気でな」


 俺もそう言いながら、残った脚を自身に突き刺した。

 激しい痛みと、命が消えていくような喪失感があり、俺は地に伏した。

 倒れていく俺の前脚に、触れるように女王の前脚が重なる。

 俺を呼ぶ声は、まだ聞こてえる。

 自分を深く突き刺したつもりで、急所から外れていたのか、まだ、もう少しだけ命が持ちそうだ。

 最後に、アリの勝つ姿、転生するところを見届けよう。


「くたばったか」


 光る玉の声が聞こえる。どうにも俺がもう死んだと思ったようだった。


「優勝はアリか」

「……ああ。……優勝者は、我だ」


 アリは、光る玉の言葉に静かに頷いた。


「まったく、茶番もいい加減にしろ。見てる側は不愉快だ」

「我らの命が、我らの旅が、我らの覚悟が、茶番だとでも?」


 アリは怒りで震えているようだ。


「騒ぐなよ。これだから虫は嫌いなんだよ。腹立たしい。やはり、お前らに勝たすことは、どうあっても気に喰わん」


 光る玉は舌打ちする。

 まずいな。この光る玉の精神性なら、俺達にとって不利益な行動をとるだろう。


「はぁ。かなり面倒で厄介だが、やり直すか。……ムシケラが人間になるよりは、はるかにマシだ」


 光る玉が何度か明滅すると、周囲に熱を帯びた光が集まってくる。


「何をするつもりか!」


 女王は声を張り上げて問う。


「言葉の通り、レースは最初からやり直しだ。お前らの旅は全て無駄だったってことだ。ざまあないな」


 光る玉はいっそ楽しげだった。どこまでこいつは腐り果てているのだろう。

 やり直しとは、どういう現象なのか具体的には分らないが、俺達にとって最悪の事だという予感がする。


「何故、そのようなことを!」

「オレがお前らを嫌いだからだよ」


 これ以上ない程の、明確な理由だ。虫は存在するだけで嫌悪される。

 光る玉の周囲は、高い熱量で視界が既に歪んでいる。

 圧倒的な熱量だ。回転しながら光が広がろうとしている。

 もう、誰にもどうすることもできない。

 だが羽根を失ったアリは、それでも手を伸ばして足掻こうとしている。

 そうか、そうだな。

 女王だって諦めてはいない。

 俺の身体だってほとんど動かない。だが、残る全ての力を使って、女王に向かって這いずっていく。

 もうすでに死にかけているし、意識だって朦朧としている。

 だが、仲間が苦しんでいるのだ、護らなくては。

 まだ動く、まだ俺は生きているなら、ほんの少しでも。 

 そして光に飲まれる瞬間に、俺は女王に覆いかぶさった。

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