第34話 水の剣 影と節制と
「ぎぎ……やばいやばいやばい」
自分は体が硬直して全く動かない。八つの目を持つ巨大蜘蛛がいる。それから目が離せない。
巨大蜘蛛が牙をぐわっと持ち上げると、そこに飛び込んで喰われなければならないと思うような本能に襲われた。
「この程度の恐怖、乗り越えて見せよ!」
女王アリに叱咤されて、自分は震えながらも体を動かそうとする。
「これは土蜘蛛。図体ばかりがでかいクモの一種だ」
「ご挨拶ねぇ」
女王アリにそう言われたけれども体が固まって動かないでいる。
「ぎぎ……」
自分は声も震えるが、せめて落ち着いて状況を確認しよう。
狼と女王アリは渇きの海で戦っていたけれども、間欠泉のあたりで狼は女王アリを振り切って先に進んでいった。
そのあと迷路になっていたので、自分はキョウダイの気配を辿っていった。
そうしたら温泉のような水たまりがある付近で、白い虎と土蜘蛛が戦っている所に出くわしてしまった。
「あら、食料。食いでがなさそうだけど、食べてあげる」
「ぎぎ……」
自分は体が勝手に動こうとしている。気を抜くと、土蜘蛛に近づいこうとしてしまう。死ぬために体が動くというのはどういうことだろう。
「弟よ、本能に抗うのは厳しいものであろう。だが、其の方の兄ならば必ず乗り越える」
そう、親に殺されかけた時もそうだった。キョウダイならば、どんなことでも乗り越えている。
自分はそれを必死で思い出しながら足を止めた。
「それでよい」
女王アリは満足げに頷いた。
土蜘蛛を牽制したまま虎が少しだけ近づいてきた。
「ふむ、珍客であるな。だがここは吾輩の舞台であり、この獲物は吾輩の仇である。故に、こちらの邪魔をせぬのである」
虎のその言葉に、自分と女王アリは少しだけ距離をとることにした。
勝手に戦ってくれる分には、こちらとしては全く問題がない。問題があるとしたら、位置関係的にすり抜けて先の道に進めないことだ。これはこれで困る。
「女王は、戦わないのか」
「我は無駄な消耗はせん。正面から戦おうとすれば、全軍の数割を失うこととなろう」
女王アリを以てしても、土蜘蛛は難敵の様だ。
「ところで、虎と土蜘蛛はどちらが有利なんだ?」
「千日手と言ったところだ。虎は糸に巻き取られないように温泉で水に浸っている、土蜘蛛には一撃で虎を倒す手段がないが、天井に張り付いている限り虎の攻撃は土蜘蛛に届かぬ」
「それじゃあ、ジブンたちはいつまでも先に進めないんじゃないのか?」
自分の問いに、女王アリは首を振った。
「問題ない、均衡はこれより崩す。少し時間を稼ぐがよい」
女王アリは考えがあるのだろうが、随分と無茶なことを自分に命令した。
そしてそのまま、部下のアリ達に命令を下している。一体、何をするつもりなのだろうか。
時間を稼げと言っても、自分ではこの二匹の生き物に太刀打ちはできない。話しかけるしかないな。だが、どんな話ならこの二匹は耳を傾けるだろう。もし二匹ともに興味を引けるものがあるとしたら、このレースに関することだろうか。何か自分が知っていて、こいつらが知らない情報はあるだろうか。
自分は意を決して、二匹に声を掛けることにした。
「ぎぎ……そこの二匹。このレースについて、いいことを教えてやろうか?」
二匹は互いに距離を取りつつ、一瞬、視線をこちらに向けてきた。
「なあに?」
「ふむ、なんであるか」
ゆっくりと時間をかけるように言葉をつづろう。
「光る玉が、迂闊にも口を滑らせていたが、このレースの障害の数について教えておこう」
自分は、スタート地点で光る玉と会話をしたことを思い出した。
「それによると、障害は全部で4つになるそうだ」
「……ほう。あの光る玉と、会話をするという選択肢があったか」
具体的な内容ではない為、大した情報ではないが。行動の選択肢として、白い虎は少し感心したようだった。
「ふふ」
そんな中、土蜘蛛はくつくつと笑い始めた。
「ぎぎ……何がおかしい」
「知らないって、おかしいわねえ。障害はもう一つあるわよ、とびっきりの奴がねえ」
土蜘蛛は前脚を器用に動かしてこちらを挑発してくる。腹立たしいが、こちらには土蜘蛛をどうこうする手段はない。
「何故、それを知っているのであるか?」
「だって、ワタシはあの方にとって特別な存在だからぁねぇ。あなたたちに教えるわけないのよねぇ」
土蜘蛛は腹の立つくらいさわやかに答えた。
レースの所々で『あの方』と言い出す生き物の集団がいる。そいつらの仲間だろう。
「ぎぎ……あの方とは、ドーシとかいう奴か?」
「あらぁ、あんなサルと一緒にしないでくださるぅ」
土蜘蛛の言い方からすると、他に黒幕がいるのか。
「じゃあ、どんな奴なんだ?」
「あの方は、とっても素敵で、すっごく強くて、何より美しいのぉ」
随分と惚れ込んでいるのだろう。土蜘蛛の口から出るのは、陶然とした声の響きだ。
「ああ、だから……とっても美味しそう」
クモの性質として、食欲と性欲は一致している。こいつに見染められた奴は悲惨だな。
「ワタシたちは、他の連中と違って特別だからって、あの方から色々と計画を聞かせてもらったわぁ。楽しかったわぁ、憧れちゃうわねえ。わざわざ追いかけてきただけの事はあるわぁ」
土蜘蛛は具体的なことは言わないまでも、随分と多弁になる。随分と、『あの方』という奴に思い入れがあるのだろう。
どんな手段かは知らないが、追いかけてきたという言い方をすることは、わざわざこのレースに自分から参加したというところなのだろう。
「それでね、この戦いが終わったら、ワタシあの人と一緒になるのぉ」
一緒になるとは、腹を満たすということで物理的な意味でだろう。
「喰うのか?」
「当たり前でしょう」
この土蜘蛛は気に入らない。どうにも腹に据えかねる。
自分たちの種族は、どこまでいっても捕食者である生き物だ。そう考えるなら、愛する者を喰らおうという土蜘蛛の言葉は正しい。
それにこいつが見せてくる醜さは、自分の中にもある。そうでなければ、地獄の道で嫉妬に駆られてキョウダイに襲い掛かったりはしない。
命とはそもそも、どろどろとした感情を持つものだ。怒りであったり、傲慢さだったり、強欲さであったりと。
だが、自分は知っている。そうではない生き方をしているクモを。いつも腹を空かせて、空を見上げているクモを。
きっとそのクモにも色んな葛藤があるのだと思う。あるいは、無理をしているだけなのかもしれない。
でも、自分はそれを美しいと思ったのだ。
だからこいつの考えは受け入れられない。受け入れてはならない。
「なぁに、反抗的な目ねえ。逃げることも動くこともできないくせにぃ」
身体は痺れる様に動かない。恐怖は消えてはなくならないものだ。
けれど自分は愛を喰らう者に、一歩でも退きたくない。
何より自分は勇気の出し方を目の当たりにしている。
勇気とは、一歩踏み出すことだ。キョウダイはいつだってそうしている。あの姿に憧れてると、これからも言い続けるなら、自分のやることは一つだけだ。
自分は、喰われるためではなく立ち向かうために、一歩を踏み出した。
「あらぁ、自分の意志で動いているのかしらぁ。どぉしてかしらぁ」
土蜘蛛から多少の困惑が見える。今までこういった生き物はいなかったのだろう。
「あんたを否定する為だよ」
そして自分の弱さを、自らの行動によって否定しよう。
「大体な。あんたは、あのお方とやらの捨て駒だぞ」
「なんでかしらぁ」
八つの赤い目の光が全てこちらを睨んできたように感じた。
「そいつにとって、本当に大事な奴なら傍に置くだろう。あんたはそうじゃない。体よく使われて追い払われているだけだろう」
キョウダイだって、大事な亀は常に一緒にいる。
「ほほう、こやつめ煽るのであるな」
俺自身はそんなつもりはない、本心を語っているだけだ。
「本当はあんただって分かっているんだろう、そいつの気持ちくらい。大体、喰われて喜ぶ奴なんてどこにいる」
生き物は自分自身に害のある者を好まない、それは当然のことだ。
「仕方がないじゃない。好きなものは嬲りたいでしょう。食べたくなるでしょう」
「ぎぎ……ジブンは、あんたのように生きたくないな。それに、だ。……今のあんたが美しいとでも?」
自分は前脚を広げて、やれやれと息を吐いた。
周囲の空気が一瞬で張り詰める。自分は攻撃に備えて集中する。
「死になさい」
風切り音とともに向かってくる土蜘蛛の前脚を、自分はぎりぎりで躱した。土蜘蛛の前脚は地面を突き刺し、土が周囲に跳ね上がる。
かすっても粉々になりそうな威力だ。
数度、自分に向かって放たれる。躱しざまに自分の前脚を叩きつけてやろうとしたが風圧で近づくこともできない。
徐々に土蜘蛛に追い詰めれれていった時、ふと白くて太い前足が目に入った。
「よい見栄であるな、弟のクモよ」
虎が自分と土蜘蛛の間に割って入った。
そしてしばらく土蜘蛛と睨みあっていると、女王アリから声を掛けられた。
「……弟よ、こちらの仕込みは完了した」
「ぎぎ……そうだったな。あとは任せる」
つい、熱くなってしまった。だが役目は果たせたようだ。そして、女王アリは何をするつもりか。
そう思った瞬間、地面が間欠泉で噴き出す時のように鳴動した。そしてその音がどんどんと大きくなっていく。
いや、これは間欠泉ではない。重い生き物が近づいている足音だ。
「ばおおおぉぉぉぉおおおおぉぉぉ!」
突如迷路の壁を突き崩してゾウが現われた。
土蜘蛛と虎の間を直進して、壁ごと破砕しながら先に進んでいった。
落石を避けようとした土蜘蛛は一瞬態勢を崩した。
虎はそのすきを見逃さずに飛び掛かかる。虎は土蜘蛛の前脚を自身の爪でひっかけて、地面に叩きつけた。
そうか、女王アリはゾウを誘導してきたのか。
「待って、やめてっ」
土蜘蛛がそう言ったため、虎は一瞬手を止めた。
「ぎぎ……虎っ! 手を止めるな!」
自分は思わず虎に向けて叫んだ。土蜘蛛は改心するような生き物ではないのだ。
すると、土蜘蛛は笑みを浮かべるように糸を吐き、しゅるしゅると虎に巻き付けた。
「ふっ、馬鹿ね。これでもう息もできないでしょう」
土蜘蛛は勝ち誇るが、虎は次の瞬間、自身の爪で糸を体ごと引き裂いた。
虎の体から大きく血が流れる。だが、糸は完全に断ち切られた。
「どおしてぇ。そんなやり方で……」
「吾輩は愚かなのである。……吾輩自身痛い目を見ないと、吾輩を許せないだけなのである」
虎は自身の爪をあえて引っ込める。そして無表情で土蜘蛛を殴り始めた。
ぐしゃり、ぐしゃり。一撃で仕留めないようにゆっくりと。
土蜘蛛の長い断末魔もゆっくりと消えていった後も、何度も拳を叩きつけている。
自分は何となく見ていられなくなって、女王アリに声を掛けた。
「なあ、女王アリ。ジブンは難しいことは分からないんだが、まるで虎が自分自身を殴ってるみたいだ……」
「復讐とはそういうものだ。……さ、道はできた。進むとするか」
女王アリはほんの少しだけ顔を伏せたので、感情は読み取れなかった。
「ぎぎ……少し別行動としたい」
自分は女王アリと離れたいという理由ともう一つ、何となく虎の傷を見ているのがつらくなってそんなことを言ってみた。
「ぎぎ……そこの虎。ジブンは、このサボテンの針で傷が縫える。……縫った方がいい」
嫌がるかもしれない。仇であるクモの糸など使いたくもないのかも。
何で自分でこんなことを言い出したのかもわからない。
ただ、キョウダイがここにいたなら、きっと同じことを言い出しただろう。
「そうであるか。弟も紳士であるな。翻って吾輩は、紳士的な振舞いではなかった」
ぼそりとつぶやく虎に何を答えてやることもできずに、自分はただ傷を縫うことに集中した。
キョウダイならきっと、何かいいことを言えるんだろう。しかし、自分にはそんなことは思いつかない。
でも一つだけ言えることがある。
「でも、虎はまだ生きている。だったらどこかで、『紳士』ができる機会があるかもしれないだろう」
紳士とは何なのか自分には分からないが、虎にはきっと大事なものなのだろうな。
「そうか、そうであるな」
虎は静かな目を自分に向けてきた。思えば初めて目があったかもしれない。
自分よりずっと強い生き物なのだが、不思議と怖さを感じない瞳だった。
「……其の方に一つ伝えておこう」
「ふむ? なんであるか」
女王アリはその場に残っていて、小声でぼそりと虎に何かを伝えた。
「……なんと。そんなことがあるのであるな」
虎は一瞬、呆然とした様子を見せたが自身の毛を逆立て怒りを現した。
ぎしり、と奥歯を噛む音もする。
「吾輩にはもう一つすることができたのである。いずれにしろ、お主等は先に進むがいいのである」
虎は自分たちにそう言いながら、思い出したように情報をくれる。
「そうだ。……この先に大河がある。そしてそこに、もう一匹の土蜘蛛がいる。さきほどの者より大型であるし、天井がもっと高いところにいるから、今以上に苦戦するだろう。だがお主等ならば、あるいは倒せるやもしれぬ。……勝利を祈るのである」
虎がコースの出口ではなく、入口の方に向かって歩き始める。
「ぎぎ……これからどこに行くんだ?」
「ゆくべきところに。……運が吾輩たちに味方をするなら、いずれかの機会にまた見えん。その時にこそ、借りは返そう」
「……またな」
虎は目を細めて、ほんの少しだけ笑みを浮かべると静かに立ち去った。
しんみりしていると、女王アリの親衛隊に小突かれた。
「浸るのも構わぬが、旅立つ時間だ。其の方のキョウダイへの距離は?」
「ぎぎ……変わっていない。足止めを喰らっているようだ。それこそ、もう一匹の土蜘蛛と戦っているのかもしれない」
まだキョウダイが生きていることは直感で分かる。
だが、亀と二人あんな土蜘蛛とどうやって戦うの言うのだ?
それに、……
「川はどうやって超えればいいんだ? ジブン達には手段がないんじゃないか?」
あるいはキョウダイは亀で川を越えられたのかもしれない。
だが、ここに泳げる生き物がいない今、詰みなのではないだろうか。
「生き物には、限界があるぞ」
「ふむ、浮かぬ顔の弟よ。限界とはな、常に進化という言葉とともに更新されていくものぞ」
女王が言うと、蟻の群れの半数がばりばりと背中が避けていく音がした。そして白く輝く羽根が現われ、自分も持ち上げられて宙に浮いた。
「泳げぬならば、飛べばよい」
とんでもない暴論に、自分は何か言い返そうとして言葉に詰まる。
「マジか? 大した女王だな」
「うむ。もっと言っても構わぬ」
女王アリは、珍しくそんな口調で答えた。
ぐんぐんとキョウダイまでの距離が近づく、遠目にキョウダイは亀と一緒に、土蜘蛛やゾウとも戦っている。
自分に何ができるか分からない。だが、今行くぞキョウダイ。
空を飛ぶ高揚感とともに、自分たちは決戦場に突入した。
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