第20話
地獄の門とは、案外こんな形をしているのかもしれない。
上下をジャージに着替えた私は、教室前の廊下でそんなことを考えていた。
『魂物』を庇ったせいで罰を受けるなら、奥で待ち構えるのは閻魔とその獄卒か。どちらにせよ天国とはほど遠い。
母の折檻から逃れるために登校したのに、逃げた先で更なる困難が立ち塞がる。
嗚呼人生、これこそ破滅。
「……あぁ、やっぱり怖いなぁ」
母と教師を振り切ってしまいたい。そんな衝動に駆られなかったと言えば嘘になる。
今だって教室の扉に向かって伸びた手はそっと降りて、震える足がそのまま下駄箱へと走ろうとしている。
けれど、その場を凌いだところで、大人は私につきまとう。
例えばそれは金銭面であったり、精神面であったり。
自己嫌悪に苛まれ続けている私には、自分が子供だという自覚が人一倍あった。どこまで行っても私は女子高生でしかなくて、親の助けなしには生きられない。
空を飛び『回収屋』から逃れようとも、見えない鎖は依然として私の体に巻きついていた。
――――ガラガラガラ。
家を出た時と同種の後ろ向きな覚悟。されど体を前に進めて、私は教卓とは逆の扉から足を踏み入れた。
「おっ、来たか」
東金の言葉を皮切りに、奴らが一斉に振り返った。
一年B組――私のクラスメイトたち。
彼ら彼女らは無遠慮な視線を照射し、各々が違った反応をする。
驚く者、喜ぶ者、憐れむ者、無関心な者。
女子は多数が上辺だけの歓迎を示す笑顔や、浅ましい色めきを見せる。
男子は少数が心からの愉悦を押し殺し、無関心を装った視線を向ける。
その中で、女子の少数と男子の多数――比較的まともな人間は、罪悪感からか俯きがちにそっと目を伏せた。
「うっわ、ガチでユズっち来てんじゃーん! どうしよう、超超ちょーう嬉しいんですけど!」
「久留里の愛がようやく伝わったねー」
まともでない人間の代表者が、そこで嬌声を上げた。
扉を開けた瞬間から、彼女が教卓の真ん前にいると気づいていた。
ただどうしようもなく寒気がして、倒れないようにそちらを見なかっただけ。
クラス唯一のピンク髪。威嚇色を辺りに振りまく舞浜久留里は、取り巻きに囃されて上機嫌だった。
造詣に文句のつけようのない猫目を可愛らしく細め、唇も下品にならない程度に曲げている。
毛先にまで気を遣っていそうな所作は、物音すら立てなかった。
「愛って! あたしとユズっちはそんな関係じゃないっつーの!」
なのに。
その全てが偽物のせいで、どうしようもなくおぞましい。
目は細め、眉は下げる。頬は緩め、唇は曲げる。手は叩き、腹は抱える。声は高く、耳障りじゃないように。
徹底して、マニュアル通りに。
それを直視して正気を保っていられるだろうか。もしかしたら、初対面の頃なら耐えられたかもしれない。
しかし、久留里の本性を知った後となっては、ブリキの人形がパーツを動かしているようにしか見えなかった。
彼女と同じ空気を吸っている事実ですら耐え難く、私はトラウマを思い出すかの如く痺れる首筋を押さえながら、無言のまま自席へと赴いた。
孤立した、右端の机へと。
「おし――蕪木も揃ったことだし、早速クラスレクを始めるぞ。委員長、説明頼むな」
「おっまかせあれー!」
久留里の周囲しか話していない異様なまでの静謐さを気にも留めず、東金が猫かぶりへと声をかける。
明るく整ったソプラノが教卓からクラスを睥睨し、それを聞いたものは一様に作り笑いを浮かべた。
不登校になる前から変わっていない、歪で壊れた箱庭の教室。
自分たちが標的にされないように、久留里の『完璧』の傀儡になっている現状は、そう簡単に覆らない。
「まずー、今回の目的はクラスのみんなとユズっちが仲良くなることだから、今日のレクは全員参加のスポーツにしようと思ってます!」
一縷の望みすら絶たれた私は、少しでも苦痛を和らげるために視覚を遮断する。
首を折り曲げ俯いていれば、顔だけは見ずに済むというものだ。耳を塞いでしまうと目立ってしまい、東金に咎められてしまう。
久留里は黒板に丸っこい文字で「サッカー」と書いていて、それを聞いた一部の男子が歓声を上げた。
中には男にしては高い声音が含まれていて、蓋をしたはずの海馬が疼く。
それは多分サッカー部のイケメンで、背が私よりも高くて、秀才の男の子だから。
私が玉砕した、久留里の彼氏だから。
――――ああ、嫌な思い出だ。
机の木目を数えている顔が苦渋に歪み、勝手に働く脳みそが記憶を暴く。
「ちょっと久留里―。自分のカレシがサッカー上手いからって贔屓してない?」
「そんなんじゃないってば! サッカーと言えば集団競技の定番! って感じするでしょ?」
机の隅には浅い木彫りで「失せろ」と刻まれている。これは私が転校してからついた傷で、凝視しなければ模様にしか見えないそうだ。
久留里の彼氏に告白した、次の日に教わった。
クリアファイルに入れておいたプリントが、その翌日から消えるようになった。大抵は引き出しの奥にくしゃくしゃに放棄してあって、記入欄がインクで汚されていた。
紙には罵詈雑言を書いてから消しゴムで消した跡があり、どこに保管していたのか饐えた匂いがした。
いじめと呼ばれるべき陰湿な嫌がらせは、決定的な証拠を出さないまま続いた。
否。証拠を証拠として受け入れられないまま、継続された。
私の心が折れるまで、執拗に。
「これなら声かけとかで全員と話せるし、同じ目標に向かって団結できると思う!」
ワンマンの人間が、よくもいけしゃあしゃあと話せるものだ。
感慨深く頷いている東金に加えて、取り巻きの連中が「なるほど、さっすが久留里!」などと中身のない賞賛をする。
それを照れくさそうな演技で受け入れた久留里は、
「じゃ、チーム分けはあたしが決めといたから、五分後にグラウンド集合ね!」
と、全体に移動を促した。
重苦しい雰囲気の中、教師とその近くにいた取り巻きだけが軽やかな足取りで教室を後にする。
追わないわけにもいかないその他大勢は、三々五々に立ち上がる。どうやらクラスの二軍たちは、少数グループを作ることで最低限の学校生活を送っているらしかった。
目を逸らし、足早に去っていく彼らに文句など言えない。
ただ、誰も味方になってくれない失望が澱となって積もるだけ。
数週間で三回も買い替えた上履きの底を鳴らして、私は出来る限りの遅さで校庭へと向かう。
その時間で、なるべく多くの感情を殺すために。
逃げようという衝動はすっかり薄まっていた。それよりも、遁走した後に襲う制裁の方が恐ろしかった。
喜びは、あっさりと恐怖で塗り替わる。
普段なら塗り替わる幸福がないはずなのに、リンゴとの対話や『回収屋』からゴエモンを助けた高揚感が邪魔をして、中々意識が切り替わらない。
心に根差す温もりが大きいほど、逆の感情が強調されて。
「…………辛いなぁ」
グラウンドに出る直前になっても、辛苦が収まることはなかった。
嗚咽は漏れても涙は零れず、簡単に楽になろうとしない自分の体にまた絶望して、外履きに履き替える。
船橋三栄高校の狭くも広くもない校庭に出ると、既に全員がゼッケンを着けていた。タンクトップ型が女子から不評の、紅白デザインの代物だ。
「はい! これユズっちの分ねー」
久留里から手渡されたそれをおっかなびっくり受け取り、細工などが施されていないのを確認してから着替える。
柔軟剤の香りがするのに感謝しながら、私はそれとなくチーム分けを確認した。
一見すると男女比が公平になっている分配はその実、運動部が片方に寄った構成になっている。
久留里が有利になるために、サッカー部の一団はこぞって相手側だ。不公平だと騒いでいた取り巻きも、自分が得をするなら構わないらしい。
それどころか、不満そうな顔をしているクラスメイトに圧をかけ黙殺する始末だ。
「ルールは女子が決めたら二点、前半後半なしの二十分勝負ね。ポジションとかはチームで話合って――」
ポロン、ポロロン。
久留里の言葉を遮って、スマートフォンの着信音が鳴り響く。音は彼女の左ポケットから漏れていた。
不愉快そうに眉を潜めていた久留里も音源が自分だと判明するや否や、目にも止まらぬ速さで相好を崩す。
「―――ごっめん! 電話かかってきちゃった! ちょっと待ってね」
「おい舞浜、今は構わんが、授業中は携帯の通知を切っておけよ」
「分かってますって! 先生に怒られないよう次から気をつけまーす!」
東金の言葉を背中で流し、久留里は小走りで下駄箱の壁へと向かった。
彼女はいつも、まるで自分が世界の中心にいるかのような大声で話すので、個室にでも入らないと筒抜けだと思うのだけど。
「もしもーし、えっ、パパ!? もー、授業中は電話かけないでって言ったじゃん! ――仕事に関する話? うん、急いでるなら聞くけどさ……」
そう考えていると案の定、父親らしき人物との会話が聞こえてきた。
久留里は無遠慮な連絡に怒っていたようだったが、次第に態度が変わっていく。
「久留里―! 聞こえてんぞー!」
サッカー部の男子が呼びかけると、舌を出してはにかんでから下駄箱の奥へと移動する。
普段なら「うっせー! 勝手に聞くんじゃな―い!」なんて媚びながら答えそうなのに、随分と珍しい反応だ。
叫んだ男子の方も面食らったようで、頭の裏をポリポリと搔いている。
「ごめーん! 待たせちゃった!」
「お父さんとなに話してたの?」
「えー、乙女の秘密?」
そして三分ほど姿を消してから、小走りで校庭へと戻って来た。
久留里は周囲の勘繰りをのらりくらりと躱しつつ、「パパ活」などと下品な言葉を口にした男子に矛先を向けて誤魔化している。時に笑い、時に怒り。リンゴとは比べ物にならない演技をして。
雰囲気を損ねず取り巻きの好奇心を満たすために、じゃれ合うようなやり取りが続いていく。
そんな中で。
周囲の注意が例の下品男子に移った一瞬の間隙を縫って、久留里の瞳が私の額を射抜いていた。
「…………っ!?」
冷酷以外の感情を取り払った圧は、彼女の本性を明示している。
これまでの経験から体が反応する、身の毛がよだつような寒気。
顎を引いて目を細める仕草は、捕食者の眼光そのものだった。
息を呑む間に外れた視線は、短い間ながらに私の汗腺という汗腺を総開きにする。
「よっし、それじゃあ雨が降る前に始めちゃおう!」
遠のいた意識が戻り、腋を一筋の雫が伝う頃。
委員長の仮面を被った久留里が、ゲームの開始を宣言する。
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