シトラス・メタモルフォーゼ

飴色あざらし

1章 差分三十三センチの生意気ぬいぐるみ

第1話 

 千葉の桜満開日は、三月二十七日と発表された。春休みが始まるのもちょうどその日。そして、蕪木柚として十六年目の堕落した生を送っている私は、その十日後にまた一つ大人になる。

 

 なってしまう。

 

 ため息をつきたい衝動から逃れるために、私は用意しておいた羊毛の塊を四本の束に分けた。くるくるくる、と端から球を作るようにしてニードルを刺す。

 何かを作りたいという意欲があるわけでもない。ただ、手を動かしていると余計な脳みそを使わない。


「ええ、ですから精神的、肉体的にも未熟な少年少女だからこそ、巷を騒がせている『メタモルフォーゼ』を発症するわけなんですね」

「身近に使っていたモノが人の形をとり、私たちと同じ言語を操る。これは人間という存在を歪めてしまう重大な案件だ」

 

 普段の現実逃避ルートに入ろうとする私を、液晶の中で唾を飛ばす大人が邪魔をする。見ずとも分かる、どこかの大学教授とコメンテーター。今日のゲストは名前も知らない地下アイドルだっけ。


 「地方自治体はモノ――『魂物』の不法投棄に罰金を科すようになっていますし、逆に捕まえた人には賞金を与えています。世間もようやく我々と同じ認識を共有してくれたようで、大変喜ばしいことです」

 

 まずい、今日は集中力が足りない日みたいだ。

 まだ毛玉が一つしか完成していないのに、ワイドショーの音声が頭に張りつく。平日の昼下がりは、一体誰が見ているんだと疑問を挟みたくなる通販番組と、それほど重要でもない情報について議論を深める無益無害な放送しかやっていない。

 いつもならこの毛玉風マリモを量産するまで、周囲の音は遠ざかってくれるのに。


「えー、でもぉ。アタシの大好きなエリスちゃんが喋るようになったら、ちょっとキューティクルかも」

「……あなた、きちんと話を聞いていましたか? 『メタモルフォーゼ』は血の通わない物体にしか起こらない現象です。あなたがインターネットで自慢している愛猫は、残念ながら喋りませんし、二足歩行をしたとしても偶然の産物です。それに、あなたの発言は不謹慎極まりない――」

「うわー、冗談の通じないオジサン。折角あたしが話を振ってあげたのに」


 つーか、その説明耳にタコができるくらい聞いた――プツン。

 不愉快そうな地下アイドルの顔にうんざりして、私はテレビの電源を落とした。画面の方を向いた時点で羊毛フェルトのやる気も失せていたし、これ以上は時間の無駄にしかならない。

 私は確かに平日の昼間から学校に行かず、家でごろごろしている堕落人間だ。しかし、いかなる怠け者であっても、無駄な時間を効率よく過ごすための手間を惜しんではいけない。そうしないと、退屈に殺される。

 かちゃ。テレビの雑音が消えたせいで、母の食器を洗う音がよく聞こえるようになった。机から僅かに身を乗り出して見ると、普段と変わらぬ様子で蛇口を捻っている。憂鬱そうな顔。


「はぁ……」

 

 私の気配を感じ取ったのか、母がわざとらしいため息をつく。まずい、お小言の兆候だ。ここ数週間で身に着けた危機管理能力を駆使し、階段を上って右手にある自分の部屋に逃げ込む。

 一七八センチという長身のせいで、扉をくぐる時は屈まないといけかった。

 似合わないのでロングからばっさり切り捨てたショートボブの毛先をいじりつつ、室内のベッドに腰掛ける。ぼーっと辺りを見回して。

 ベッドの前に立てかけておいた姿見には、うんざりするほど見てきた私の全身が映っていた。

 切れ長の目は他人を威圧しているように映り、高い鼻と小ぶりな口のバランスがそれを強調する。胸が大きいのも災いして、歩く時はいつも猫背だった。

 着たい服も大体がサイズ外で、仕方なくジャケットとワイドパンツを身に着けている。可愛い服はそもそも似合わない。


「……ため息つきたいのは、こっちも同じだよ」

 

 容姿を見るのに疲れて右手のカレンダーに目をやると、今日が三月十八日の金曜日だと分かる。曜日間隔も、ここ最近は曖昧だった。


「この借家に越してきたのが一月で、不登校になったのが三月の初めからか。こう見ると、私あんまり休んでないよね?」

 

 母も、あそこまで露骨な反応をしなくてもいいんじゃなかろうか。父の転勤の都合で引っ越しを繰り返していれば、人間くじで大凶を引くこともある。むしろ人見知りの私が、よくぞここまで耐えた。


「早く来い来い春休み。二度と来るなよ新学期」

 

 安心すると、どうしても独り言が多くなる。

 矛盾した願望を垂れ流しつつ、体をそのままベッドに預けて。

 首を枕から垂直に持ち上げれば、視界には南に面した大窓。驚くべきことに桜と林檎の木が二階まですくすくと枝を伸ばしていて、日の光はほとんど入らない。私が植えた柚の木が中々育たないのは、間違いなくこいつらのせいだった。栄養を奪い、日光を独占している。

 二本の横に後出しで植えてしまった失態については棚上げする。そもそも、地植えの許可があそこしか下りなかったし。

 桜と林檎の梢が部屋の遮光カーテンになっているのも、まだ肌寒いこの季節にはむしろマイナスだ。借家じゃなければ切り倒してる。


「木が育たなきゃ、私も育たぬ」

 

 私は近くにあったアザラシの抱き枕を引き寄せた。モノに対して愛着を持つ方でもなく、引っ越す度に私物は最低限を残して捨ててしまう。そんな自分が唯一捨てられなかった品物。

 大きさは私の爪先から胸上ほどで、くりっとした目つきと三本のひげがなんとも可愛らしい。


「あーあ。人生つまんないな。何か面白いこと起こらないかな」

 

 でも、可愛さだけでは笑顔になれない。

 形容しがたいやるせなさをぶつけるべく、ぬいぐるみの顔を横に引き伸ばしてみた。布に皺ができて潰れるだけで、面白くもなんともない。相手の逆三角と弧で描かれている口を殴ってみる。手が弾力に吸われるだけ――


『いてっ!』

「ん?」

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