第2話

その時、自分のハスキーボイスでは絶対に出ないような高音の呻きが聞こえて、私はぬいぐるみの顔を握りしめたまま静止した。

 体を起こす手間が惜しいので首だけを動かして見回すも、目立った変化はない。いたって普通の四畳一間がそこにある。まさか忍者のように何者かが壁に潜んでいるのか。いや、家族以外に知り合いのいない私の部屋に、わざわざ隠れ潜む理由がない。


「……気のせいか」

 

 季節の変わり目で疲れているのだろう。春を感じる温風が私の頭を狂わせている。


「学校に行かなくても空からお金と単位が振ってくる奇跡があるなら、私の頭がおかしくなる前に起こるべきだと思う」

 

 ちらちらと壁の隅に目を配りつつ、変わらない現実についての不満を吐いてみた。あり得ないとは思うが、もし声の主が母親だった場合、この台詞を聞いて黙っているはずがない。ゴリラみたいにウホウホ言いながら突撃してくるだろう。


「やっぱり『ウホッ』はないわ。気持ち悪い」

 

 疲れているせいか、ドラミングしながら叫ぶ母親を丹念に想像してしまい、昼ご飯に食べたベーコンがお腹の中でわだかまる。あと少しでお行儀悪くゲップしそうだった。

 唯一の救いは、さっきの声が聞こえなかったこと。

 お口直しに軽食を食べる手間が増えたが、精神病の疑いが消えたならよしとするか――。


『ウホ?』


「………………」

 

 おかしい。慌て過ぎておかしいという言葉を脳内でスーパーボールのように跳ね返らせてしまう。つまりは脳みそが揺れるくらいの衝撃。

 冷静でいるための行動で、冷静でいれなくなる決定打を生み出してしまった。

 今のは誰がどう聞いても声だった。私でも、母親でもない、第三者が独り言のノリに合わせて返事をした。

 ベッドから跳ね起きて、辺りをキョロキョロと探索する。アイボリーの壁は無言で佇んでいるし、家具の位置も変わらない。一つ変わったとすれば、息づくような気配がすること。


「落ち着いて……あり得ないって自分が一番分かってるでしょ」


 唐突に聞こえるかもしれないが、私はこの段階で、第三者が他人である可能性をかき捨てていた。

 聞こえてきた声が、自分の思い描いていた理想の声質そのものだったから。

 ぼそぼそとしたハスキーが苦手で、脱出するべくボイストレーニングをした過去があるくらいだ。この絹のような高音を聞き間違えるわけがない。

 第三者とは、私の脳内妄想だ。


「自分と会話するなんて、流石の私でもどうかしてる」

 

 頭が変になりそうで、トリートメントをつけ忘れた髪をかき混ぜながら部屋をうろつく。

 二階の床は壁が薄いので、あまりに動くと母からの小言が飛んでくる。今日の機嫌からして、普段のお説教で済まないのは明らかだ。

 残りの理性をかき集め、爪先だけであっちこっちへ移動する。落ち着け、私は感情に惑わされない女。これくらいで取り乱してどうする。


「そうだ。ぬいぐるみ、ぬいぐるみは――」


 こういう時は、綿の感触を味わうのがいい。疲れた時も、やるせない時も、日光と私の体温を吸い込んだぬいぐるみが心を受け止めてくれる。

 シーツに横びれをめり込ませ、アザラシのぬいぐるみは形そのままに寝そべっている。

 私の苦労も知らずに、自分だけが笑顔のまま微動だにしていないけど――それがいい。

 人や状況によって態度が変わらないからこそ、頼りがいがあるというものだ。

 この包容力さえあれば。


「す――っ、はふ――」


 思う存分ぬいぐるみをモフったら、今度は気力補給がてらにお菓子を食よう。

 実は今朝、母に気づかれぬよう細心の注意を払って、来客用のマカロンを一つくすねておいた。味はもちろん、私の大好きな苺味である。


「お菓子を食べれば、幻聴だってすっ飛んじゃうよ」


 自分に言い聞かせるようにして、高級菓子ならではの厳重な個包装をゆっくりと破く。

 マカロンは生地が崩れやすいので、欠片を零さないよう慎重になる必要がある。これが出来ない人には、マカロンイーターの称号は渡せない。

 これを知らないのは論外だ。汚した後の布団掃除の面倒臭さを知らない愚か者だ。

 そして知った上でやらない人とは、私は絶対に仲よくなれない。


『お菓子!? ボクも食べる!!』


 次の瞬間、私の認識できる範囲だけで三つのことが同時に起こった。

 まず一つ、私の膝の上で鎮座していたはずのぬいぐるみがまばゆい光を放ったこと。

 そして二つ、その光に目を覆っていると、食欲を刺激していた麗しきマカロンが手元から消えていたこと。

 最後に三つ、閃光が収まり恐る恐る手をどけてみると、膝の上でちんちくりんな女の子が私のマカロンを咥えて笑っていたこと。


「おいしょっと」


 白髪を幸せそうに揺らしたその子は、目にも止まらぬ速さでマカロンを放り込むと、「ごきゅ」という音を出して丸呑みにした。


「ちょ、あ、え……?」

「いんやー、この体でもやっぱり味は分からないか。柚がいつも美味しそうに食べてるから、同じ気持ちになってみたかったんだけど」


 白髪少女は軽々と立ち上がり、ひらりと私の前で回転して見せる。僅かに射している陽光が白の鱗粉を撒き散らして、着ている簡素な白シャツの柄になっていた。


「でも柚と喋れるから、もう全部我慢しちゃう! ずーっとずーっと会いたかった!! 会って話したかったよ、柚!!」

 

 ただでさえ丸くて生気に満ちている目を殊更に輝かせ、謎の少女は私に熱烈な告白をした。そのまま放っておくと飛びかかってきそうな勢いで。

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