第3話

「……ちょっと待ってね。あなたが誰かは知らないけど、一つだけ確認させて」

 

 つんのめっている相手を手で制し、華奢で柔らかい肩に遠慮なく手を置く。太陽の仄かな温もりを除けば、少し心配になってしまうくらいに冷たい。

 しかし、頭に血が上った私はそんなことを歯牙にもかけなかった。


「柚のお願いなら、一つと言わずに百まで答えるよ!! 身長一四五センチ、体重三〇グラム、スリーサイズは上から順に――」

「マカロンは?」

「おほ?」

 

 疑問は星の数ほどあろうとも、私の怒りはただ一つ。

 ネイルもせず飾りっ気皆無の指が無意識の内に食い込んでいたらしく、白髪少女は肩をビクンと震わせる。


「私のマカロン食べたでしょ!? 期間限定の苺味、楽しみにしてたのに!」

「おわわわわ、頭がぐわんぐわんするよー!?」


筋トレすらしていない私にも、体格差の有利はある。相手にマカロンを吐き出させる勢いで、細い肩を何度も揺さぶって。


「言っても分からないだろうけど、来客用のやつは二つ目を盗むとバレる確率が五割増しなの! もしもう一度やって怒られたら、あなたが責任取ってくれるの!?」

「よく分からないけど、柚が怒ってるのは伝わったから! ごめんなさい!」

「謝ったって私のマカロンは戻ってこないでしょ‼」

 

 よくよく考えると、マカロンは私ではなく来客人のために用意されたものだ。

 しかし手を動かしながら脳裏を掠めたその感情も、幼稚な熱に上書きされてしまう。どうしてか、この少女の前では抑制が効かなくなっていた。


「ごめんてば!! 柚があのマカロンを大好きなのは知ってたけど、ボクも興奮して我を忘れちゃってたの! 返す、返すからちょっと揺さぶるのやめっ」

「――返す?」

「うばっ」


 少女の言葉に反応して手を緩めると、支えがなくなった相手は顔面から転んだ。


「いてて……。柚ってば甘い物のことになると見境がなくなるんだね。そんなに慌てなくても、きちんと取り出すってば」

「――取り出す?」


 脈絡のない言葉をオウム返ししていると、少女は床にぶつけて赤くなった鼻を擦りつつ立ち上がる。

 それを見た私は、年下に暴力を振るってしまった後ろめたさを僅かに感じた。返すだの取り出すだの、そんな苦しい言い訳をさせるほど追い詰めるつもりはなかった。


「やれるもんならやってみなよ。手品師じゃあるまいし」


 ただ意志とは裏腹に、積もりに積もっていた鬱憤がはけ口を見つけて騒ぐ。鼻なんか鳴らしちゃって、我ながら最悪だ。


「うん、いいよ。ちょっと待っててね」

 

 そんな私を意に介さずに、少女は徐にシャツを脱ぎ始めた。躊躇なく太ももの裾を掴んで、ぐいーっと首の上まで一気に持ち上げる。

――マカロンを出すのに、全裸になる必要があるとはこれいかに。


「い、いきなり何を!?」


 少女はぶかぶかのシャツ一枚をワンピースのように着ていたらしく、あっと言う間に裸になる。

 恐ろしいことに上下揃って下着も履いておらず、成長途中の膨らみやら全部がすっぽんぽんの丸出し状態に――私も昔はあれくらいの大きさだったのに、何を間違えてこうなったのか。


「……そうじゃなくて! どうして全裸になってるの!?」


 飛びかけた意識を引きずり戻し、目の前の少女にそう問いかける。むかっ腹を疑問に喰わせるためだとすれば、中々の策士だけど。


「ここんとこにまだ残ってるはずだから……引っ張ってと。うあ、自分で開けるとドキドキするね」

「だから私の質問に……!」

 

 答えて、とまでは続かなかった。

 少女の首の付け根、ちょうど顎の真下のあたりに、白色のつまみが光っている。

 ちょうどぬいぐるみのチャックとそっくりで、私は吐きかけた息を喉に詰まらせてしまう。

ごくりという音が、不意の静寂に生々しく響いた。


「えいやっ」


 ビィィィィィィィー。認識が追い付くよりも早く、少女はチャックを自分の丹田まで引き下ろした。精巧な人形よりも現実めいているからこそ、不気味の谷を越えた存在感が夢を否定する。

 呆然とする脳内で、中学生の頃にやったイカの解剖を思い出していた。お腹を割いて、部位を確認する実験。薄皮を剥いで臓物が見えた時には、女子一同で顔を顰めた。


「どこにいったのかな? 柚―? そっちから見えるー?」


 この少女は人間なのか? 断じて否。

 こいつは人間の振りをした何かで、その証拠に艶めかしいほど垂れ下がっている陶器の皮膚からは、血の一滴も零れちゃいない。そりゃそうだ。

 こいつの体には臓器なんてないんだから。

 相手の問いかけを無視したまま、私は視界をびっしりと埋め尽くす綿の世界に心を奪われていた。

 少女のチャックの中身――それはおびただしい密度の綿。生物のように位置が決まった内臓ではなく、隙間を作らぬよう敷き詰められた綿。

 どこか見覚えのある色褪せ方をしているのもあって――。


「ねぇ、ねぇってば? もう、柚ってば自分で言い出しといて手伝わないなんて酷いよ。悪い子は無視するってこと? おーい」

「……はっ!!」

「あ、やっと反応してくれた。恥ずかしいから早く取ってよ」


 浮遊していた意識が、開いていた口の端からちゅるりと戻った。


「と、取るって、マカロンを?」

「柚が言い出したんだからそうに決まってるじゃん! ここの辺りに違和感があるから、手探りで掘り出しちゃって!」

「そんなこと言ったって、どうしたらいいのか……」


 ずずいと迫って来る少女の圧に、私は気勢を削がれていた。指で胸元を指して掘れだの何だの言っているけど、困惑して後ずさるので精一杯。

 なにせ体を寄せられる度に、綿も一緒に迫って来るのだ。それは見れば見るほどリアルで、ほつれた繊維が室内の微風にたなびいている。


「それ……その綿って、どど、どうなってんの」


 呼吸を整える時間が欲しかったので、思いつきの質問で茶を濁そうとすると、


「ええーい!! 女々しい柚にはこうだっ」


 ズボリ。

 私の右手首をがっちりホールドした少女が、一息で腕を綿の中に招き入れてしまった。


「ぎゃぁぁぁぁぁ――――!?」


 女々しさとは程遠い叫び声を披露して、私は冷たい部分と生暖かい部分が混在した綿の体内に飛び上がる。みっちり詰まった綿の臓器は適度な締めつけで腕に絡まり、血圧を測られているような感触だった。


「何なのこれ!? 抜けないッ」

「何って聞かれたら綿だよとしか言えないけど、そんなに驚かれるとボク傷ついちゃう」


 上下左右に揺すっても、引きこもり女子高生の腕力じゃびくともしない。外側から触ればふかふかしていそうな弾性なのに、内の密度はどこまでも捕食的だ。

引っ張っているつもりなのに、むしろ奥へと誘われているような。


「マカロンはこっちだよ! 指を伸ばせば届くんじゃないかな」

「のわわわわわ!!」


 気のせいではなかったらしく、関節の手前まで腕が呑み込まれていた。ほとんど抱きつく形で喋っている少女のつむじが、私の反応を楽しむように踊っている。

 この時点で脳の運動神経に支障をきたし始めていた私は、腕の正しい引っ張り方を忘れてしまっていた。圧迫されて痺れたのもあるにせよ、とにかく五本指を緻密に動かすのが限界になる。


「頑張れ頑張れゆーず! 負けるな負けるなゆーず!!」


 なんだその意味不明な応援は。

 私は解放されたい一心で抵抗を諦め、余計なことを考えずに少女の体内をまさぐる決心をつけた。言う通りにしなければ解放されないと悟ったからである。

 これが終わったら質問攻めにしてシバく。絶対に。

 中指を少し伸ばすと、薄皮に爪が当たる。「残念そこは背中です」からかうような

声がして、苛立ちながら指を戻した。彼女の体は思ったよりも薄い。


「こんにゃろ、こっちか……!?」


 やけくその心境で中指と人差し指を上に向けて、綿を掻き分け進行する。少女は指を伸ばせばと言っただけなので、当てずっぽうに全方向へ攻め入るつもりだった。


「当たり! 結構すぐに見つけたね」


 私の人生における微小な運勢をこんなところで使ってしまうとは、つくづく運のないことだ。

 適当に伸ばした指先が、懐かしいマカロンの感触を伝えていた。痺れて曖昧なものの、綿の

大海を泳ぎ切った後には嬉しい感触で。

 幸運のツケは明日以降の自分に任せるとして、私はどうにか二本指でマカロンの中点から端にかけてを挟み摘まむ。よし、あとは――。


「マカロン取れたから、さっさとっここから出して……!」


 あんなに楽しみにしていたお菓子も、窮屈さの前には副産物でしかない。ゴールを目前にした私は、気力を取り戻して痺れる腕を無理矢理に引き抜こうとするも、その度に吸いつく綿に妨害されていた。

 慣れない体の使い方をしたせいか頬も上気して、乳酸数値は限界を大きく超過している。相手とは微妙にコミュニケーションが取りずらいのも相まって、恥も外聞も掻き捨ててお願いするしかないと思った。

 マカロンで駄々捏ねてる時点でプライドも何もないって? うるさい黙れ。私に文句を垂れていいのは、綿に身動きを封じられた経験がある人だけだ。


「んー。どうしよっかなー?」


 少女は私の頼みを聞かずに、首を左に傾けてわざとらしい声を出した。見えなくとも、唇の下に人差し指を置いていそうな声色だった。


「ちょ、ほんといい加減にしないと怒るよ。女の子だからって手を上げられないと思ったら大間違いなんだからね」

「ごめんなさいすぐ出します」


 高身長とハスキーボイスの組み合わせは、簡単にドスの利いた態度を作れる。コンプレックスを表に出すのは癪だけど、なりふり構ってもいられなかった。

 空いた手で少女の頭を鷲掴みにして、ほんの少しだけ力を込める。恨みの効能で想像よりも強く握ってしまったような。

 まぁ、掴みやすい小顔なのが悪いか。


「柚ってば冗談が通じないんだから――そんなんだから友達がいないんだよ?」

「――――え」


 そうやって、何もかも気に入らない少女について考えていると。

 突如として体を支配していた圧力から解き放たれ、私の右腕がかつてない速度と勢いで後ろに放り出された。肩の筋に走った鋭い痛みに眉を顰めて、反射的に身をよじる。バランスを崩した体は後ろへ、支えを欲した両手は下へ――。


「あ」


 それが私の声なのか少女の声なのか、答えはどちらでもよかった。

尻もちをついて床に騒音を撒き散らした私は、掌が床につく寸前にマカロンを空へと放り投げていた。少女の綿と私の手から解放された林檎の甘味は空を舞い、私たちとは真反対の、つまりはベッド上部の壁に激突した。

 そして、繊細な生地が衝撃に耐えかねて爆散した。

 薔薇色の花弁がパラパラと掛け布団や毛布の上に降り注ぎ、季節外れの花火を見ているようだ。もし花火が原型を留めたまま降ってきたら、これと同じくらいに不愉快なんだろうか。


「ごめんね。ごめんね柚。ボク、そんなつもりじゃなくて」


 私に向かってオロオロと謝り続ける、名前も知らないなにか。

 楽しみにしていた午後のマカロンティータイムは、どうやら最悪の展開で幕を閉じたらしかった。お菓子は布団の上で粉砕され、もはや蟻の餌といった風体である。

 しかし、繰り出されるであろう暴言の嵐は鳴りを潜め、台風の目にいるような不安定さだけが私の体内でわだかまっていた。


「あのさ」

「う、うん」


 私の精神をかき混ぜた愚行に関しての反省文を提出させる前に、どうしても聞かなくてはならないことが一つ。


「あなたは誰?」

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