第37話

 ――――バチィィィン!


「口答えしてんじゃねぇよ」


 頬に広がる鋭利な痛みと、衝撃を受け流し損ねた首への鈍痛が同時に広がる。疑いようもなく腫れた顔に熱が集まるのを自覚しながら、私は努めて冷静な思考を保とうとしていた。

 たった一度、普段のように暴力を振るわれただけで萎えようとしている心を奮い立たせるために。奥底に刻まれた恐怖に競り勝つために。


「……かじゃない」

「あ? なんだって?」


 小刻みに震えている指先に柔らかな追い風が吹く。思考を投げ捨て久留里に恭順してはならないと、包み込んで背中を押してくれる存在が、そこにいる。


「私はお前の言いなり人形じゃない!!」

 

 下がっていた手を水平に構え、一思いに振り抜いた。


 ――――ゴッ!


 経験したことのない鈍痛が、骨から全身に広がる。久留里にされた行いをそっくり返すつもりだったのに、殴り慣れていないせいで指よりも先に手首が当たってしまった。ビンタの遠近感なんて学校の授業では教わらないし、こんなに響くと知っていればもう少し躊躇っていた。

 

 私が感じている痛痒の数倍を喰らわせてやった久留里は、衝撃を受け流す間もなくヨロヨロとたたらを踏む。相手の心配をするほど私もお人よしじゃないけれど、首の筋を完全に伸ばしている状態で俯いているのが不気味だ。


「は、なに……………?」


 体制を立て直すのも忘れて、久留里は下顎のあたりに手を添えた。痛みの発生源を特定するように五本の指を上に這わせ、唇の横で止まる。


「ち? あたしの?」


 自分の手首を一瞥した時にもう気がついていたものの、やはり久留里の唇から血が流れていた。慣性をモロに浴び、前歯あたりで擦過傷を作ったのだろう。止めどなく溢れる血液は触れた薬指から手相を伝い、前腕のあたりまで垂れる。

 倒れている旭の、息を呑む音がして。


「あんた……なにしてくれてんの、ねぇ、嘘でしょ? ねぇねぇねぇ」


 瞳孔を開いた状態でこちらに迫って来る。血走った瞳は私という存在に焦点を合わせているが、もはやどこも見えていなかった。痙攣する眼球が縦横無尽に駆け回っている。


「ねぇねぇねぇねぇ」


 怖い。逃げたい。

 だけど、揺るがない。

 久留里が衝動のままに振り上げた右手。運動神経がなかろうとも、何度も殴られたら軌道だって覚える。私に足りなかったのは避ける気概と行動力だけだ。


「散々人をいたぶっておいて、今更なに言ってんの……!」

「うるさいうるさいうるさァァァい!」


 半身で避けた私に対して、久留里が激昂する。ファンデーションでも隠し切れない血流で顔が真っ赤だ。下ろした腕を筋肉まかせに振り上げる動き。速度はあっても単細胞じみた癇癪では芯を捉えられない。重心を変えることなく二撃目も防がれた想定外にどんどん単調になっていく。

 恐怖で竦む体を覚悟が上回れば、素人の攻撃は素人でも避けられる。蹴り、手刀、頭突き――最後の方に至っては大道芸にしか使えなさそうな大味の攻めばかり。


「こんな後になってあたしの完璧を汚して! 被害者ズラして『魂物』を助ける正義の味方ごっこかよ! さっむい考えだなぁ!?」

「――よ、汚すほどの理想を持ってもいないお前には妥当だと思うけど? そんなに私を否定したいなら、先にそのを辞めたらどう?」

「はァ……!?」

「世の中に完璧なんかないのに、学校なんていう狭い箱庭で女王様気取りして……く、クラスの皆にちやほやされて? ステータスの高い彼氏を侍らせて? そんなもんあと数年したらなんの価値もなくなる偶像じゃん。自己満足の世界を他人に押しつけるのって惨めじゃない?」

 

 私がそんなことを考えていたなんて、言葉にするまで自分でも知らなかった。顔を蒼白から再びクリムゾンレッドに染め上げんとしている久留里の皮膚に、図星とまではいかなくとも刺さった感触を得る。と言うか、こんな言い回しをされたら誰だって切れる。

 しかし手負いの獣ほど危険なのは人間でも変わらない。まして相手は物理的な傷を殆ど負っていない気狂い女だ。ここまで憤慨していると先の行動を読むというより、反射神経に頼るしかなくなる。


「ぶっ殺してやる!」


 浅漬けよりも浅い台詞で突貫してくる久留里の爪は、猫が獲物を狙う時のように鋭く立っていた。ショッキングピンクのネイルは土に汚れても未だ健在で、妖艶な光をそこら中に撒き散らしている。中腰の猪突猛進な突貫からも、体当たりだということは予想がついた。単調どころの騒ぎではない真っすぐな攻撃でも、加速した分だけ威力は上乗せされるだろう。

 たかJK、されどJK。細身でありながらも本人の言う「完璧」な体型を維持している突撃を浴びれば、どちらのJKに軍配が上がるかは目に見えている。


「柚!? 避けてっ!」


 それを悟ってかリンゴが鋭く叫ぶ。吐息が多く混じって聞こえるのは心身共に息切れしているからだろう。

 警告してくれているのに、直立不動の自分を申し訳なく思う。


「なにしてるの!? はやくどっちでもいいから動いて――」


 そうしたいのは山々なのだけど、もう足が攣ってどうしようもないのだ。


「おせぇよ肉団子女ァ!!」


 ――なんだか聞き捨てならない声が聞こえたが、私は引きこもりでも体系維持のヨガだけは欠かさなかった。なのでそんな暴言を吐かれると不服――。


 刹那の思考を、脳内で散った火花が消し去ってしまう。押し倒された私が受け身も取れず地面に激突したのだと理解するのに数瞬。充血した視界が色を取り戻すまで数秒。

 ぼやけた視界が色彩を取り戻す頃には、視界一杯に舌なめずりをした久留里の狂喜が映った。

 セラミックで塗装してある純白の歯の隙間に、流れて固まり始めた血が海苔のように付着している。激しい運動をしたせいで伸びた口紅と混ざり、生まれた絶妙なコントラストが深く裂けた唇に凄みを与えている。


「このッボケナス……あたしがちょっと大目に見ただけで調子に乗りやがって……死ねっ、死んじまえ! あたしの世界にっ、もうお前わぁ、いら、ない!」


 なんて、殴られながらの感想にしては、いささか俯瞰的だったかもしれない。

 馬乗りになった久留里の背中から拳が生えている。そう錯覚してしまうほどの乱打が私の体を縦横無尽に殴りつけていた。鳩尾や脇腹のあたりを執拗に攻めたかと思いきや、今度は胸のほうに移動して肩の筋、ひいては顔面に鈍痛が走る。指紋の検査でもすれば全身に跡が残っていても不思議じゃないくらい。

 覚えている――不適切な言い方をしてしまえば調教されている私の脳みそは、意志とは関係なしに白旗を上げようとしている。根強く彫り込まれた恐怖心が、諦めて楽になろうと急かしてくる。


「いらないって……? そんなの、こっちから願い下げだよ……!」


 その衝動を抑えつけて久留里の拳を止めるのは、覚悟を決めた私でも時間を要した。

 自分の声がハスキーを通り越して嗄れている。息を整えようとする度に鼻腔を鉄の香りが抜けていくので、鼻水だと思っていたのは血だったらしい。痰の吐き方も知らない私は喉に絡みつく粘液を放っておくしかなかった。


「薄汚い手で触んな……!」

「ここで放したら、また殴る癖に」


 久留里は口の、私は鼻の血を垂れ流しているので、汚いのはお互い様だ。

 なんて理屈が通じる時期はもうとっくに過ぎ去っていて、頭に血が上った私たちは感情でしか会話ができない。

 だから、ここで久留里の拳を握れたのも理屈では説明のつかない結果で、再現性のない状況を手放すわけにもいかないのだ。殴られる恐怖より、負けた後に失うものの恐怖を知ってしまったから、なおさら。


「もう私は久留里の奴隷になんてならない…… 私は、私がやりたいようにケジメをつける!」

「ああもう! 耳元でピーピーピーピー騒ぐんじゃねぇ! ずっとあたしの元でナヨナヨしてた甘ちゃんが、今になってクソ生意気になってさァ!?」


 引いて駄目なら押してみろ。いくら剥がそうとしてもへばりついている掌に嫌気が差したのか、久留里は全体重を私に向けてかけ始めた。

 いくらスレンダーとはいえ、五十キロは超えているだろう荷重。背中の衝撃を吸収してくれていた落ち葉も限界を迎え、凹凸な木の根の感触が脊椎を刺激するようになる。

 ミシ……という音が、どちらかの関節から鳴った。


「――なんで……なんで潰れない!?」


 にも関わらず。

 全体重をかけたプレスに対しても、私の姿勢は保たれていた。

 筋肉が悲鳴を上げていようとも、関節を折って受け入れるような仕草は取らない。久留里が反動による緩急ををつけようが、伸ばした筋を曲げたりしない。

 とどのつまり、久留里の体は。物理的な重量ではなく――精神的な面で彼女と対等になりつつある今では、感じていた圧力の半分すらも感じない。とんだ笑い話だけれど、これまで酷く委縮していたせいで、本来の力量を出せていなかったのだ。


「こんなの認めない……! あたしは、柚なんかより偉いんだ。強いんだ……!」


 うわ言のように呟く久留里は、怖いけれど脅威ではない。蓋を開けてみれば、私たちの関係なんてこんなものだった。超えようとしていたトラウマが分水嶺を超えて、いっそ穏やかで晴れ晴れしい気持ちになる。

 狭まっていた視野がどんどん広がり、世界に色が戻っていく。ここは地獄の縁なんかではなく、千葉県の変哲もない林だ。

 私は蕪木柚。ただの女子高生だ。

 相手は舞浜久留里。あっちも――ただの女子高生だ。


「偉いとか強いとか……体裁ばっかり」


 膠着状態を脱出せんと、私は空いていた膝で久留里の鳩尾を蹴る。


「カッ……!?」

「殴れる隙があるなら、攻めるに決まってるよね……!」


 私は五体満足で生を授かったので、下半身がついている。上が拘束されているなら下を使えばいい。

 なんて、こんな単純なことに気がつかないくらい、盲目に怯えていたのだけれど。


「おい、しょっとぉ!」


 息が荒くなっていた久留里にとって、酸素が体に入ってこないのは想像以上の苦痛だったらしい。痰の混ざった涎を地面に吐き散らしえずいている彼女の肩を乱暴に持って、立場を逆転させる。

 いともたやすくひっくり返った久留里の上に跨って、逃げられないように太ももに力を込めた。無駄にむっちりしている足と、脂肪の塊である胸がこんなに発達しているのは、この瞬間に重石になるためだったのか。


「あたし……を、殴っておい、て……どうして、平気な顔、してんだァ……?」


 背中に衝撃を浴びて正常な呼気を呼び覚まされた久留里が、湿った息遣いで問いかける。

 女王様は追い詰められてもプライドを失わず、気高く煽れるのだ――と、失望しながら感心していたのに、表情を見て一気に萎えた。

 垂れた柳眉は困惑を、揺れる瞳は焦燥を伝えている。

 純粋かつ自然に、危害を加えられている状況に同情を求めていて。


「……それはこっちの台詞だよ!」


 こんな歪な人間に弄ばれていた事実が、私が拳を振り下ろすに足る動機となった。


「は? ちょ、柚、いたい、痛いってェ……ぶっ」


 わけの分からないことを抜かす口をまず潰して、生意気に伸びている二本のツインテイルを引き千切る勢いで伸ばす。もう目を合わせるのすら苦痛だったので、右手は顔面の辺りを殴り続けて目隠しの役割を果たしてもらい、空いた手で感情の赴くままに拳を振るう。

 抉って削って引っ掻いて突き立てて潰して千切って殴った。


 ――こんな人間に私の貴重な高校生活が奪われた!


 胸中を埋め尽くす黒い衝動に身を任せて――屈していた自分の弱さをどうしても認めたくなくて、血の匂いが漂うまで叩きつけた。


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