第38話
「もう、やめよう?」
そんな私を止めてくれたのは、やっぱりリンゴで。
動くのも怠かっただろうに、後ろから抱きついて拳を包み込んでくれた。血と汚液が自分の綿に吸われてしまうのもお構いなしに、また降ろしそうになる拳を幾度となく抑える。
「ボクの――ううん、ボクだけじゃないね。柚が自分のために怒って、戦ってくれたのは凄く嬉しい。でも、そんな怖い顔しないで。友達には笑っていて欲しいんだ」
寂しそうな声に、ふと冷静さを取り戻す。眼下にはぐちゃぐちゃになった久留里と、血まみれの拳。いくら過去を清算しようとしていたとはいえ、およそ自分の所業と信じられない。
腹の奥でふつふつと煮えたぎっている感情の残滓が、それを証明していても。
釈然としない想いを抱えつつ、このまま暴力を振るって、久留里と同じような人種だと思われるのも耐え難かった。下唇を腫れんばかりの勢いで噛みしめて、どうにか呼吸を整える。
「ふー、ふーっ」
「これ以上こいつを殴っても仕方ないよ。あとで柚が苦しくなるだけだって」
言いながら、リンゴが解き方の分からなくなった拳を一本ずつ伸ばしてくれる。力みが最高潮に達した腕は、興奮も相まって自分の体じゃないみたい。
小指から順に、一番きつく曲がっていた親指が開く。脳内麻薬が出ているお陰で痛みは感じないけれど、関節が軋んで動かせなかった。骨の出っ張っている部分が斑模様に赤く腫れて、肌と赤のコントラストが強調されている。
「いたいィィィ………いたいよぉ」
「…………」
立ち上がって見下ろすと、顔を覆って涙を流している久留里の姿。キャラが染みついたのかそれとも素なのか、手首で拭うあざとい仕草が鼻につく。
「人のことを散々いたぶっておいて、報復されたら苦しむって――いくらなんでも虫がよすぎるんじゃない? まず私をいじめたことを反省して――」
違う。
こんなことを言いたいんじゃない。
両頬の地面に小さな水溜まりを作っている久留里に同情したわけでもないのに、言葉が宙を彷徨って定まらない。私の思いを反映した台詞でも、心の芯からぶち壊す革命の音は聞こえない。
「ほーら。もう帰るよ。ここにいたって柚が辛くなるだけだもん」
「ちょ、ま」
思案に耽りそうになった私の背中を、リンゴがぐいぐいと押す。普段の綿馬鹿力は感じられなくとも、度重なる運動で限界を迎えている体には十分な塩梅だった。
「まだ言い足りな――」
「そんなことないよ。言い足りないくらいがちょうどいいんだって。お菓子だって満腹になるまで食べたらお腹を壊すし、勉強だってやり過ぎると頭が痛くなるでしょ?」
分かるようで分からない、詭弁のようなことを言ってくる。
首を回してリンゴの方を伺うと、ちょうど顔を上げた彼女と目が合った。笑っているようにも見えるが、固く結ばれた唇は楽しい時に現れる表情でもない。なんとなく――以心伝心のような意識の流れを感じたところで、ぷい、とそっぽを向かれてしまう。
地面に突き立てた踵で抵抗しようとも、砂利を抉りながら進行するだけ。有無を言わさず運んでいく姿勢と表情に、いくら鈍感な私でも察するものがあった。
「「………………」」
互いに無言で、旭と久留里から離れていく。私の胸には一抹のわだかまりが残っていたけれど、リンゴの気遣いを余計なお世話だと咎める気にもなれない。初めてできた友達――こんなに「友達友達」言っていると拘っているようで恥ずかしいけれど、みんなだって初めての彼氏彼女ができた時はこんな感じだったはず――と私の執着、どちらを優先されるのかと聞かれたら、迷わず友達を選ぶべきだ。
そう結論づけて、私は自分から歩を進め始めた。急に反発する力がなくなったリンゴは数歩つんのめってから、横まで並んで顔を見上げる。伺った表情がいつもの私であることに「ふぅー」と息を吐いてから、思い当たったように表情を暗くする。
無表情の私は大抵の場合ストレスを貯めていると、長い付き合いで知ったのだろう。そんな細かいとこにまで気がついてくれる友人をなおさら無下にできない。
困った。
「むぎゅぅ!!」
――むぎゅう?
しつこい消化不良を誤魔化そうと無心で歩いていると、不意にリンゴの悲鳴が聞こえた。
同時に横に並んでいた小さい気配が遠ざかり、慌てて後ろを向く。
「なーに勝手に帰ろうとしてるのかなぁ……!?」
受けたダメージからもう立ち直ったのか、久留里がリンゴの首根っこを掴み上げて歯を鳴らす。カタカタ、という打音よりもギャリギャリ、といった擦過音が相応しい歯ぎしり具合で、もがくリンゴを自分と同じ高さにまで掲げる。
「離してよ……! このっ、しつこい……」
「あれれれれれれれれれれ、あたし今、モノに諭されたの? キモすぎるんだけど? どの分際で口答えしてるの?」
焦点が合っていないあたり、もはや気概だけで立っているのだろう。呂律の回らない言葉を形にするため、前歯の隙間に舌を挟み込んでどうにか話している。
私に殴られたダメージは抜けていない。あそこに立っているのは抜け殻の狂信者だ。
「だいたい、あたしが旭の力を使わずに泳がしてやってたのに反旗を翻すとかにゃまいき過ぎるんだわ! もうホント有り得ない受け入れがたい気持ち悪い! あたしの前から姿を消すのは大いに結構! だけど、最後に謝ってからじゃないと気が収まらないんですケド!?」
久留里はツインテールの毛先と一緒にぶるりと痙攣してから、暴れているリンゴの首を更に強く握った。
「っ……」
伸ばすに伸ばしたネイルの先端が、刃物の代わりとなって表面を切り裂いた。最初は突き立てるような深い傷で、それを横に開く。もはや意識して行ってすらいないだろう傷口は、純粋な悪意によってリンゴの体を犯した。
小麦色の肌から、汚れなき純白の中身が顔を覗かせて。
「ほらー! オトモダチが泣いちゃうよ! いいのいいの? 早くあたしにひれ伏して! 靴を舐めてから惨めったらしい格好を裏アカで共有してもう一回の奴隷宣言! はやくはやくぅ!」
ペッ。
十七年の人生と一緒に品性を置き去りにしたのか、久留里は溜まった痰をリンゴの首筋に吐きつけた。
傷口の、一番奥に。
「テメェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!!」
瞬間、私の視界が爆ぜた。
「ブッ!?」
腕とか足とか、体の器官で私の行動は説明できない。ただ臨界点を超えた感情が一陣の風となって吹き荒び、狂風をなりふり構わずぶつけたのだった。
相手がひしゃげたのか自分の腕が壊れたのか、それすら曖昧な渾身の右拳が久留里の顔面にめり込み、嘘みたいな速度で吹っ飛んでいく。「人体の反発性について」なんて論文が書けそうな勢いで地面を撥ね、樹齢の高そうな木に衝突して止まる。
残り少ない枝葉が零れ落ちて久留里の体に降り注ぐ頃にはもう、私はそいつのそばにいる。
「これだ、これだったんだわ。私が躊躇してたのが悪かったんだ」
「ゆ、ゆずゥ……? あたしそんなつもりじゃ……」
「じゃぁどんなつもりだったのか言ってみろよ。はい三、二……」
無意識の内に軽薄メスガキ女の意趣返しをしようとしていたのか、私はカウントダウンを始めてしまった。似たような手法しか取れないのは癪に障るが、私は久留里と違って煽ったりなんかしない。やると言ったらやる。
三秒前なんて言い訳させるつもりのない秒数設定で、残り二秒のところで私は華奢な久留里を持ち上げた。
「ナイナイナイから! あたしが柚に負けるとかありえないからぁ! 離せよ! 離してよぉ!!」
「一……」
火事場のなんとやらでとんでもない力が出ているのを薄っすら自覚しつつ、暴れる久留里を寝ている彼氏の元まで運ぶ。
「!! おい、まさか……」
共犯の癖して、自分は久留里の奴隷で被害者ですよみたいな顔をしている旭の前に立つ。イケメンでも生理的に無理だと判断してしまえばどんな性犯罪者よりも気持ち悪かった。
流石に歩いたままではバランスが取れないので、小走りで近づいて。
「ゼロ――くたばれこのゴミカス共がァァァ!!」
重力と筋力に任せて、旭の胴体に投げつけた。
「ビュッ…………?」
向きを整えてやる慈悲もなく、久留里は顔面から水晶体へと突っ込む。
脳天から鳴る鈍器の音と、舌を挟んだ呻き声。滑舌を整えるために出していたのが仇となった。せめてもの救いはすぐに意識を断てたことだろう。私としては気持ち悪くても眠れない地獄を味わって欲しかったのだけど――
――この爽快感の前では、全てがどうでもいい!
私だって意地汚い人間なのだ。あんなただペチペチ殴るだけのお高くとまった報復ではなく、徹底的に叩き潰してやった方が気持ちいいに決まっている。自分の浅ましさを認めるようで気が引けるけれど、久留里の頭蓋骨が陥没して旭の体から大量の結晶が舞った瞬間、私は言いようのない快楽を得ていた。
「やって、くれたなぁ……」
罅だらけの体になった旭が、恨みがましい目線をこちらに向けてくる。一見すると分かりにくかった亀裂も、先の一幕で彫りが深くなり瞭然となった。体に入った無数の断裂はもちろん、右上の額から斜めに刻まれた深い割れ傷が『魂物』であることを強調している。
「お前だって久留里に服従させられてたんでしょ? これを機に野でも山でも好きなとこで生きていけば? あ、私の視界に現れるのは禁止で」
久留里は気絶しているが死んではいない……はず。
私は人殺しなんて御免なので、殺したいほど恨んでいてもこれ以上痛めつける気にはなれない。それに目の前にある白線を超えてしまうと、私が抱えていた未練とは別の禍根を残してしまうかもしれなかった。
過去を清算したのに、また過去になる現在に歪な種を残すなんて、それこそ馬鹿みたいじゃないか。
「そんなことっ……できるならとっくの昔にやってるさ! 逃げたって緩やかに死ぬのを待つだけで、ここに残っても久留里の癇癪で殺される! 八方塞がりの状況を作った張本人が指図するなよ! くそっ、僕はカイと同じ末路を辿るなんて御免だからな……」
旭は私の会話から脱線して、自分の世界に籠ろうとしている。そこにはもうクラス副委員長で、女子から羨望の眼差しを集めていた男の影は何処にもない。
リンゴがぴくりとも動かなくなったあの時の状況と――旭が話している「緩やかな死」は同義なのかもしれない。ただ、剥がれた鍍金がここまで輝きを失うものかと虚しくなって、問いただす意欲が湧かなかった。
「ねぇ、最後に聞かせて」
だから。
私は旭の前にしゃがんで、髪をかき上げながら問うた。
「私の新しい髪型、どう思う?」
私にとって最も優先度の高い質問を。
「…………は?」
「いいから答えてよ」
私の頭が見えやすいように髪を掴む。持ち上げられた旭は、呆けた顔から一変して苦渋の表情を作った。眼球だけで確認すると、ところどころで破断した水晶の一部が亀裂を深くしている。無理に動かしたのが祟って、首の罅は全体の半分にまで達していた。
昼下がりの陽光がチャフのようにキラキラと輝く粉末を照らしている。
「くそっ、訳わかんないこと聞ききやがって……!」
訳がわからない――その言葉がもう、答えの六十パーセントほどを占めていたけれど、私は二頭筋に力を入れるだけでぐっと堪えた。
この質問の意味は私だけ知っていればそれでいい。リンゴにだって話したら引かれてしまうかもしれないから、こんな浪漫も糞もない林で片をつけようとしている。
区切りをつけようとしている。
「――似合ってるよ、前よりもずっと」
小さな破片が零れ落ち、風の葬列に加わった瞬間――旭は淀みのない口調でそう答えた。
嘘とお世辞を吐くのが当たり前になっている喉は、機嫌を取る上で最も効果的な音を震わせる。混じりけのない瞳は混ざり過ぎて黒に染まっているようだ。
おまけに微笑までついてくるのだから、調教と習慣というのは恐ろしい。
「そろそろ、放してもらってもいい?」
「――――うん、いいよ」
切り替えた旭に促され、私はそっと地面へと置いた。
ゴツ、という音が私の青春を終わらせてくれた。
「――ブッ!?」
「よかった、本当によかった。旭が屑で、私は本当にうれしい」
似合ってねぇよバーカ。
こう言われていたら、踏むのを躊躇っていたかもしれない。
旭の模範解答は最高で最悪だった。少なくとも顔面を踏みつけるくらいには。
放せよっ、ブスがっ、などど今更ながらに建前を捨てた旭が喚いているが、嫌悪感が振り切れた私の心は止まらない。呻吟を漏らしている息が私の靴底に当たるのをとにかく不快に思いながら、片足に渾身の力を込めていった。
「や、め、ろ……! 壊れる……!」
「旭は元から壊れてるよ。自覚がないだけで」
一定の圧力を超えた暁に、水晶の罅――鏡面が音を立てて崩壊を始める。眼球にまで亀裂が入り、世界が歪み始めたことによって、ようやく危機感を覚えたのだろう。慌てて足首から引き剥がそうとしてくる。
私は最後の悪あがきを眺めながら、注意深く旭の顔面を蹴り砕いた。
「ッァ――――!? 僕の、僕の顔がァァァァァァァァァ!?」
蹴り砕いたと言っても、耳と頬を少しばかり削いだだけだ。顔の大部分はパーツを残してあげたし、これくらいならまだ女子にモテるだろう。
自慢のよく回る口で「今日も僕の鏡が美しいキミを照らしているよ」みたいに語ればいい。
「モノ殺し」すら犯したくない私の臆病さが中途半端な結果を招いた訳だけれど、地面をのたうち回っている旭が面白いのでこれはこれであり。主であるはずの久留里を吹き飛ばして転がっているのが芸術的だった。
「……なんだよ、その顔はッ……」
やるべきことを終えて、ぐったりしているリンゴの元に駆け寄ろうとした時、苦し紛れの咆哮が聞こえた。心からの不服を訴える、怨嗟の声だ。
振り向いてしまった私に、削れたことで本質を取り戻した鏡面が映る。そこにいるのは外着のブラウスとズボンに穴をあけ、満足げながらに青ざめている私。元気な病人のような、矛盾を抱えた姿で立っていた。
「しーらない」
わからないなら、人間向いてないんじゃない?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます