第36話

 綿がぎゅうぎゅうに詰まった室内に反響しきるどころか、ほんの僅かな隙間から声が突き抜けてしまうほどに、喉がぶっ潰れるまで大声を出した。青春ドラマなんて目じゃないぜ。

 両手でメガホンを作ってぶつけてやった張本人は顔を上にして、返事をしてくれない。

 と、思ったのもつかの間、リンゴが両手を天に突き出した途端に、綿の世界が彼女の体に収束し始めた。繊維が解け、糸が螺旋を描いて装甲を纏うように集まっていく。体内に詰まっていた綿を全て放出していた――それを回収しているから大量の質量を収めても体が膨らまないのかもしれない。でも、視界に移っているだけで一軒家が立てられそうな面積の綿があるのは、いくらなんでもキャパオーバーだ。


 足元が覚束なく、本来の柔らかさに戻る世界の中で、私はひたすらにリンゴの返事を待つ。心臓が早鐘を打っているのは、このまま立っているといつか空中に放り出されんじゃないかという恐怖もあるけれど、放置されているせいでもあった。

 旭に告白した時もこんなに緊張していなかったと思う。なまじ感情を共有できるだけに、自分が経験したことのない状況にどう答えるか分からない。


「柚、こっちに来て」


 リンゴが右腕をこちらに差し出す。上を向いたままで表情は伺えない。

 私の想いは伝わったのか、伝わったとて相手が応えてくれるのか分からない対物関係。生来の癖で悪い可能性ばかり考えてしまう幼い自分を心に押し留めて、おずおずと手を取る。


「大好き大好き大好き大好き大好き!」


 そして、間髪入れずに抱きしめられた。

 リンゴの湿っていて、暖かい胸の中に顔が埋まる。


「情緒おかしくない!?」

「柚が悪いんだもん! ボクのことこんなに不安にさせてさ! ほんとに何回も捨てられるかと思ったんだからね! 『魂物』になってからずっと冷たくあしらわれて――」

「う……」


 言葉を詰まらせていると、足裏を支えていた地面が急速に薄まり、下を確認する暇もなく私たちは空に放り出された。温室効果はすぐに消え去って、三月ならではの温いようで肌を切り裂く寒風が背中を吹き抜ける。

 しかし不思議にも、高所からくる恐怖はなかった。高いところにいると脳が認識した時から足がすくむと聞いたことがあるけれど、その通りだと思う。

 だって私の目線はリンゴの顔に釘づけで、人生で最も信頼している相手の胸中に包まれている。万が一にも見捨てられて、空から紐なしバンジージャンプを強いられたとしても、恨むことなく己の運命を受け入れる。それほどまでにリンゴの心を傷つけて殺してしまったなら、私もそこで呼吸を止める。

 大切なものを蔑ろにしてまで過ごす人生なんて死んでるのと同じだ。


「でも許してあげる! だって今、ボクはこんな幸せなんだもん!」

 

 とまぁ、極端な思想を出してしまったものの、私の心配は杞憂に終わったようだ。

 リンゴが私の頭頂部に顔を埋めてから、ほどんど唇がつきそうな至近距離で叫ぶ。泣いたまま笑っている表情は、口輪筋のあたりがぐちゃぐちゃになっていて、頬も裂けてしまいそうだ。どうにか涙を止めようとしているのか、下顎に迷路のような皺が刻み込まれている。

 人の顔色を窺ってばかりの自分が嫌いだったけれど、こんな表情を読み取れるなら捨てたもんじゃない。

 心配を吹き飛ばしてくれた笑顔は、概ねこんな幸福を与えてくれた。私がようやく掴み取った、リンゴの満面の笑顔だった。


「なんなのよこれはぁぁぁぁぁぁぁ!」


 抱きしめられながら束の間の空中遊泳を楽しんでいると、近くで醜い叫び声がした。胸に埋めていた顔を上げると、視界に移ったのは錐揉みになりながら落下していく旭と久留里の姿。

 清々しい気持ちを邪魔された不快感と、進行形で苦しんでいる様子を見て得た快感が相殺されて、いくらか冷静な目線で観察できる。


「あれ……どうしよっか?」

「放っておいていいよ。どうせ自分たちでなんとかするだろうし」


 団子になりつつも、旭を下にして衝撃を免れようとしている久留里には皮肉の意味で賞賛しようと思う。私の予想が正しければあの体制で両者とも助かるだろうけど、臆さず実行に移せる人間はそういない。

 私が冷徹に切り捨てたのを意外そうに眺めていたリンゴも、綿を伸ばして助けようとはしない。私をいじめていた相手と、リンゴの腹を掻っ捌いた張本人。死にもせず痛い目を見るだけなら放っておいても構うものか。


「よいしょっと」

「――っがぁぁぁぁぁ!」


 リンゴが優しく降ろしてくれたお陰で優雅な着陸を決められた半面、久留里たち一行は旭を下敷きにするというなんとも不格好な形で地上への生還を果たした。落ち葉を巻き上げて不時着し、顎から火花を散らさんばかりの勢いで滑っていく。


「もっと優しく降ろしてよ。お尻いったい!」

「ごめん……思ったよりも高かったから……」


 献身に礼の一つもなく、クレームを入れるだけ。反抗せずに謝るのも信じられないが、久留里には人の心がないのだろうか。さも当然のように旭を足蹴にして靴の汚れを落としている彼女を見ると、そう思わずにはいられない。

 もしくは、旭が『魂物』だから好きに扱ってもいいと考えているのか。


「あー? そうに決まってんじゃーん」


 知らぬ内に声に出していたのだろう。久留里が肉食動物めいた三白眼でこちらを睨んでくる。クラス内でも全方位の囁き声を聞き取っていたのではないかという地獄耳を有していたので、不思議ではないけれど、不意の一撃というのは怖いものだ。


「つーかさ、よくよく考えたら、なんであんたここにいる訳? いや、ゴエモンの力を使ってストーカーしてきたのは分かるんだけど。そこまでする動機が謎っていうか、意味不明過ぎて気持ち悪いっていうか……」

「……久留里には、言ったって分からないよ」

「は、それもそうか」


 ツインテールの毛先を弄んでいる久留里は、私が喉から絞り出した言葉を一笑に付した。互いに分かり合えないと知っているからこそ、余計な言葉はいらない。曲解じみた理屈で論破しにくるでもなく、対等に話したのは随分と久しぶりのことだった。

 たとえそれが外面だけだとしても。


「でもまさか旭が『魂物』だってバレるとは思わなかったや。どこらへんで気づいてたの?」


 久留里が普通の質問を投げかける。今日の朝ごはんが米かパンだったかを問うようにあっさりと認めながら、足元に転がっている硬質な手に触れている。

 受け取り手としては調子を崩される歪さでも、ここで臆してはいけない。薄く練り込んだ空気を均等に吐き出していく姿を想像して、努めて冷静に。


「最初はリンゴを切った時で、旭の手が刃物みたいに変わったから。けど、確信に変わったのはついさっき」


 そう言いながら私は、旭の横で煌めいている水晶の欠片を指さした。ちょうど着陸した際に抉れた地面の滑走路にも同様の水晶――ガラスのようなものが転がっており、陽光を乱反射して尚も輝いている。


「旭は水晶か結晶か――とにかく、そういう類の『魂物』なんでしょ? 嘘だって言うならそいつをひっくり返して体を見せて。きっと体が欠けてるはず」

「……別に、嘘なんて言うつもりないっつーの。正解正解、大正解でーす。あたしの彼氏兼クラス副委員長兼陽キャポジ男子の正体は、あたしの部屋から爆誕した鏡の『魂物』でした」


 全くもって感情のこもっていない拍手の音が、閑散とした林の中に広がる。最初は十六音符で、次第に拍が長くなる。隣にいるリンゴが体を硬くしているのが分かる。

 手首のスナップを効かせてパン、パンと鳴っていた音が最後に響いた時、久留里はまたなんの感慨もなくこう呟いた。


「知られたからには、只じゃ返さないケド」

「……?」


 真意が測れず、首を傾げてしまう。

 久留里はクラスでの爛漫さや裏の狂暴性を表に出さず、淡々と話している。これから彼女が私を普段通りに痛めつけて黙らせるのが当然であると言わんばかりに、自分の勝利をなにも疑っていない声色。

 脇の下に冷たいものが走るのを感じつつ、膨らんだ疑惑を口に出す。


「そう言われて、私が抵抗もせず受け入れると思ってる?」


 間髪入れず、


「あ? 今更なに言ってんの?あんたは黙って殴られるだけの玩具に決まってるじゃーん。口がちょっと回るようになったからって思い上がんなよ」


 うなじの髪を後ろにまとめながら、久留里は薄っすらと目を細める。唇の間からチロリ覗いた舌は気持ち悪いほど艶めかしく、嗜虐的。

 外面だけでも対等になれたと思ったのはこちらの傲慢で、久留里は捕食者としての価値観を失ったわけではなかった。表の爛漫、裏の狂暴――二つに当てはまらない状態の彼女は言葉では言い表せないほどにしていて、魂と精神の形が馴染んでいるように見える。


「下がってて。今度こそ、ボクが柚の力になるんだ」


 私の前に腕を出して、リンゴが立ち上がる。ゆったりと、しかし確実に距離を詰めに来ている久留里から庇うようにして構える姿は毅然としていて、私のためになんて言うものだから思わず胸がキュンとしてしまった。


 ――けれど、それじゃあ駄目なんだ。


 リンゴが用意してくれた安全テープを退けて、私は最前線へと進んでいく。「え?」という声と、肩に感じる弱々しい感触に心を痛めながら、決意を新たに。


「ちょ、ちょっと待ってよ! ボクの話聞いてた!? なんかもう覚悟を決めて戦う流れだったのに!」

 

 振り向くとリンゴが想像よりも焦った顔をしていたので、こんな状況なのに笑えてしまった。そんな泣きそうな顔をしないでも、私はリンゴを置いて行ったりしないし、見捨てたりもしない。流石に繰り返して言葉にするのはくどいし……恥ずかしいので、論より証拠でリンゴの額にデコピンを喰らわせてやる。


「あぅぅ」

「ほら。やっぱり弱ってた」


 叩いても引っぱたいても平然としていたリンゴが、今ばかりは私の一撃で地に沈んだ。額を押さえて蹲っているけれど、単に足腰が弱っていて立てなかっただけだろう。最初に『メタモルフォーゼ』した日に、衝撃耐性があるのは確認済みだ。


「あんな怪物級の綿を出しといて、元気ピンピンのはずないもん。覚悟があっても行動できなきゃ活きないよ」


 どの口が言っているんだと思わなくもない。リンゴを止めるためには詭弁も辞さない心構えである。

 事実としてリンゴは体内では収まりきらない綿を放出していたし――どういう原理かは分からない。機会があれば検証してみる――『魂物』の力にも限度があると仮定すれば、代償は心身に現れるはずだ。そして未だに生まれたての小鹿のように足を震わせて、立てていないのが証拠になる。


「こう見えても私はリンゴのと、友達なんだし……ちょっとくらいは、頼りにしてよ」


 リンゴの前にしゃがんで、頭を撫でてみる。汚れても変らないモフモフの感触が、強張っていた心を溶かして、いつでも勇気をくれる。

 慣れない台詞を吐いたせいで気障っぽくなったけど。


「え? あ、うん……そっか、友達……」


 言われた方も照れ臭そうにはにかむので、私も余計に恥ずかしくなる。吹きすさぶ寒風が頬に刺さるのは、そこに熱が集まっているからだろう。手団扇で扇いだところで、そう簡単に冷めてくれない。


「……無理は、しないでね?」

「分かってる。バシッと決めて帰って来るから待っていて」


 庇護欲をそそるリンゴの上目遣いを堪能してから、そそくさと背を向ける。時間にして一分にも満たない会話だったのに、未練たらたらの自分に苦笑して。

 顔色が悪いのを自覚しているから、リンゴの前で留まるわけにもいかなかった。


 無理はなしない――無理をしないという方が無理な話だ。私の心に深い楔を打ち込んだ悪魔のような存在と対峙しようとしているのに、己を律せずして立てるものか。無理無茶無謀は避けるだけで人生に安寧をもたらしてくれるけど、通らずして成長もない。

 なにより、久留里との関係にケジメをつけるのは私でなくては駄目だった。友人にだって委ねてはならない、私が私を救う方法。


「あーあ、ガチでつまんない。あたしの躾が悪かったのかなー?」


 一陣の風が吹き抜ける。質量のある物体が起こした気流の感触。

 隙をついて、久留里が私の眼前にまで迫っていた。

 足早にも程がある、異様な速度での接近。久留里の短気な性格が予想以上の肉薄を可能にしていた。


「最後にもう一度だけチャンスをあげる。これまでの非礼を詫びて這いつくばったら、元の関係に戻ってあげてもいいよ? あたしたちには少し亀裂が入ったけど、最高のパートナーになれると思うんだよね」


 自分の言葉を傲慢だと微塵たりとも考えていない、女王としての発言だった。二コリと微笑む顔は既視感があり、記憶を辿ると母親が見ていたドラマの、悪役お局上司の微笑と瓜二つ。口輪筋を作り上げているのが見え見えの、皺がない笑顔だ。

 気持ち悪い。


「自分の言いなりになる玩具が欲しいなら、頭の中で妄想でもしてたらいいんじゃない?」


 ずっと喉の奥で留めていた言葉を、今度こそ吐き出した。怯えていた思考も声帯を通ればずっと気楽で、ハスキーな音程で相手へと届く。

 言葉にしなきゃ伝わらないんでしょう? お馬鹿さん。


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