第35話

 小学六年生の冬。四回目の引っ越しの前。

 クラスメイトは仲よくもない自分のために送別会を開いてくれて、取り繕った悲しみと別れを伝えてくれた。

 もっと時間があれば友達になれたかもしれないのに、大人の都合は子供を振り回す。

 でも、我儘を言うと母さんと父さんがまた喧嘩をしてしまいそうで、家族の関係に罅を入れたくなくて黙っていた。

 誰にも相談できないから、一人で考えることが増えた。

 そんな風にしていると、心配した両親がショッピングモールに連れて行ってくれた。運転席と助手席に座る二人の間には淀んだ空気が漂っていて、けれどそれを打ち消すために明るく振舞ってくれた。


「今日は柚の好きなもの、なんでも買ってあげるからね」

 

気遣いは嬉しいのに、どうしても笑顔にはなれなくて。

 私は窓際に顔を近づけて、どうにか新鮮な空気を吸おうと苦心していた。

 紙で貼りつけたような態度が、息苦しくて怖かったから。


「どれがいい?」

 

人はみな、本心を隠して生きている。

 そう幼いながらに理解していたし、抜き身の言葉は人を傷つけると父母の喧嘩で学んだ。

なら、私はなにを恐れているんだろう。

 本心からの罵倒? 上辺だけの対話?

 理解しても納得できないもやもやを、この頃は収拾がつかなくなるまで抱え込んでいた。


「…………じゃあ、これ」


 私は捌け口として、家族にぬいぐるみを買ってもらった。ひげが一本欠けた、不格好だけど愛らしいぬいぐるみだ。

 店員さんに何度も確認されたけど、私はこの子がよかった。

 完璧よりも、不完全な姿が自分と重なった。

 欠けた心の隙間を埋めるように、布団の中で話しかける。私はどうして辛いのか。


               ***


 既に出ている答えを頭の中で繰り返してから、綿の海を泳ぎきる。

 そこは四角形の空間だった。綿で作られたカレンダー、アイボリーの勉強机、少し小さな姿見、外が見えない大窓。私の部屋そっくりな設えのベッドに、白髪の女の子が蹲っている。


「……リンゴ」


 体育座りをしている彼女は、普段にも増して小さかった。膝の前で固く結ばれた両腕と、ほっそりした太ももの間に顔を落として。腰まで伸びたポニーテイルが、しょげている犬みたいに力なく下がっている。


「ボクって、駄目なやつだよね」


 近づこうと足を踏み出した瞬間に、くぐもった声が聞こえてくる。泣いているようにも、自虐しているようにも見える態度は、私がリンゴに八つ当たりしている時とそっくり。

 ただ決定的に違うのは、リンゴが本心から悔やんでいる点で。


「いじめられてることは分かってて、それを変えてあげたくて。でも柚のことを全然励ませなくてさ。結局、甘えんぼうな自分のまま、そばで話してるだけだった。 ボクじゃ柚の理想には応えられなかったんだ」


 分かってないのはリンゴの方だ。

 でも、言わなかったのは私の方だ。


 己をさらけ出す時に必要な勇気を後回しにして、放っておいたから拗らせた。変わる前に逃げ出している人間をどうして励ませるだろう? 同じ景色を見ようとしない相手と感情の共有なんて、人とモノじゃなくても難しい。

 私が無言のまま足を踏み出すと、リンゴの肩がびくりと震える。


「――ないでよ、来ないでよ。柚にはボクがいなくても大丈夫だよ」


 明るさ全開のリンゴはどこへ消えてしまったのか、吐き捨てるようにして私を拒む。感情に呼応してか綿の小部屋も形を変えて、現実には存在しない帳が二人の間を隔てようとした。

 けれど、消え入る声を前にして、はいそうですかと踵を返すわけにはいかない。

 私は今にも断裂しそうなアキレス腱に祈りを込めて、両足で綿を蹴った。文字通り左と右を同時に出して転びそうになったのは秘密だ。結果としてスライディングの形となり、シャッターが下りる前にリンゴの懐へ潜り込めた成果だけを誇ればいい。


「いつもはそっけない癖にどうして――」

「ごめんね。ずっと謝りたかったんだけど、余計なプライドが邪魔をして言えなかったの。でも、もうそれもお終いにする。自分の思いに気がついたから」

「そんなこと急に言われても、ボク分かんないよ……」


 相変らず顔を隠したまま、リンゴが私のみぞおちを足裏で押す。落葉と煤で汚れていても柔らかいその感触は、触れていると表現した方が正しいくらいの弱さだった。拗ねた子供が許さまいと拒絶する姿に、申し訳なさと友愛の情が募る。

 迷わず私は。

 丸ごと包み込むくらいの気持ちで、そのままリンゴを抱きしめた。


「なに……するんだよ…………」

「こうすれば、私がどう思ってるのか分かるでしょ」

「離して――」

「リンゴ、初めて会った日から、あなたは私の宝物だったよ」

「…………」

「友達がいなくたって、家族が信じられなくたって、ずっと傍にいてくれたよね」

「ボクはぬいぐるみだから、自分から逃げるはずないじゃん」

「その言い方も私とそっくり。ふふ、釣れないのはリンゴも同じなんじゃない?」


 からかうように問いかけると、リンゴが深いため息をつく。肺が存在しない『魂物』でも、細く伸びた空気の揺らぎが錯覚できるほどの生々しい呼気。

 図星を突かれた失念と――分からない。他にも色々な感情が混ざっていそうだったけれど、細かい分類までは捉えきれない。宙ぶらりんで揺れている欠片たちを言葉にするのはとても難しい。

 ただリンゴがどの部分で苦しんでいるかは手に取るように分かる。


「ねぇ」


 耳元でそっと囁く。碌な反応を返さなくても、リンゴの神経が私の言葉に集まっているのが明白で。

 独特のひりついた空気に舌の根が痺れるような気がする。その錯覚が脳に影響を及ぼして、いつもに増して滑舌が悪くなった。


「リンゴのことを見ていて思ったんだけど、『魂物』は持ち主の理想を体現するけど、んじゃない?」


 沈黙が続く。

 『メタモルフォーゼ』してからは、リンゴが一方的に話してばかりだったので、返事のない空白が長く感じる。ぬいぐるみだった彼女に愚痴を零していた日々を思い出して、嫌なんだか懐かしいんだか割り切れない心地がする。

 

あの頃の私が今の私を見たらどう思うか。多分、モノ相手になにを本気になっているのだと笑うだろうし、失敗から学ばない阿呆だと馬鹿にするだろう。中学で教わった「人は歴史から過ちを学び、愚行を繰り返さぬようにするのだ」という台詞を自分好みに介錯し、再び本心を打ち明けようともしないに違いない。

 歴史は塗り替えていくものとも知らないで。


「なんで……今になって言うんだよぉ」


 か細く鳴いたリンゴが私の胸ぐらを掴む。顔を上げ、交錯した目線がくしゃくしゃに歪んでいるから、忸怩たる思いが拭えなかった。モノは泣けないから、感情が内側に溜まってしまうのだろう。唯一の身近な存在に本音を打ち明けられないのはどれだけ苦しかったか。

 新しく始めることに遅いはないけれど、遅すぎて後悔する時はある。なんとなく、底抜けの明るさが無理しているように感じて。でも確信を持てずに踏み込むのが怖くて。


「寂しいから悩んでて、それを私に隠さないといけないから苦しかったんだよね? 私を励ます、理想の『魂物』でいようとしてくれたから」

 

とどまることを知らなかった綿の濁流が、ピタリと止んだ。遠くから聞こえていた地響きが消えて、静寂が私たちの世界を深めていく。

 沈黙は肯定と同義。

 

 「まいっちゃうなぁ」と、諦めを多聞に含んだリンゴの囁きで、次になにを言おうとしているか、手に取るように分かる。ここまで頭の中で考えてから、相手が言い切って正解の種明かしを待つのが、これまでの私。餌を待つひな鳥のような私。

 でも今は――。


「『ボクに柚と一緒にいられる資格はないや』とか言うのはナシね」

 欲しいものを掴み取れる私になりたい。


「え?」


 リンゴはきょとんとしてから、数回の瞬きを経て、ようやく脳の辺りに言葉が届いたらしい。それを染み込ますのに数秒、飲み込むのにまた数秒をかけ、表情を変えていく。


「どうしてボクの言おうとしたことを――待って、それに柚の言い方だとまるで」

「落ち着いて。ぬいぐるみと一緒で、私はどこにも逃げないよ」


 動揺して、喜怒哀楽の怒と哀の中間みたいな表情をしている。目まぐるしく回転している眼球は、動いているようで私に釘づけのまま。空元気で私をからかっていたリンゴも、こんな私を見ていたのだろうか。

 郷愁や懐かしさ、安心感。この類の感情が湧き出て止まらないのは、やっぱり私とリンゴがどうしようもなく同じだから?


「だって、私は一度もリンゴに向って『元気な子が好きだな』なんて言ってないじゃん」

「ボクがぬいぐるみの頃に、『私がもっと明るい人間だったらなぁ』ってぼやいてた癖に!?」


 隣の芝生は青いもので、底抜けに明るい人間に憧れていた時期もあった。でも結局人間には生まれ持った適正みたいな概念があって、それに逸脱する行動を取ると疲れることに気づいた。仲良くなるのも自分と似た部分がある、離れ過ぎない人がいい。


「そんなこと言ってなかったじゃん!!」


 鋭い絶叫が飛んできて、思わず肩を竦めてしまう。これには言い分があるので大丈夫だと思いたい。


「考えが変わっただけだし……それに、まさかぬいぐるみ時代の独り言を聞いて、リンゴが演じてるとは考えないでしょ?」

「じゃあ『メタモルフォーゼ』してからも黙ってたのは!?」

「それは……リンゴが無理してたのを最近知ったのと、言うのが面倒くさかったみたいな、伝えなくてもいいかな的な……」

 

すぐに痛いところを突かれた。

 こうなると百対ゼロで私が悪いので、語気を弱めざるを得ない。


「よくないよ!」

 

当然と言えば当然だけど、リンゴはかぶりを振って私を非難した。頭を胸に叩きつけようとしているのに、中身が綿のせいで柔らかい感触しか返ってこない。重たく感じるのは、心の受け止め方がそうさせているのだろう。

 リンゴが私の抱擁からそっと離れようとする。もう二度とこの手から取り零したくないと考えていた温もりが、冷えた空気の塊を覆っているだけになる。

 重ねていた腕を緩やかに解くと、背を向けて部屋の奥へと歩いていく。喉を突きそうな衝動が私を支配しても、この場から動くわけにはいかない。

 体で伝わらないなら、言葉で。

 これから先が、遅すぎる自分のエゴだとしても。


「でも、リンゴと一緒にいたいのは本当なんだ! 嘘なんかじゃない! 明るいあなたでも、暗いあなたでも、私の隣にいるのはリンゴじゃなきゃ駄目なの!!」


 虫のいい話だと分かっている。相手のことを考えているようで、自分の欲求をぶつけているようで吐き気がする。話している自分が身勝手で呼吸がしにくい。

 リンゴは低反発の地面を止まらず歩いて、遠くに行ってしまう。室内で移動しているだけだから現実の距離はそこまで変わっていないのだけれど、自然体な歩調が私との決別に浮かれているように見えてしまう。そろそろ買い替えようと思っていたベッドの模型に、なにを考えてか飛び移ったリンゴは、後ろ手で左手の指を掴んだ状態で立ちすくむ。土煙に汚れたはずの髪の毛が銀の鱗粉を撒き散らして、夢想の一場面かと錯覚してしまう。

 

 彼女が、ゆっくり振り向いて。


「ほらね、言わなきゃ伝わらないでしょ」


 大粒の涙を頬に伝わせて、仄かに笑った。


「リンゴ、泣いてるの……?」


 瞳を細めて、それ以上に大きな水滴をぽろぽろと零す表情に、思考が空転してしまう。

 想像に反していたのはもちろん、『魂物』が泣いているという非現実的の更に非現実的な状況に、どうしようもなく胸を突かれながら、私はリンゴの真意を探った。

 探る必要なんてないと知りながら。


「ボクって泣いてるの? はは、自分じゃ分からないや。こういう時、ぬいぐるみの体って不便だよね」


 溢れようとした雫は、頬を伝う前に目尻の綿に吸水される。する必要がなくても頬骨のあたりをしきりに拭っているリンゴは、消えるよりも早く指先に取って、薄灰の染みになるまでの過程をじっと見つめていた。俯いたことによって綿の地面にも煌びやかな髪が散り、遮られているはずの太陽が銀の後光を与えてくれたようだった。

 人差し指だけで掬い取ろうとする仕草は、泣いている時の私とそっくりだ。

 唇を薄くして、笑うと右の唇がちょっと高くなって、えくぼができるのも私と同じだ。

 私の言葉をずっと聞いて、物言わぬ瞳を宿していた頃から見て、私と同じになった。

 リンゴは柚だから。ここまで土台が整った後になにを言うか、明瞭に予測できる。


「聞いていいのか分からないけど、我慢できないから言うね」


 これまでは準備と覚悟ができていなかったけれど、もう大丈夫、準備も覚悟もいらなかったんだと気づけた今なら、私は私の思うがままに。

 感情の高ぶりに合わせて、水がますますリンゴの体を侵食する。頬骨から顎を貫通する涙は、彼女の体内を経て本来の白銀に輝いた。

 膨張して氾濫して落ちた雫が爆ぜると同時に。


「さっきの言葉、もう一度言ってくれない?」


 ほら、予想通りの答えだ。何遍も言っているのだから確認しなくてもいいのに、心配性な気質が移ってしまったのだろう。

 しかし黙っていた私にも非はある。言わなきゃ伝わらないのだから、ここでも声に出さなきゃ嘘だ。私が私を裏切ってどうする。

 湿っている呼吸をどうにか抑えて、肺一杯に息を吸う。肺胞の先っぽまで破裂するように、叫ぶ必要などなくとも、二度とリンゴを不安にさせないように、心ある限り叫んでやるのだ。


「私はリンゴと、友達になりたいぞーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

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