第15話

 着地さえ出来れば。

 通勤時間のピークは過ぎても電車が来る直前――構内に向かって多くの人が駆け込んでいる。

 足の踏み場もない、とまではいかないが、あんなところに着地すれば流石に注目されてしまう。


「少し離れた場所に降りればバレないよ……多分」

「そ、そんな適当で大丈夫?」

「だって~他に方法がないんですもの~」

「……その喋り方は二度としないで」


 リンゴは一先ず駅を飛び越えて――高くて怖かった――人がまばらな裏道坂へと移動する。

 そこはせせらぎ川の陸橋と繋がっており、新しく出来た道のせいか利用者も少ない。

 学校に通っていた頃は抜け道としてよく使っていたけど、視認しないと存在すら気づけない秘境でもあった。教えてもいないのに、よく見つけたものだ。

 上からだと固まりたての白コンクリートが目立っていたのか――なんにせよ、リンゴのファインプレーである。


「よし、ゆっくり降ろすよ」

「――いきなり離したりしないでよ? 私はデリケートな人間だからね?」

「ゆっくりって言ったじゃん! ボクのことはもう少し信用して欲しいなぁ」


 担ぎ上げられた時はどうなるかと思ったけど、結果的に上手くいったし、よしとしよう。

 リンゴはいきなり飛び降りるのではなく、私を包んだ綿の腕から地面に近づけていった。人間は衝撃に弱いと知ってくれていたのが不幸中の幸いだ。

 いや――このままことが済めば、周囲にバレず電車にも間に合う幸福だけが残る。つけ上がるのを覚悟して、リンゴにお礼を言うべきか?


「――感謝するのは無事に帰れてからでいいや……完璧だったとは限らないし。もしかしたら私のパンツくらい誰かに見られちゃってるかも」


 そんな風に――思考を脇にばかり逸らしていたせいで。

 私は自分の降りる場所を簡単にしか見れていなかった。

 フェンスと生け垣の曲がり角――その先が死角になっていると気がつかなかった。

 観覧車のような速度ながらも、恋焦がれた地面へと爪先が触れる。

 どん。


「……わっ」

「おいいいい!?」


 その直前に、角から猛スピードで飛び出してきた人物とぶつかってしまう。

 私は度重なる尻もちの経験から、後ろに倒れる無様は避けられたものの、隣のアパートとの境目になっているフェンスに激突した。結構痛い。

 直方体のマス目に自分の肉をめり込ませつつ、反動を使ってどうにか立ち直る。


「ごめんなさい、周りを確認してなくて……」


 ここで逆切れするほど、私の人間性は落ちぶれちゃいない。「どこ見てんだこらぁ」なんて言っても、堂々巡りで自分に帰ってくるし……。

 相手が倒れてしまった方を向いて、まずは平謝りから――。


「……痛い」


 ――その少女は見るからに変わっていた。

 純白の小袖に赤い袴――いわゆる巫女服を平然と着用し、垂髪の下を三つ編みでまとめている。転んで蹲っているのに声は平坦そのもので、平行に保たれた目からはいかなる感情も読み取れない。

 そして一際目を引くのが、額にある黄銅色の模様だ。真ん中に空いた丸と、上に描かれた稲穂。下には直線で水面と「五円」という文字が刻印されている。

 五円玉のメイクだった。


「……わたしには時間がない。要件があるなら手短に」


 袴についた埃を叩きつつ、変わらぬ無表情でそう返す。

 立った彼女の背丈はリンゴ殆ど変わらない。並べばコスプレ中学生の写真集が作れそうな塩梅だ。


「――いきなりぶつかっちゃってごめんね。怪我とかしてない?」

「……それだけ?」

「え? う、うん……」

「別に怪我はしていない」

「あ、そう……」

「「…………」」


 少女は私と同じ、いやそれ以上の短文使いだった。必要最低限の会話しかしないため、キャッチボールが成立しない。


「……じゃあ、さよなら」

「あ、ばいばい……」


 しかしこの場合にはありがたい。

 私はここで足止めをくらえば電車に遅れるし、どうやら彼女にも急ぎの用事がある。

 小走りで去っていく少女の背中には焦りが滲んでいて、それが唯一の感情だった。

 世界は広いなー色んな人がいるんだなー、なんて思いつつ、別れの定型文を述べてからお互いの道を歩みだす。


「おい、この近くにいるはずだ! 対象が小柄っつーのを頭に入れて草の根一本逃すんじゃねぇぞ!」

「偉そうに上司ぶらないで下さい。『魂物』のデータは把握済みです」


 後ろから大人の怒声と気がかりなワードが聞こえてくるけど、これも世界の広さってことで。

 不穏な空気に負けず、私は駅に向かわなくてはならない。もはや足を止めて考えている時間はないのだ。


「柚、今の娘って多分――」

、だからって巻き込まれる義理もないでしょ」


 今の通りすがりの少女が『魂物』かどうかなんて、自分の人生には関係のないこと。

 スーパーマーケットで大多数がやっていたように、首を突っ込まないのが最善。

 リンゴが降りたのに気がつかなかったのは、私が動揺しているからだと思ってくれ。心の動かされるくらいの人情はあるんだ。

 悲しげな表情をするリンゴの手を引いて、残り三分となった時間を無駄にしないため走る。


「……待って」


 もう聞くことはないと思っていた声がして、ブレザーの裾を何者かに引かれる。

 そこにいた何者とは――もしかしたら何「モノ」かもしれない少女だった。

 眠たそうな目を心なしか不安そうに揺らして、私と、その横にいるリンゴを見ている。

「駅とは逆に走ったんじゃないの?」

「……そうするつもりだった。だけど、追いつかれそうだからやめた」


 誰に、なんて聞くのは野暮だろう。

 私もそこまで感情豊かな人間ではないので、無表情な彼女には共感するところがあった。

 顔に出ないからって、何も考えていないわけではない。息の荒さや声の震え――醸し出す雰囲気が切迫した意志を伝えるのだ。

 共感センサーによると、この少女は怯えている。

 追いついてきそうな「人間」を恐れている。


「……お姉ちゃんの横にいるの、人じゃない。普通なら驚いて逃げるのに変」

「――ん? どうして分かるの?」

「……私もモノだから。モノはモノ同士の存在が分かる」


 突然、テレビ番組でも聞いたことがない爆弾情報が降ってきた。

 『魂物』であることを自白した少女はさも当然のように説明し、驚く私に首を傾げている。


「リンゴは知ってた?」

「え? 逆に知らなかったの? 色々とボクたちの話を自慢げに教えてくれてたし、てっきり……」


 自慢げは余計だ――そんなに講釈を垂れた覚えはない。ない……よね?


「………助けて」


 私が新しい知識を覚えていると、少女が一際強い力で洋服を握った。気を遣う余裕もないのだろう、私の腰肉を同時に摘まんでいる。

 肉が痛みを感じて熱くなるのに、触れた指は驚くほど冷たくて。

 これが感情の薄い彼女が絞り出した、精一杯の悲鳴。

 私が母に諦めた、救いを求める叫び。

 諦念にまみれたあの時の自分と違って、見据える瞳には意志の炎が宿っていた。


「……わたしはモノだから捨てられる。でも、まだわたしを助けてくれた人にお礼が言えてない。やりたいこと、一つも終わってない」


 少女は掠れた声で嘆願し、慣れない早口に舌を噛みしめる。

 唇の隙間から流れるはずの紅がなくとも呻吟が漏れた。

 時間が拡張される世界で、彼女は語る。


「……だからまだ捕まりたくない。わたしは、こんなところじゃ負けられない」


 少女の吐息が腰に触れて、知らぬ間に至近距離で見つめ合っていた。

 太ももの筋肉が言葉にしなかった脳の命令を受け取って後退し、認めたくない想いが削られていく。

 姦しいリンゴも口を噤み、私の表情をじっと伺っている。

 やめてくれ、そんな目で訴えるな。


「……皆わたしの話を聞いてくれなかった。追いかけて、汚い言葉を浴びせるだけ」


 少女と視線を絡める一方で、私の耳はしだいに近づく足音を聞いていた。二つの足音は虱潰しに捜索しているのか、残ったこの坂へと慌ただしく駆けている。

 それを少女も聞いたのだろう、眼球を生け垣の方に向けて、観念したように目を瞑った。

 もはや説得する時間はない。

 だから、少女は最後にこう言った。


「……モノが希望を持つのって、そんなに悪いこと?」


 私にではなく、自分に問いかけるように。

 風に乗って飛んでいってしまいそうな小さな呟きが、少女の口から零れた。

 そっと開かれた瞼からは、もう一縷の感情すらも読み取れない。

 だから、私がこの瞬間に見た彼女の微笑みはただの錯覚で、意識が引き起こした筋肉の痙攣なのかもしれなかった。

 運命を受け入れてなお戦うのではなく、へらへらと笑っていて欲しい。

 自己嫌悪が生み出した、そんな浅ましい欲求の――。

 速さを増した心臓の鼓動だけが、現実としての決断を催促する。

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