第14話
「そ、こで、何してるの……。目立つから、降りて……」
目立つ真似はするなと言ったのに、リンゴが塀の上に立っているではないか。
その姿からはある種の自信が感じられるが、根拠もなくふんぞり返っているだけに違いない。
私は額に張りついた前髪をどかしつつ、リンゴに手招きをした。息を吸うだけで精一杯なのに、余計な労力を使わせやがって。
「ボクね、外に出て気づいたことがあるんだ」
しかし、リンゴは降りなかった。むしろ靴の土踏まずを溝に合わせて、バランスを整えている。
彼女は周囲をぐるりと見渡してから空を見た。今日はうんざりするくらいの快晴で、糸くずみたいな雲が揺蕩うのみ。
そんな風景がお気に召したのか、リンゴは「うん」と頷く。
「――馬鹿だから高い所が好きってことに?」
「違うよ! もう、柚は女の子なのに口が悪いよね。そうじゃなくてさ――」
女子はおしとやかであるべきだという昨今の風潮について大いに議論を交わしたい衝動に駆られるが――話がこじれそうなのでグッと堪えた。
リンゴは心に余裕がある者なら美しいと思い、神経がすり減っている者なら殴りたくなる笑顔を浮かべ、上に向かって大きく伸びをする。
ぬいぐるみもストレッチで関節が柔らかくなるのか、水泳選手の入水シーンのような姿勢を作って。
そして、おもむろに両手を下ろすと――
「みんな下を向いてばかりで、ちっとも上を見ていないってさ!」
――上半身の服をまとめて脱いだ。
「――――はにゃ?」
ブラウスのボタンが音を立てて外れ、ベストが空へと数秒間のフライトを敢行する。
リンゴは下着をつけるのが嫌いなので、当然ブラジャーもしていない。
結果、私が羨んで仕方ない白くて小さな膨らみまでもが、外気へと惜しげもなく晒される。
「遅刻しそうなら――真っすぐ走ればいいんだよ!」
上裸になったリンゴは、私の心へ更なる負荷を与えにかかった。
胸元に隠させておいたチャック――『魂物』の証であるその白いつまみを、あろうことか解放したのだ。
もこもこと、微かな経年劣化を感じさせる綿が外へと飛び出していく。
初めて見た時よりも大きく、そして広く。伸縮自在の能力で辺りを埋め尽くす。
リンゴの胴体から出た綿は、最終的に二本の腕のような形を作った。
「綿……え、いきなりなにしてるの……?」
「駅はスーパーの隣だったよね!」
「――きゃっ!?」
唖然として口をパクパク開閉するだけの私を、リンゴが綿を使って拾い上げる。怪物のような掌は体をすっぽりと包んで、簀巻きのような格好で宙に浮いた。
リンゴは塀から民家の屋根へと飛び移り、ソーラーパネルを物珍しそうに踏んでいる。もしこの家の発電量が普段よりも少なくなっていたら、それはぬいぐるみ妖怪の仕業だ。
足場の安全確認も兼ねていたのか、体重をかけても崩れないと知ったリンゴは緩やかに、しかし一定の速さで進み始める。
「おろ、おろしゃってってっておろおろし(訳、降ろして)」
普段より何倍も高くなった視点にパニクってしまう。
綿の腕はがっちりと固定されているので、落ちる心配はない。しかし裏を返せば、逃げることも叶わない。
上昇途中のジェットコースターに乗っているような恐怖が、永遠と続く。
「スーパーは――あ、あれか! なら横にある大きい建物を目指せば、柚の助けになれるんだね……いよしっ!」
――ジェットコースターは加速する。
スーパーの看板、正確にはその横にあるレンガ造りの駅を捉えたリンゴが、猛スピードで駆けだした。
屋根から屋根へと跳躍し、アパートなどの異なる段差はもう一本の腕を駆使して乗り越える。
純粋なジャンプ力が足らずに落ちかけた時も、隙間に綿を引っかけて進む。
綿から振動が伝わる度に、景色が後ろへと流れていく。
「り、リンゴッ――ストップ! 待て! おすわり!」
そこでようやく。
少女の足とは思えない加速感と、腕に掴まれている浮遊感――そして何よりも、『魂物』の噂が流布してしまう不安が、私の口を正常に動かしてくれた。
「バレちゃう! リンゴが『メタモルフォーゼ』した『魂物』だってバレちゃうから!」
風圧も相まって、口に入った空気が臍をびろびろと拡張する。
大声で叫んだ分だけ私の顔が不細工になる仕組みだ。
発見リスクが高まるのを忘れて、喚きながら綿を叩く。
柔軟かつ堅牢な綿はビクともしない。しかし、伝わった衝撃にリンゴが反応する。
さっさと降ろさんかい。
「ふっふーん。ボクが何の考えもなしに力を解放したと思う? ちゃんと隠せる自信があるから使ったんだよ」
「――っ!?」
しかし――私の意向を無視したリンゴは、止まるどころかより一層の前傾姿勢をとる。
『魂物』は本人の理想を体現するが、同時に意思を持った活動体でもある。故に持ち主に従順な個体がいれば、傍若無人な暴れん坊もいる――そんなニュースキャスターの発言が、風切り音と混ざって。
「ほら、柚も上から見てみなよ!」
乾燥した目を守るためなのか、雀の涙ほどの水滴が目から溢れ、風にたなびき飛んでいく。
乱れ髪を気にしないリンゴは、振り向きながら地面を指している。
顎の方角から察するに、道路を見ろと言っているのだろうけど――。
もし、周囲の目線がこちらに集中でもしていたら、私は正気を保てる自信がなかった。
注目されていないはずがないのに。
「うう…………あ、あれ――?」
現実を見る度胸がなく、かと言って夢想に浸る才能もない私は、リンゴに促されて恐る恐る首を伸ばした。報道陣と警官が集まっているであろう地上へと。
「みんなスマホの画面ばっかり見て……」
――だけど、そんな心配は全くの杞憂だった。
通話アプリの返信をしている高校生とパズルゲームに熱中しているおじさん。
音楽に聞き入っているのか、イヤホンをしたままリズムを刻んでいる大学生。
その隣にいる主婦までもが――犬を散歩しながらネットの記事を読んでいた。
誰も俯いてこそすれ、空を仰がない。
ましてや、民家に立っている私たちなど。
「どう? 驚いた?」
「こ、これ、どうなってるの!? まさかリンゴの新しい超能力で視点を――むぅ!」
思わず大声を上げた口元に、綿が素早く覆いかぶさる。
「しー。別にボクがどうこうしてるわけじゃないから、声を出したら気づかれちゃうよ」
速度を保ったまま、リンゴは悪戯っぽい顔でこちらを振り向く。よそ見運転の保険としてか、綿を触覚のように這わせて。
心なしか、彼女が生き生きとしているように見えた。
モノなのに。
「さっきも言ったけど、人って下を向いてばかりだよね。スーパーに行った時も――ううん、買い物をしている時も。スマートフォンをいじるだけで、ボクが目を合わせると逸らしちゃう」
リンゴがそんな風に辺りを観察していたとは、全くの予想外だった。
眼下の通行人を見下ろす様は何だか思慮深くて、いつものはしゃいでいる姿とは別人のよう。
喜怒哀楽の喜楽だけで生きていそうなのに、私が危なくなると怒ったり――現代の当たり前を憂いたりする。
不思議だ。それをからかう気になれず、続きの言葉を待っている自分も。
「そのことを家に帰った後も考えて、ボクは思ったんだ。みんな、他人に対して無関心でいたいんじゃないか――自分を守るために、殻に閉じこもっていたいんじゃないかって」
「――え」
そうして突然、心臓を鷲掴みにされるような感覚に襲われた。
咄嗟にリンゴを見ても、彼女はすでに前を向いている。でも、浮かべているであろう表情が朧げに想像できる。
きっとリンゴは笑っていない。私の頬が引き攣っているのと同じで、硬い顔をしている。
点になっていく人々を追いながら考える。
あれは、ある意味での私じゃないか。
「リンゴは、私もそうだと思う?」
「どうだろうね。ボクは長いこと一緒にいたのに、まだまだ知らないことばっかり」
あはは、とリンゴが声を出す。
「相棒のボクにも分からないんだ。きっと、答えは柚の中にしかないんだよ」
相棒のツッコミ待ちにも、あいにく対応してやれない。
お馬鹿と思っていたリンゴの評価を上方修正してから、目と鼻の先にある駅舎を前に、私は自分について考える。
自分をどう認識しているかについて。
周囲から爪弾きにされ、学校に通えなくなった。人を信じるのが怖いから、部屋に閉じこもった。
ぐずぐずしている内に体が泥のように重たくなって、朝日と月を交互に眺めるだけになった。
失敗は怠惰の免罪符で、自分で作った鎖で身動きが取れなくなっていく。
それで私は幸せだった。停滞は安心という緩やかな褒美をくれるから。
上手く行かずにこれ以上の傷を負うくらいなら、受けた傷を包帯で隠すべきだ。
――本当に? 心の底からそう思う?
本当は――。
「まもなく~駅、駅~。お降りのお客様は、しっかり当機にお掴まり下さいませ~」
深掘りをする途中で、リンゴの間延びした声に引き上げられた。眼前にはレンガ調の建築物が広がっている。
腕時計の長針は、あれから三つしか進んでいない。直線距離とはいえ、軽自動車並みの速度が出ているとしか思えなかった。
信じがたいことにこのまま急げば間に合いそうだ。
「さて~どうのようにして降りましょうか~」
「やっぱり考えてなかったんかい!」
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