第13話

「ほら、さっさと着替える。このままじゃ学校に遅れるわよ」

「行きたくないなら休めばいいのに、どうして鈴音は柚を急かすの?」

「口を挟まないで――全く、本当ならあなたのような人に家の敷居を跨がせやしないのに」


 三月二十日、月曜日。

 おつかいから二日が過ぎて、私は学校に向かう支度をしていた。

 

 させられていた。

 何でも学期末の試験と家庭科のパンケーキ実習を終わらせないと、私は留年するらしいのだ。学校から招集がかかったのもそのためである。

 しかし「らしい」と言うように、私は別に留年しても構わないと考えていた。

 人生百年時代、たかが一年遠回りをしたところで大した痛手はない。久留里たちと別学年になれるなら、むしろ魅力的な提案とも思える。

 故に金曜日に手紙を渡され大喧嘩をしてからの二日間、私はルーティーンを乱さずに怠惰な生活を送っていた。食う、寝る、食べる。

 日曜日の就寝時間は午前三時。朝に叩き起こされると覚悟しておけば、十二時には床についていた。たぶん。


「ねぇ、私やっぱり休みたい。留年したらまた頑張るからさ、だから――」

「駄目です。そう言ってあなたはやるべきことを先延ばしにして、こうも落ちぶれてしまったでしょ? 大学ならまだしも、高校は三年間で卒業する。私は甘ったれの人間に学費を払うほど優しくありません」


 以前では考えられないスカートのキツさ(お腹周り)に絶望していると、母が追い打ちをかけてきた。私の話には聞く耳を持たないという態度。

 我ながら先の会話は情けないと思うけど、事情を知っていれば易々と馬鹿にはできないだろう。辛い、苦しい、なんて安直な言葉が相応しいくらい、私は学校に抵抗があるのだから。

 母親には自分の苦境を話さないし、話したくなかった。言ったところで怠慢ホラ吹きの妄想だと流され、叱咤されるだけだ。


「鈴音はもう少し優しく話せないのかなぁ。綿みたいに優しく包んで助けるのが、お母さんの務めじゃない?」


 私がしぶしぶスカートのホックを留めていると、後ろから下手糞なヤジが飛ぶ。

 リンゴはベッドの縁に座りノートをメガホンのようにして文句を垂れているので、野球観戦のおじさんみたいだった。


 ――リンゴは土日を挟んで、ますます我が家に住みついた。

 母の認識でリンゴと私は、知り合い以上友達未満といった関係だ。

 人の姿で家に泊まったら流石に怪しまれると、一時は頭を悩ませた。

 が、彼女が人からモノへも変身できると知って、その問題はすぐに解決した。「モノになったら喋れなくなる」と渋ったリンゴを元のアザラシ抱き枕ぬいぐるみにして、布団に放っておけばよかった。

 母はどこからともなく現れ、台所を占領するリンゴを不気味がってはいるが、『メタモルフォーゼ』した『魂物』だとは気づいていない。


「あなた、それは違うわ。世間に出しても恥ずかしくない人間を育てる厳しい教育こそが優しさであって、引きこもりを助長する許しなんて必要ないの」


 いちいち反応しなければいいのに、母はリンゴの言葉に反論する。眉間に皺が寄っているので、遅々として進まない着替えに苛立っているようだ。

 台詞の棘を抜いてくれれば、こちらとしても準備がしやすいのだけど。

 母が私を蔑む度に、元からなかった登校意欲が目減りしていく。

 幼い頃は家族がとても大きい存在で、尊敬できる大人だったのに――今では人の話すら聞いてくれない。

 母にとっての私は躾が必要な子供で、私にとっての母は馬耳東風の子供なのだ。

 だから、私が登校しない限りはずっと平行線で仲が悪いまま。


「……頑張るしか、ない」


 三栄だから三つ葉という引くほど単純な理由でデザインされた校章を胸につけ、気持ちを奮い立たせるためにそっと呟いてみる。

 仲良くなるのを除いても、やはり学校に通わなくてはならない。

 母は頑固なので決めたことを曲げたりしない。学費を止められてしまえば、アルバイトをしながら通学する羽目になる。

 単位を取りつつ、放課後は仕事に精を出す未来を想像して――うん、無理だ。地球がひっくり返っても不可能だ。

 現実に立ち向かうのが、遅いか早いかの違い。それなら早い方がいいに決まっている。ライブだってアーリーチケットの方がお得じゃないか。


「準備できたよ」


 教科書は学校に置きっぱなしなので持たなくていい。普段使いしている小物と筆記用具だけを入れて、私は洗脳に近い覚悟を決めた。


「そう、なら早く行ってらっしゃい」

「……え? 送ってくれないの?」


 覚悟がすぐさま瓦解した。

 船橋三栄高校は家から歩きで四十分。今の時刻を見るに、朝のHRには走っても到底間に合わない。

 電車に乗れば半分ほどの時間で着くので、そうしろと言っているのだろうが――。


「学校に車で登校する子がいますか。あと、担任に柚がきちんと登校できたか報告するように言ってありますから、そのつもりで。遅刻であっても、守れなければ家の敷居を跨がせないわ」


 私が大の電車嫌いなのを知って、追い打ちをかけているのか。

 母は部屋の扉を開け放ち、顎で廊下を指している。その余りの冷たさに、出すべき言葉さえも凍ってしまい。

 しぶしぶ、学校指定の長靴下を引きずるように部屋を出た。玄関までの廊下と階段が、長さを増して横たわっている。


「今日は――六限ね。放課後は家庭科の補修と試験があるそうだから、きちんと受けてから帰ってくること」

「…………」

 

 不意に目の前にいるおばさんを殴りたくなった。拳をぎゅっと握りしめると、そのまま腕が顔へと飛んで行きそう。

 私の冷静な部分がどうにか自制をかけている。母の話は正論だけで、怒るのは筋違いだと。

 履いたローファーと足の間に押しつぶされた空気が、まるで私みたいだった。玄関にある置時計の長針が十数回鳴ってから、ようやく外に出て。


「行ってきます」


 鋭く閉じた門扉の音に弾かれて、私の声はかき消される。拒絶するような鍵の音。

 母は「いってらっしゃい」と言ってくれたのだろうか。

 ――いや、余計なことは考えるな。

 重い足を一歩、また一歩前へと送る。これを数え切れないほど繰り返せば、いつかは辿り着くはず。

 学校についた後は、未来の私が考える。


「……はあ、帰ったら苺マカロン食べよ」

「いいね。ボクもご一緒しようかな」

「おい」


 どうしてここにいるんだよ。

 私の後ろには、部屋でぬいぐるみになっているはずのリンゴがいた。

 デニムパンツにブラウス、そしてオーバーサイズのベストを着用。昔のお出かけ用一張羅をそのまま拝借したらしい。


「だって柚がものすごーく辛そうな顔をしてたから、一緒に行って助けてあげなくちゃと思って」

「余計なお世話だっての。学校くらい一人で行ける」

「本当に? 体震えてるよ?」

「……うっさい」


 煩わしくて、でもどこか安心している自分もいて。私は矛盾した感情にケリをつけるために拳を握る。

 リンゴは二階から飛び降りたらしく、髪の間に折れた枝が挟まっている。

 衝撃が効かないとはいえ、無茶をするものだ。刺さったりすれば痛みを感じるだろうに。


「ボクは、ずっと一緒だからね」

 

 ぬいぐるみの少女は、唐突にそんなことを言う。

 彼女は通学カバンの傍らまで近づいて、そっと手のひらを握った。知らぬ間に搔いていた大粒の手汗が、私から綿へと移る。

 じわじわと滲んで変色する水が、最後には縫い跡へと届いて。


「柚のお母さんが怒っても、久留里が酷いことを言っても、ボクはいつまでも柚の味方だから。だから、えっと、だから――ね?」


 リンゴは上手い言い回しが浮かばなかったらしく、苦し紛れの上目遣いで微笑む。


「……あははっ」


 目をパチクリしているリンゴを見たら、どうしようもなく笑えてしまった。

 私をこうやって励ましてくれるのは『魂物』だけだという虚しさに。モノに慰められても救われてしまう自分の単純さに。


「わ、笑わないでよぉ」


 笑われたのに反応してか、リンゴの両手に力が入った。

 上になっている左手の縫い糸が、またもや揺れる。

 おつかいの時に切ったらしい傷を、目立たないよう適当に縫い合わせたもの。私は羊毛フェルトをやっている癖に波縫いしか出来ないので、縫い目が丸出しになっていた。


「――じゃあ、駅まで着いてきて」

「え、いいの?」

「嫌って言ってもどうせ着いてくるでしょ」


 私は絡まった手を引いて、ようやく玄関から足を踏み出した。

 リンゴは暇つぶし要員として連れていく。隣で騒いだり抱き着いたりする奴は、こんな日にこそ必要だ。

 いや、必要って言うと私がリンゴに頼っているみたいで嫌だ。監視――そう『魂物』が暴走しないか見張るのだ。


「柚とお出かけランランラン、嬉しい楽しいランランラン」

「ちょ、勝手に歩くな! そっちは駅と逆!」


 リンゴが迷いのない足取りで反対へと進むので、慌てて体を引っ張り上げる。

 すると綿の敷き詰まった体は簡単に宙へと昇り、私の頭上を通り越した。この間僅か三秒。

 中空でくるりと体を捻ったリンゴは、私の背中に抱きつく。肩掛けカバンなので後ろはフリーだった。


「やっぱり柚の背中は落ち着くねぇ」

「全く、遊ぶだけなら置いてくよ。ただでさえ時間がないんだから――あ」


 はっとして、紺色の腕時計に目を走らせる。時刻は八時四二分。本当に油を売っている場合じゃなかった。

 スマートフォンの乗り換え検索を慌てて開く。学校までは一駅だけど、遅刻を避けるにはあと八分後の電車に乗らなければ。


「どどどどうしよう! 八分じゃ絶対に間に合わない!」


 駅まで走ろうにも、引きこもりの体力では速度が出ない。


「柚は学校に行きたくないんだから、このままサボっちゃえばいいんじゃない? ボクにこの街を案内してよ」

「このオタンコナス! さっきの話をもう忘れたの?」


 母は有言実行の女だ。遅刻をすれば間違いなく閉め出される。

 なにより恐ろしいのは、折檻が一日では終わらないところ。母が反省したと判断するまで永遠に蕪木家としての資格を奪われるのだ。

 金品や食料、生活品の提供は勿論のこと、外部に助けを求めるのも禁止されている。

 同じ罰を幼い頃に受け、残っているのは寒空の下で体を丸めて眠った記憶。

 石畳は体温を吸わないのでずっと冷たいまま。三日目にしてどうしようもなく体力が失われて近隣の人に泊めてもらった結果、家の中で思い出したくもない迫害を受けた。

 高校生になって多少の忍耐がついたにせよ、また同じ目に合うのは御免だ。


「鈴音がそんなことを言っていたっけ。でも大丈夫だよ。もし外で寝ることになっても、ボクがこの体で温めてあげるから」

「リンゴには体温ないでしょ……じゃなくて! 急がないと遅れるんだってば!」


 急いでも遅れるのだけど、逐一言い直す時間もない。

 しょうもないやり取りをしている内に、短針が二つほど進んでいる。残り六分で駅に着くなんて、瞬間移動でもしないと無理だ。

 背中にリンゴをおぶったまま、取り繕うように走り出す。右足、左足、右足、左足……。


「ぜぇー、ぜぇー、ひぃ」


 最初の曲がり角を超えた辺りで、足に限界がきた。ふくらはぎの部分がぴくぴくする。

 諸君。これを笑うことなかれ。むしろ荷物を持った在宅系女子高生にしては頑張った方である。

 私は膝に手をついて、胸元に吸い込まれようとする汗を素早く拭い取った。

 勝手に大きくなった胸は、走る度に揺れて体力を奪うし、放っておくと発疹を作る。

 息が荒くなり、脳に酸素が行かなくなると、自分の根源的な感情が呼び起こされた。

 やっぱ、学校行きたくねー。

 諸君。笑いたければ笑ってくれ。在宅系女子高生は意志が弱い。


「――むう、そんなに頑張るなら、ボクも一肌脱いじゃおうかな」


 全てを放り出して、外泊でもしてやろうかと考え始めた時。

 背中にいたはずの声が頭上から降り注いだ。


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