第22話

「おーい、起きろー?」


 水差しの中身を頭にぶっかけられて、私の意識は急激に浮上した。

 休んでいた神経が思わぬ刺激に驚倒し、ぶちぶちと悲鳴を上げている。

 寝起きの酩酊よりも刺激が勝った感覚の中で、蛍光灯の灯りに目が馴染む。


「ああ、やっと起きた。身じろぎもしないから心配したよー?」


 担架の上から見下ろしているのは、口調は平常でも、打って変わった表情で化けの皮を剥がしている久留里。


「呼吸はあったからね。重症だったら養護教諭もどいてくれなかっただろうし」


 久留里が瞳孔を開いて不気味に笑っても動揺しない男――旭が横から補足を入れる。


「ここは保健室だけど、先生はいないよ。柚の状態が気絶しているだけだと判断して、別の仕事に向かった」


 それとも取り乱して錯覚したのかな? などと、意味の分からないことを言う。

 

 ぼんやりとした絶望に包まれながら首を巡らすと、確かに私たち三人以外の人気はない。衝撃による気絶なんて大事になるかもしれないのに、生徒を配置するだけで去ってしまうなんて。

 旭の不可思議な物言いも、敵の巣穴に閉じ込められた焦燥で霧散する。


「にしてもさー、あんな脅しだけで登校しちゃうとか、柚の神経細すぎない? どんだけ私が怖いんだっての」


 そう言ってケタケタと笑う久留里の、なんとおぞましいことか。

 母親にせっつかれて仕方なく。そう反駁するだけの気力も残っておらず、私はただ頬を引きつらせるのみ。

 久留里は体を強張らせる私の傍に近づいて、人差し指でこめかみに触れてきた。


「もしもーし? お馬鹿さんの脳みそは入ってますかー? あたしにいびられるって予想できなかったんでちゅかー?」


 ネイルの加工じみた鋭さが頭に響き、その屈辱で頭に血が上る。張本人の癖して、よくも棚に上げて煽れるものだ。

 母とこいつのせいで苦渋を強いられているのに、その両方に服従している自分も腹立たしく。


「あはっ、すっからかんの音しかしなーい!」


 皮肉なことに、挑発によって低血圧から抜け出した脳みそが思考を始める。

 そもそも、この程度の嫌がらせはもはや日常茶飯事とはいえ、気絶させてまで連行したのに疑問が残る。

 校舎裏にでも呼び出せば嫌々ながらもついていくし、私がそんな性格をしているのを向こうも認知している。

 この期に及んで、計画を練るほどの加虐を思いついたのか。


「―――そこまでにしよう」


 と、そこで。

 間に割って入った旭が、宥めるような口調で久留里の肩に手を置いた。


「僕たちの目的は口撃とは別にあるはずだ。時間もないのに悠長にしている暇はないと思うな」


 二人にしか分からない話題を持ち出す旭は、訥々と、ある種の自信を帯びた表情で語る。

 本来なら彼も糾弾して遊ぶ側の人間なはずなのに、この時ばかりは私を背に置いて庇うような姿勢を見せた。

 もちろん唾棄すべき対象なのに変わりはないが、その真意を測りかねて戸惑う。


「――んだよ。お前の分際であたしに口答えすんの?」


 混乱している私とは別に、留里がキレた。

 旭の手にネイルを立て、顎を引いて目を据える。

 体格差をものともしない威圧感が溢れ出し、気温が一段と低くなった。


「口答えなんかじゃない。ただ、僕は久留里の助けになろうと――」

「――――で? あんたの言い分ってそれだけ?」


 瞬きの回数を増やしつつも、旭は自分の主張を貫こうとする。

 しかし、久留里の表情は一向に優れない。むしろ自分に歯向かう外敵を睨むような、およそ彼氏に浴びせるとは思えない眼光を放っていて。

 こうなった彼女に手の打ちようがないことを、旭も理解しているようだった。

 蚊帳の外に置かれた私は、彼の息が白く染まっていないのを見て、青い顔色も相まった新しい事実に気がつく。


「――いや、取り消すよ。ごめん」


 自分の意見を通し続けてきた旭があっさりと頭を垂れ、確信に変わる。

 これまで対等だと捉えていた二人の関係が、主従に近いものだと知ってしまう。

 旭の声は間違いようもなく震えていて、普段の毅然とした態度は影も形もなくなっていた。

 クラスでの人気者としての顔、私への嗜虐者としての顔、久留里への下僕の顔。三つの姿を短時間で表した彼の本性は、所在不明の不気味さだけを残す。


「あーあ、折角楽しくなってたのに、茶々が入ったせいで冷めちゃった」


 顔を上げない彼氏のつむじを退屈そうに眺めてから、空いている脛に蹴りを入れ、


「っ……!」

「まぁでもー? 旭の言うことにも一理あるしー? 時間を掛けるとパパにも悪いから」


 苦悶する旭を退けて、不機嫌さを滲ませた状態の久留里が肉薄する。


「始めよっか」


 不穏な気配を感じた私は、ベッドの上で身を硬くした。暴言を吐かれ続けてしまったせいで、体が勝手に反応してしまう。

 私の小さく鳴っている歯と、ささくれた唇を一瞥した久留里は、にこやかな無表情で胸ポケットに手を入れた。

 呪いの手紙か汚れたプリントでも出て来るのかと思いきや、その手に握られているのは一枚のプラスチック板。

 学生証と同種のデザインは無害の香りが漂っていて、予想よりも穏やかな物品に肩の力が抜ける。


「この名前に、心当たりあるよね?」


 刹那の油断を見抜いたかのように、久留里の足が閃いた。

 呼吸が止まる。

 衝撃の後に襲う熱はレクの時と同じで、ベッドの枠組みを乗り越えて床に落ちた私は、それ以上の思考ができず蹲る。鳩尾に嵌ったローファーの先端が、肺腑への空気を阻害していた。

 本当に、久留里はトラウマを植えつけるのが上手い。


 『回収屋本舗:安樂』の名刺を片手に持つ久留里は、空いた手で短くなった髪を掴み上げる。

 ロングからショートにしたのは、似合わないからじゃなくて、久留里に持たれるのが苦しかったから。

 なのに。


「パパがここで働いててさー、あたしもアルバイト代わりに稼がせてもらってるの。本当は正社員じゃないと駄目なんだけどね? 家族だから特別って感じで」


 いじめを秘匿するために外傷が残らない絞首や脱毛を繰り返していた久留里が、別の方法で呼吸を止めてきた。

 視界がパチパチと明滅し、吸おうとしても入らない酸素が焦りを加速させる。

 未知数の苦しみに喘いでいる私を他所に、つまらなそうに、けれど高揚を抑えられない口調で続ける。


「で、さっきパパから連絡があったんだけど、船橋三栄の制服を着た女子生徒が逃走中の『魂物』を匿ったんだって。特徴はショートボブの切れ長で、高身長の巨乳」


 自分の親ながら、女子の胸を見ているのが気持ち悪いと語る久留里は、汚物を見るような視線を私の双丘に向けていて。

 ようやく呼吸が落ち着いてきた私の前にしゃがみこむと、重くなっていた瞼を無理矢理にこじ開けた。

 捕食者の瞳が、現実から目を背けるなと言ってくる。


「あと、犯人は綿を使う正体不明の『魂物』を所有していて、そっちも要捕獲だってさ。白髪のちびっ子で、そう――ちょうどスーパーで会ったクソガキみたいな」


 犯人という響きがどうも耳に馴染まなくて、私は乾いた眼球で瞬きをする。

 それが自分のことを指していようとも、法を犯した愚者と悪し様に言われるのは、どんな暴言よりも受けつけなかった。

 久留里が『回収屋』の手先であるのは、百歩譲って信じるとしても。


「まさかとは思うけどさ――」


 決定的な一言が出る前に体を後ろへ倒す。不格好にお尻で這い、スカートの皺も気にせずに後ずさる。

 床は冷たくとも、それを知覚する余裕もなく。


「『魂物』を庇ったのって、もしかしてあんた?」


 逃げる背中が、骨ばった衝撃で留まる。

 条件反射で首を上げると、そこにあるのは壁ではなく旭の脛だった。

 久留里の補佐として獲物を抑える彼は、顔色を伺う視線と嗜虐的な笑みを交互に宿していて。

 なにも語らず、最後には私を見下していた。


「まぁ、そうだとしても言うはずないよね」


 そして、黙秘しているのはこちらも同じ。

 怯えて体をかき抱きつつも、私は決して頷かない。

 こいつに世間の正義を振りかざされるのは、耐え難い屈辱だったから。


「…………」

「じゃあこっから先はお楽しみタイムかな? っとぉ!」


 あぁ。

 予見していても、痛い。

 口を割らないのなら吐かせるまでと、久留里が私の鳩尾をまたもや抉った。

 ローファーの先端はいともたやすく肋骨の隙間に潜り、今度こそ荒らされた臓器が吐瀉物を撒き散らす。


「オェェェェェェェ……!!」

「アハハ、汚くて無様だわぁ! 素直に話せばこんなことにならなかったのにねぇ!」


 背中が塞がれていたためか、衝撃は内側で反響していた。

 私は四つん這いに姿勢を変えて、胃液の混ざった黄土色をビタビタと零し続ける。うどんの切れ端とコーンフレークの残骸がやけに生々しい。

 久留里はそんな痴態を哄笑で迎え入れて、吐き気を促す声を響かせる。


「早く言えば楽になれるよぉ! ほら!」


 髪を掴まれ、喘ぐことすら叶わず。前髪が数本抜けるのもお構いなしに、視点を床から引き剥がされる。

 逆流した胃液は行き場を失って彷徨い、痙攣した消化管が冷たい熱を帯びた。

 久留里の虹彩に映る私は口の端から糸を垂らしており、不細工極まりない。


「いつもみたいに黙っても見逃してあげない! 気絶しても叩き起こして、認めるまで責めてあげる! だって、これがあたしの仕事だから! あたしにだけ許された権利で、義務だから!」


 興奮して口角泡を飛ばす久留里も、醜悪で壊れていた。

 喉に食べ粕と胃液が詰まっている時点で話せるはずがないのに、頭を揺すって脊髄をねじ切らんとする。私の三半規管が揺れて余計に舌が回らなくなる。

 白が、段々と濃くなってきた。

 舞台に幕が下りるように、穴あきのパズルが埋まるように、あらゆる方向から靄が迫る。

 防衛本能による意識の断絶が、耳の奥で最後の音を鳴らしている。

 きぃーん。きぃーん。

 甲高いノイズが、久留里が話していた「権利」と「義務」という言葉を反射する。

 権利――生きること、最低限の生活を送ること、教育を受けること。

 義務――生きるために頑張ること、最低限の生活に甘んじないこと、教育から逃げないこと。

 どちらも私の嫌いな言葉だ。


「言え、言え、言え、言え! 私がやりましたごめんなさいって、地に這いつくばって懺悔しろ! 柚には奴隷の真似がお似合いでしょ!?」


 嫌いな場所、嫌いな人、嫌いな言葉。

 大嫌いなものに囲まれて、私は意識を手放す。

 ここで死んでしまいたい。

 考えないようにしていた感情が、酸味に混じる喉奥の塩気で溢れてしまう。いつも表には出さないようにしていた水分が、喉から心へと伝っていく。

 気絶してもすぐに起こされてしまう。でもきっと、僅かな時間で私は地獄の夢を見る。

 久留里が頬を張ろうと手を振りかざし、その振動で落ちると確信する。

 ――――――。


 閃光。

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