第23話

「――やっと来たかァ」


 すんでのところで眩い光が網膜を焼き、私の意識を引き留める。久留里は事前に知っていたのか口角を上げ、興味が移ったとばかりに掌を下ろす。


「あんたがチンタラしている間に、持ち主さんは襤褸切れみたいになっちゃったよ!?」

「ギュッ……」


 立ち上がった久留里は私を足蹴にして、光の収まった空きベッドに向かって挑発した。


「……隠れてろってお願いされたのに、約束を破ってごめんね、柚」


 そんな久留里と視線を交わすことすらなく、光の正体は私だけを見ている。

 首を据えた彼女は、努めて冷静を保っているようだった。

 謝る声は聞き慣れたソプラノなのに、なびく白髪は激情に駆られてうねり、丸い瞳も厳しく眇められている。

 重石がかかって満足に動かない首でも、リンゴの顔だけは明瞭に映った。

 私の、嫌いじゃないモノ。


「クソガキちゃーん? 無視しないでもらえるー?」


 リンゴが『メタモルフォーゼ』した時点で証拠は押さえられてしまった。私のぬいぐるみは言いつけを守らない生意気娘だ。

 でも、今の私が意識を捨てずに現実にしがみついていられるのは、間違いなくリンゴのお陰。

 自分の味方がいることの、なんと心強いことか。


「ボクは、クソガキじゃない」

 

 リンゴの硬く握られた拳に同調するように、ポニーテイルの尾が揺れる。

 暖房の切れた室内の気温はいよいよ下がり、私の呼吸にも白い靄が混ざった。


「ハァ?」


 そんな中、リンゴの的を射ない回答に苛立った久留里が、一際長い靄を飛ばす。

 スーパーでの一幕よろしく、痛めつけた私を見せて煽ろうとしたのだろう。不発に終わったのがお気に召さなかったらしい。

 私の後頭部に踵をぐりぐりと擦って汚れをつけてから、久留里はこう問いかけた。


「ならあんたは誰? まさか通りすがりの一般人とか言わないよね?」


 彼女にしては言葉選びのセンスがないので、少なからず頭に血が上っているのだろう。頭を圧迫されて貧血気味な私と交換して欲しいものだ。

 私は首の筋力が耐えきれず床に伏していたので、この時のリンゴがどんな顔をしていたのか知らない。

 ただ一言、


「ボクはリンゴだ」


 場にそぐわない簡素な名乗りだけが聞こえていた。


「柚の……友達なんだ」


 リンゴが噛みしめるように絞り出した言葉が、私の胸にすっと溶け込む。

 絶対に認めたくなかった関係性が、今は縋りつきたいほどに暖かかった。

 友達とか家族とか、信頼の形を受け入れるのは怖いことだけど。

 否定するのは、もっと辛いのかも。


「は、は、は、あぁぁハハハッハハハハハハハハ!!」

 

 久留里はなにが可笑しいのか腹を抱えて笑い、自分の腿をしきりに叩いている。

 神経を逆撫でする不気味な嗄れ声は久留里が息を切らすまで続き、場の空気を支配した。

 私とリンゴは定まらない情緒に気圧され、無意識の内に身を引いてしまう。


「ハ、ハヒッー、ヒー、フゥ……。 いやっ、駄目ッ、面白すぎて笑いが止まんない!」


 久留里は私から足を離して、ベッドの方へと近寄る。リンゴがそれを許すまいと身構えても、のらりくらりとした挙動で瞬く間に懐へと潜り込んだ。

 私は痛む首を押さえつつも、目を離してはならないと視線を這わせる。

 顔と顔を突き合わせた両者は一歩も譲らずせめぎ合っているが、上背と狂気がある分、久留里の方が有利に見える。相手の肩にそっと置いた爪は音を立てて軋んでおり、それをリンゴが引き剥がそうとする。

 その逡巡が隙を生み出した。

 久留里の口元はひくひくと痙攣し、瞳孔も歪に収縮していたから。

 溜めた一言を放つまでに、そう時間はかからなかった。


「モノ如きがさぁ、人間に媚びないでもらえるかなぁ!?」

「ッ…………!?」


 少女の体から出るとは思えない、途轍もない大音声。耳を塞いでもこびりつく残響が悲鳴の威力を物語っている。

 鼓膜があるか不明なリンゴも、のけ反って目を見開いていた。

 久留里の金切り声は保健室や特別教室を通り過ぎ、一階の三年教室まで届きそうな勢いだった。けど、人が訪れる気配はない。保健室の廊下で聞こえていた人々の騒めきは鳴りを潜め、ここにいる人間の息遣いが漂うだけ。

 さっきから物音や叫び声など、結構な騒音を発しているのに。


「リンゴ、って言ったっけ? 果物をそのまま当てはめただけの名前を噛みしめちゃって、滑稽にも程があるって! あんたのそれは苗字のない、ただの記号。分かる!?」


 久留里は大仰に手を広げ、リンゴが大切にしていた言葉を踏みにじる。『魂物』の証拠が揃っているのに能力で蹴散らさないのは、私の命令を守るためか、はたまた人間への執着か。

 静寂を、鋭利な刃物が切り裂いていく。


「前にも言ったけどさぁ、馬鹿から生まれた『魂物』は馬鹿なんだよね! あんたが着てる服だって、履いてる靴だって、マネキンと同じ! 喋れるようになった程度で格が上がったと思うなよ!?」


 私が可愛いと褒めた服を貶され、リンゴの顔が苦渋に歪む。

 久留里が話していることは、これまで私が抱いていた思想と瓜二つなのに、今は胸の内に嫌悪感だけが広がっていく。更に言えば、苦しそうなリンゴを庇ってやりたいとすら考えている。

 嫌いな人間への同調を拒んでいるのではなくて、私が変わったのだ。変わって、受け入れたのだ。


「『魂物』って命名した大人も頭が足りてないよね! ただの使い捨てのモノに大層な言葉を作って、廃棄物に情けをかけるんじゃないっての!」


 だから、私はリンゴに怒って欲しいと願っている。目の前で怒声を上げている人間が正論を言っていようが関係ない。多数決で決まった正解なんぞに興味はない。

 ただ、立ち上がれない私のために、拳を振り上げてくれ。


「体に血の一滴も流れてないゴミが、人間を騙るんじゃねぇよ!」


 臨界点を超えた瞬間、リンゴの体から繊維が弾けた。


「ギィッッ!」

 

 リンゴの裂帛の声だったのか、久留里の呻き声だったのか。

 定かではない現実の中で、確かなのはぶれたリンゴの体と、吹き飛ばされた久留里の残像だけ。

 久留里はリンゴの懐から遥か後方へと撥ね、消毒液などが入ったカートに激突した。

 遅れてやってきたように感じられる音と、久留里の頭に降りかかる包帯や絆創膏の数々。二段構造になっているカートの上部が空になるまで崩落は続いた。


「……フフフ」


 しかし。

 当人である久留里は平然と、いやむしろ上機嫌で口角を曲げる。

 髪に絡まった消毒タンポンを払ってから弓なりの目を向けると、実態を露にしたリンゴへ侮蔑の笑みを浮かべて。


「そうよ、それがあんたの本性よね」


 綿を体外に放出した『魂物』を、これでもかと嘲弄した。

 物理的な優位に立っているはずのリンゴは、視野狭窄に陥って正常な判断が出来ていない。義憤に駆られた状態では、少しの引き金が致命傷となる。


「化け物丸出しの醜い姿が、あんたにはお似合いだァ!」

「このッ……!!」


 久留里の一言に合わせて、リンゴは槍のような形に練った綿を携え突貫した。

 私を運んでいた時は手加減していたのだと察するまでの凄まじい加速。床が摩擦で焦げ、音すら知覚させない必殺を穿つ。

 生まれた風は気流となって、カーテンレールをたなびかせた。


「駄目、止まって!?」


 私は過去の経験から、久留里の表情に何か危ういものを感じるも、それを言の葉に乗せるのが余りにも遅く。

 ふわりと舞う景色が、妙に遅くなる。


「え、あ、え」


 リンゴが攻撃を加えようとした矢先に割り込んだ、一つの影。それは文字通り気配を断っていた旭で、スローモーションの中でも機敏に動く。

 手に鉈のような、およそ学校には不似合いな鈍色の刃を持っている。逼迫した私の顔と、狂喜する久留里の顔を反射した、鏡にも見える異物。

 、知っても誰が笑うのだろう。

 つまらない冗談だ。嘘だと言ってくれ。

 旭の振りかざした刃が、リンゴの脇腹を深々と裂いている光景なんて。


「いた……い」


 幻影の刻が終わり、空白が全てを包む。

 私は未だに昏倒していて、夢の中にいた。

 不思議なまどろみ。浮遊感。酩酊。


「ゆ……ず? 柚ぅ……」


 ――――夢じゃ、ない。

 ――――夢じゃ、ない!


「リンゴ!? こんなっ、嘘! しっかりして!」


 ぽーん、ぽーんと、空虚な音がする。

 旭が振り払った刃に乗って、私の眼前にリンゴが飛んできた。お腹が横一文字の空洞になった、血が流れないぬいぐるみ。

 人じゃないのに、こんなにも痛そうなんて。

 リンゴが虚ろな目で名前を呼ぶものだから、大慌てで傍に寄る。

 近くで見ると裂傷が余計に痛ましく、考えるよりも先に抱きしめていた。


「ゆずの体、あったかい……。ボクなんかとは、違うんだね……」

「そんなことないッ! ねぇリンゴってば!」


 断続的に訪れる痛みに顔を顰めながら、リンゴの瞼がゆっくりと降りていく。私が至近距離で覗いているのに、上手く焦点が合わなかった。

 弱音を吐いたリンゴを励ましたい想いと、傷を負わせた罪悪感が反発して、意味をなさない絶叫しか出せず。この期に及んで正直になれない自分への嫌悪感だけが募る。


 久留里が『魂物』を否定したのと同じで、私もリンゴを肯定していなかった。ただなし崩しを装って、遠ざかれるよう関わっていただけ。信頼を言葉にしなければ、深い関係になどなれはしないのに。

 おくびにも出さなかったけど、リンゴも自分のあり方について悩んでいた。それを無下にして、リンゴばかりを矢面に立たせていたのは私で。

 この傷は、優しさを仇で返し、美味しい部分だけを甘受していた私のせいだ。


「おい、大丈夫か!」


 騒ぎを聞きつけて教員が訪れたのかと思えば、空いた扉の向こうにいるのはいつぞやの二人組。中年と青年の組み合わせ――浩二とカイだ。

 浩二は物が散乱した保健室の惨状に顔色を変えると、私たちを見向きもせずに久留里の元へと駆け寄る。


「怪我は!? 『魂物』に抵抗されなかったか!?」

「もー、パパってば心配性なんだから。ほら、きちんと無力化させたよ」


 案の定、浩二が久留里の父親だった。

 口調こそ乱雑だが娘の無事を案じており、体の隅々まで確認しようとしている。

 久留里はそんな父を煩わしそうに跳ね除けてから、顎でリンゴを指した。話し方や態度が表と裏、そのどちらとも違く、家族にだけ見せる顔なのだと察する。


「そうか……俺がいないのによく頑張ったな。後は任せとけ」


 嫌がる久留里の頭を一撫でし、浩二が私たちを一瞥する。

 本能が逃げなくてはと叫んでいるのに、足がもつれて立てない。だんだんと力を失って重くなるリンゴの体が焦りを加速させる。

 前門の久留里、後門の旭。左右からは浩二とカイの挟み撃ち。

 頼みのリンゴが倒れている今、状況を打開できるのは私しかいない。ゴエモンも『回収屋』から逃げ惑っていたので、戦闘は苦手なのだろう。『魂物』の力は借りられない。

 なら、どうやって脱出するんだ。


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