第24話

「おい」


 迷いなど許さないとばかりに、大きな影がそびえ立つ。

 見上げてしまうと伝わる、男の逞しい肉体。

 仁王立ちの浩二が、娘そっくりの冷徹な眼差しを据えていた。


「よくも俺の娘に手ェ出してくれたな。『魂物』を擁護したのはガキの間違いで許してやるけどよ、こっちは問屋が卸さないぜ」


 殴られたのは私たちでも、あくまで浩二は久留里の味方をする。損害を比べるまでもないのに、親馬鹿というのは恐ろしい――恐ろしく羨ましい。

 父親の庇護下に入った久留里は、旭を侍らせて粘ついた笑みを浮かべていた。カイも含めれば三人に守られている彼女と私には、防衛力に城と一軒家ほどの開きがある。


 何度だって言うけれど、私にはもう味方がいないのだ。

 家族は私を死地へと放り出し、リンゴとの絆すら打ち砕く害悪だった。


「職権でお前をブン殴ってやりたい気分なんだがなァ、もう久留里に絞られたみたいだから今回は勘弁してやる。後はせいぜい、精神科の人にたっぷり説教してもらうんだな」


 そう言って、浩二は私の懐に手を伸ばし――腕に抱いているリンゴを掴もうとした。

 私の唯一の仲間を、盗もうとした。


「やめてッ!」


 未来も、希望も、友情も、愛情も奪っておいて、どれだけ私を弄ぶつもりだ。

 お前たちの正義は人の幸福を蹂躙して成り立っているのか。

 少しでも浩二から離そうと、背を向けてリンゴを庇う。

 遮られた浩二の腕は、所在なく空中で止まり、哀れな私に僅かばかりの情けをかけた。呼吸を許すだけの、間隙にも満たない沈黙。


「なんにも悪いことしてないのに、どうして私ばかりが酷い目に遭わないといけないの!? ただ普通に生きて、穏やかに暮らしたいだけなのにっ!」


 それを最後の好機、いや機会であると認め、私はみっともなく声を張った。飲み込めていなかった唾が唇から零れ落ち、リンゴの頬へと吸われていく。


「あん? なに言ってんだお前」


 息を切らしている私へ、一切の感情が宿っていない瞳を向ける浩二。

 決定的な価値観の差が、お互いの溝を広めていく。

 そればかりか、浩二は抱えていたリンゴへと手を伸ばし、掴みやすい胴体を握力だけで捉えた。蹲っても粘れない力量の差に、糾弾だけで時間を稼ぐ。


「離してよ! リンゴは普通の『魂物』みたいに悪い子じゃないんだって!」

「『メタモルフォーゼ』を体験した奴はみんなそう言うんだよなぁ。俺の、私の持ってる『魂物』はいいモノだって」

 

 でもよぉ、と浩二は前腕に隆々たる筋繊維を浮かべる。

 ぬいぐるみでなければ確実に裂けている拮抗の決着は、いともたやすく、迅速についた。浩二がリンゴの下半身にしがみついていた私の体を足元へと引き寄せ、靴底で殴打したのだ。

 目のくらむ鈍痛が、体のあちこちで悲鳴を上げる。


「安全って言うガキの『魂物』ほど、危ねぇモノはないぜ? 思春期なんて大した視野を持ってねぇから、自分の見たものを簡単に信じやがる」

「返せ……返してよ……」


 リンゴの体は浩二の手へと渡った。

 私は腫れて開かない左目を放って、隻眼だけで気迫を込める。込めようとする。

 なのに、眼力は全く集まらなくて、焦点のぼやけたうわ言だけが口から出る。眼球からは血とも涙とも取れる液体が流れ、感覚のない足先へと滴る。


「おーお、そうそう。ガキはそうやって駄々捏ねるみたいに鳴いてりゃいいんだよ。せいぜいカウンセリングを受けてまともな大人になるこったな」


 背を向けてひらひらと手を振る浩二と、ぞんざいに担がれたリンゴの体。その両方が、ピントの合わない世界から離れていく。

 音が、どんどん遠ざかる。

 もつれた足が落ちて、膝頭が敗北の響きを奏でた。リンゴが襤褸になるまで戦ってくれたのに、私はこの体たらく。染みついた負け犬の血液が、逆流して委縮して。


「フフフ! ひっさびさに爽快! 今日はよく寝られそうだわー! 旭、後はよろしく」

「…………ああ」


 久留里のつけた香水が鼻孔をくすぐり、項垂れた眼前を二人が歩き去る。


「カイ、近くにもう一匹の『魂物』がいないか徹底的に調べろ。もしまた誤魔化したら…………分かってんな?」

「承知しました。命令に従います」


 私は独りじゃなにも出来ない、無力な子供だった。

 リンゴに頼るだけの、木偶の棒だった。

 結局、なにも変わっちゃいない。

 ぴしゃりと閉じた扉を最後に、本物の静寂が辺りを包む。一限終了のチャイムだけが簡素に響いて。

 

 独りになった私は、泣くことにすら臆病だった。

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