第11話
気遣わしげな店員の目線と、その手に持たれた陳列予定のキュウリを見て、私はのそのそと立ち上がった。
「その、大丈夫ですか?」
大丈夫じゃねぇよ見て分かんねぇのかカス。と頭で唱えてから、曖昧に頷いておいた。
私の返事を聞いて、店員は満足そうにキュウリを並べ始めた。
さっきまでの喧騒が嘘のように、店内にのどかな買い物風景が戻ってくる。
世界に取り残されたのは、私だけだった。
「柚……平気?」
いや、もう一人、もう一匹いた。
水色の長袖ワンピースの裾とフリルについた靴跡をごしごし擦りつつ、上目遣いで問いかけてくる。
リンゴは服の汚れを綿の体に移し、体の汚れを取ろうとしてまた洋服を汚していた。馬鹿か。
「大丈夫じゃねぇよ見て分かんねぇのかカス」
「辛辣!!」
リンゴは口に掌のパーをあてがい、大袈裟に驚いて見せた。その後ににへらーと笑ったあたり、冗談との区別はついているらしい。
その後の私たちは、周囲に溶け込むことを意識して手早く買い物を済ませた。汚れた女子高生とちんちくりん少女の組み合わせは珍しいため浮いていたが、声をかけられることはなかった。
リンゴは服を汚してしまったことをしきりに謝っていた。私が「帰ってからお風呂に入ろうか」と言うと、富士急ハイランドもびっくりの絶叫を上げたので、チョップで黙らせたけど。
何故か――いや、よそう。やっぱり、本気で怒る気にはなれなかった。
実は、私は帰りに近所の公園へリンゴを捨てようと考えていた。家に監禁せず連れて来たのも、そういったわけで。
今考えればリンゴが公園のド真ん中で「柚―! どこなのー!」と叫び、私との関係がバレる未来が待っているだけの、穴だらけの策だったが。
まぁ、『魂物』の所持とは、こんな短絡的な発想に追い込まれてしまうほど危険な行為なのだ。
同情したければご自由にどうぞ。
「どうしてさっき、綿を使わずに我慢したの?」
「え、やっぱりボコボコにした方がよかった?」
「いや、そうじゃなくて」
帰りの道すがら、私はリンゴにそう尋ねた。
手早く済ませた、などと言っていた買い物も、慣れない陳列のスーパーでは上手く行かない。買い物袋に商品を詰めている時には、時計の針が五をゆうに通り越していた。
外は夕暮れと薄闇の間を行き来して、忘れかけていた肌寒さが顔を覗かせる。じきに日も落ちて、静謐な夜に包まれるだろう。
早く帰らなくてはならない。しかし、この場でどうしても確認せねばならなかった。
「えっとねぇ……」
やっぱりボコボコにするつもりだったんかい、と冷や汗をかきつつも、私は余計な口を挟まずにリンゴの答えを待った。
リンゴも雰囲気を察してか、出すべき言葉を考えている。ここでおちゃらけてくれれば、捨てる決心が固まりやすいのだけど。
「柚が初めて、ボクの名前を呼んでくれたから。聞こえた瞬間に、そうだ、ボクはここで力を使っちゃいけないんだーって」
「あ、そゆこと……」
五kgのあきたこまちにバランスを崩されつつ、リンゴは私の方を振り向く。ちょうど太陽が沈むところで、彼女の背中に茜色の光が眩しく照り注いだ。
光に反射すると分かる、リンゴのボロボロさ加減。適当に梳いたせいもあるけど、髪はほつれて絡まり薄汚れ、お団子ポニーテールはしおれている。
体にはくっきりと、ローファー靴底の刻印が。
そんな、私から見れば満身創痍の様子で、リンゴは一片の悔いも感じさせずに笑った。
にへら? それともにぱー? とにかく馬鹿丸出しの笑い方だ。
悪意もなく、純粋な嬉しさだけで言うものだから、こちらは心中穏やかでいられない。
「……やっぱり、綿を使って倒して欲しかった」
不安定なまま喋ると、思いとは裏腹の言葉が出てしまう。
モノ相手にすら素直になれない自分に嫌気が差して、買い物袋が一段と重くなる。
私はリンゴになにを言うべきなのか、いちいち説明する必要もないのに。
「うん? そうだったの? でも、ボクは久留里に『暴力はよくない』って啖呵を切ったし、それで殴ったら矛盾してたよ」
私の掌返しにも気を悪くせず、リンゴはあっけらかんと笑う。途轍もない力を持っているとは想像できない、華奢な腕でシャドーボクシングをしてから、何度も頷いて。
寒風に追われて歩いていたからか、もうせせらぎ川の終点だ。この先にある横断歩道を渡って、二回曲がれば家なのだけど――。
横断歩道の左には、住宅街に相応しい静かな公園があった。
リンゴの廃棄予定地。ランニング用のトラック横には稀に白鳥などが訪れる大きな池があり、そこそこの深さがあるのでぬいぐるみを沈めても気づかれやしない。
失敗すれば公園のド真ん中で(以下略)の可能性も大いにあるが、こうして現地を眺めると失敗する方が難しい土地だった。
「青なのに渡らないの? ――あれ、もしかして逆?」
青信号なのに立ち止まっているのを訝しんだリンゴが、自分の常識を疑い始めた。黄、青、赤、などとブツブツ呟いて、眼球を右往左往させている。
これがアニメなら、あと数秒もしない内に頭から湯気が出そう。
こんなに頭の悪い相手なら、口先八丁でどうとでも操れそうだ。ちょいちょい、この池を見てご覧、柚、何にもないよぉ――後ろから突き落とす。ほら簡単。
と、考えつつも――
「赤信号が渡ってよくて、青信号が停止だね。あーあ、リンゴのせいで私まで信号無視しちゃった」
結局、私は公園へと向かわなかった。暗さで不気味な光沢を放つ水面を遠巻きに眺めてから、軽い足取りで縞々の白線を超える。
成功例と失敗例を頭で思い描いて、失敗による高いリスクを避けることにしたのだ。
頭を捻ってひねくれさせて、上手く行かない方が危ないのだと思い込むことにしたのだ。
百人中九十九人が上手くいくと言っても、一人は必ず首を振る。
それが私だ。
リンゴを捨てるには、もっとスマートでインテリジェンス溢れるインタラクティブな方法がある。最後のは違うとしても。
それを思いつくまでは、このおかしなぬいぐるみは捨てないでおこう。
丁度、下らない日常に退屈していたところだ。
「え……?」
リンゴが信じられないものを見るような目をしている。
それどころか、抱えていた米を路上に落とし、覚束ない足取りでこちらへ近づいて来る始末だ。リンゴ自身は人間のルールに興味津々だったし、信号無視をしたと思い込み堪えているのかもしれず――なら、間違った情報を教えた私が悪い。
変な所で律儀だから「柚に違反させちゃったよぉ」みたいな感じで凹んだのかもしれない。
リンゴは私の足元にのったり近づいて、腰に両腕を回した。
「ボクの名前、呼んでくれるの?」
そして、恍惚とした表情でそう言った。
「あ、そっち……?」
私のお腹にぽっぺたを擦りつけているのを見て距離を取りたくなるけど、顔中についた傷や泥がちらついて拒絶するのが憚られる。
所在ない時間が流れて、後ろの信号がもう一度青から赤に変わった。リンゴは未だに頬ずりを続けている。
上から分かるのは、艶めきを失った髪の挙動のみ。終わる気配のない時間に飽きて、ふと頭上に手を置いてみた。
感じるのは、汚れても損なわれない絹の心地よさと、太陽の香り。
「ピピピ! 柚センサー検知!」
鈍感なのに敏感なリンゴは素早く顔を上げて、私が撫でている証拠を見ようとする。
だけど、それは悪手だ。
「今、柚が私を撫でてくれたような……?」
「気のせい気のせい。頭の香りを楽しむために触れたりしてないよ」
こいつ、マジでいい匂いするんだよな。
咄嗟に離した手の匂いを嗅いでいると、リンゴも満足してお米を拾いに戻った。
私の方をちらちら向いているあたり、触られたんじゃないかと疑っているようだが、そう簡単に口を割るものか。
「むむむ」
疑りの目VS冷ややかな切れ目。軍配が上がったのは切れ目だった。リンゴはしぶしぶ荷物を持ち上げて――さも当たり前のように家の方へと歩く。
「『魂物』を捨てないなんて、私おかしくなったのかな――でも」
偶にはこんな時間も悪くない。そう、素直に思えた。
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