第10話

「あん?」


 自動ドアが開き、久留里たちが夕方に身を躍らせようとした直前に、リンゴが二人の前へと立ち塞がった。両手を広げて、一昔前のドラマ的なポーズを取っている。

 久留里が不機嫌さを押し出して睨みを利かせても、拳を握って踏ん張った。私なら臆病風に吹かれ、すぐさま道を譲るだろうに。

 結局、店員と客の注目を集めたまま拮抗は続き、自動ドアが閉まりかけてまた開くまでに緊張が高まっていく。


「あたしらもう帰るからさ、ちょっとそこどいてくれない?」

「嫌だ。キミが柚に「ごめんなさい」って言うまで、ボクは絶対にどかない」


 ぴきり。

 私はキュウリ売り場でえずいていたのに、遠くからでも血管の千切れる音が聞こえるようだった。

 リンゴは今、久留里の脳内にあった完璧な行動を台無しにした。その事実の重さが、取り巻きの青ざめた顔で分かる。

 余計なことをするなと、声を大にして叱ってやりたい。しかし、痛みで粘つく喉からは風切り音が精々で、それを脇見したリンゴが更に表情を険しくする悪循環に陥ってしまう。


「あのさぁ、あたしは別に好きでユズを絞めたわけじゃないの、分かる? あっちに非がある部分に対して、けじめをつけただけ。事情を知らないお子ちゃまが口を挟んでいい問題じゃないのね?」

「でも、暴力はよくないよ。謝らなくちゃおかしいよ」


 久留里はリンゴを押しのけて、通りすがりに持論を吐き捨てた。

 だけど、またもやリンゴがそれを防ぐ。自動ドアの境界線にほっそりした太ももを割り込ませ、見方によっては足をかけるような体勢で半身、久留里を留める。

 リンゴの話は、世間一般では正しい意見だ。百人に話せば九九人が頷いてくれるだろう。

 頷かないのは私だ。

 やり過すためには、暴力に目を瞑らなければいけない時がある。どんなに屈辱的で泣きたくとも、強者にひれ伏して生きる必要がある。

 リンゴは私の考えに準じてくれると思っていたのに、やはり所詮はモノだった。


 ――『メタモルフォーゼ』した『魂物』は持ち主の理想を体現する。

 ちがう、そう、ちがう、そう。


「蛙の子は蛙ってことか――どけよ、クソガキ」


 妹は子供じゃないし、なんならリンゴは妹ですらないけれど、怒り心頭の久留里には些事らしい。私とリンゴの不快感が同じとでも言いたかったのだろう。

 久留里は薄くラメを散りばめた爪と指全体を使って、リンゴの頬を引っ搔いた。

 痛い思いをしたくないならあたしの言うことを聞け。彼女の常套手段。

 綿も切り傷には弱く、血は流れなかったものの、白いミミズ腫れが右頬にもう一本のひげを作った。


「柚に謝ってよ」


 しかし、顔を顰めつつも、リンゴは一歩も譲らない。確固たる決意を持って久留里と相対している。

 自分の思い通りに行かないことが重なった瞬間、久留里がどんな行動を取るかは想像するまでもなかった。


「うっざいんだよお前ぇ!!」


 久留里の大らかに見えて繊細な情緒は、簡単に爆発した。

 今度は手首だけでなく、肩から肘全体のしなりを振り絞って、拳をリンゴの顔に叩きつけたのだ。

 周囲から悲鳴とも歓声ともとれる声が上がって、リンゴはカート置き場へと吹き飛ばされる。

 体重は軽く、痛みはなくとも衝撃はある。ぬいぐるみの『魂物』らしい挙動だ。

 ただしこれは、リンゴが『魂物』だと知っているからこその感想。

 取り巻きのモブ少女が口元を押さえて驚いているのと一緒に、久留里もまた自らの拳を眺めていた。大方、手応えのなさに戸惑っているのだろう。


「軽い……?」

「そんなこと言ってる場合じゃないよぉ! このままじゃウチら学校にチクられるって!」


 久留里の怒りに困惑が混ざったところで、我慢できなくなった取り巻きが大声を上げた。

 確かに買い物に来ていたおじさまおばさま方が、「あれって船三高の制服じゃない?」「嫌だねぇ、暴力は……」などと会話している。

 モラルのない小学生や若者にはスマートフォンを構えている者もおり、拡散されるのは時間の問題にも思えた。


「うわ、マジじゃん。やっば」

「早く逃げよう、久留里!」


 呆けていた久留里も殴った後で冷静になったのか、状況に顔を青ざめさせた。

 ぱしゃり、と誰かがスマートフォンのフラッシュを浴びせる。スマートフォンのカメラは盗撮防止も含め、機種によっては音が消せない。

 閑話休題。

 久留里たちは咄嗟に顔を隠したものの、カメラよりも速かったかは怪しい。

 これ以上電子データの餌食になってたまるかと、虫が入るのを防ぐために二重になっている自動ドアをくぐり抜けようとして。


「『久留里』って言った? ねぇ、キミが、そうなの?」

 

 カート置き場へと吹き飛ばされたはずのリンゴが、這いつくばったまま久留里の足首を掴んでいた。

 タイミング的にも指の届き方からしても、狙ってできる芸当じゃない。恐らく「久留里」という言葉を聞いて咄嗟に手を伸ばしたのだろう。


「あたしが久留里だとしても、あんたには関係ないっつーの! うぜぇからいちいち突っかかってくんな!!」


 久留里は青くさせた顔を瞬く間に染め上げて、体面を気にせずリンゴを足蹴にした。

 引き剥がすために勢いよく足が上がったので、スカートの絶対領域が破られてしまう。

 パンツは薔薇の刺繍が施されたパープルの、とにかくエロいやつだった。近くで撮っていた男の鼻が伸びたのを見て不快になるが、まあエロいのを履いてる方が悪いか。


「そっか、キミが柚を――」


 私はそれよりも、リンゴの喋り方が気になった。吊るされていた時にも感じた瞳の剣呑さ、それが声にも宿っていたから。

 モノに肺なんて器官があるとは思えないのに、息を絞り出すような掠れた音がする。さっきまでの会話が守りだとするなら、一転攻勢に出るような気配。

 楽天的な様子が鳴りを潜めたにせよ、ここまで殺気に近い気配を感じさせてはいなかった。

 こうも唐突に豹変する理由はどこにある。圧迫から解き放たれて上昇し始めた血液と、通過地点の脳みそで考える。

 

 久留里とリンゴが初対面なら、他に考えられるのは私にまつわる記憶――。

 ぬいぐるみと共有していた、私とリンゴにまつわる過去――。


「――まさか」


 刹那、電撃のような不安と、的中するであろう確信が身を貫いた。

 やめろ。それをやっちゃいけない。

 咄嗟に口にしようとしたその言葉は、血液とは違って循環も潤滑もしていない喉によって遮られた。

 乾燥した空気を目一杯吸い込んだ後、イガイガの不純物を取り除くための空咳が出る。袖で飛沫が飛ばないよう押さえつつ、私は唇だけで不満を漏らした。


 ――綿は出すなって、道中で念を押していたのに。


 リンゴは多分、私が布団で泣いていたのを知っているのだ。

 いじめてきた奴らが憎いと、鼻水を垂らしてみっともなく喘いでいた記憶を持っているのだ。

 何回も呪いを込めて、久留里と唱えていた。辛いのは全部、あいつのせいだって。


「……許さない!」


 お喋りのリンゴにしては、酷く静かな一文だった。


「なんだよ、そんな怖い顔しちゃって――ま、あんたの顔は覚えたから。次会った時はユズと同じくらいの目に会わせてあげる」


 手を離したリンゴに向かって、久留里は今度こそと捨て台詞を吐いていた。

 でも、リンゴが手を離したのは相手を逃がすためじゃない。

 ファスナーに手をかけるためだ。

 彼女が首下のそれを下に引っ張れば、綿の力で久留里を簡単に潰せるだろう。

 私の意趣返しで喉を壊してやるのもいいし、頭を押さえつけて地に這いつくばらせてもいい。

 初対面の一件からも、リンゴの綿が相当な破壊力を秘めているのは分かっている。もし想像した通りに加虐の限りを尽くせば、ささくれた心も幾分かはマシになるだろう。


 ただここで、『魂物』であることを証明してしまえば、動画を撮っている野次馬の手によって拡散、通報されてしまう。

 そうなれば私もリンゴもただでは済まない。

 私は警察に取り調べを受けてから精神病院へ。リンゴは『回収屋』に火葬台へ。

 首元の、誰もがアクセサリーだと思っていたつまみが下へと落ちて――。

 久留里のことは殺してやりたい。けれど、こんなやり方じゃあ駄目だ!


「リン、ゴ……」


 ――――不意に、止まった。

 

 急ブレーキをかけた列車のように肩をビクッと跳ね上げ、ギリギリのところで綿を出さずに我慢して。


「じゃあユズっちと、名前知らないから――クソガキ? バイバーイ」


 リンゴの頭を踏みつけて、満足した久留里は手をひらひらと振って姿を消した。

 野次馬はその背を見送って暫く呆然としてから、思い思いの買い物へと戻っていく。話題はさっきの一幕で持ち切りだが、家に帰って晩御飯を食べ終わる頃には殆どの人が忘れているだろう。

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