第7話
目を覚ますと、自然光がなくなっていた。葉の間から照り注ぐ光は期間限定で、二時間もすれば終わってしまう。
寝ぼけたまま、枕横のデジタル時計に視線を移す。午後三時半、残念ながらおやつの時間は過ぎてしまった。
また顔を上げて、覚醒するまで天井と対話でもしようと考えていると、口の端に糸っぽいものが触れた。
「むにゃ……」
どかして毛根を確認すると、当然かつ残念なことにリンゴが眠っていた。小さい体を丸めて抱きついており、白い外見も相まってゆで卵のよう。
「それはチャックじゃなくてジッパーだよぉ……」
極めてどうでもいい夢を見ていそうな白卵のせいで、幸福なまどろみタイムは早くも終了した。それと同時に睡眠前の記憶が呼び起されて、暗澹たる気持ちにも。
「こいつが私の理想だなんて、絶対信じないから」
外見は百歩譲って私の理想だとしても、「ボク」の一人称や能天気な性格を目指した覚えはない。托卵みたいに別の何かが宿ったとしか考えられない。
体を起こすと、抱きついているリンゴも起き上がる。爆睡しているのか「ん」と言っただけで、瞼を開ける気配はなかった。
「重くは……ないんだよね」
体重三十グラムもあながち嘘ではないのだろう、羽毛布団を肩にかけている感覚で、運動に全く差し支えない。引きこもりでも楽々だ。
「あはは、それタッパー……」
しかしうざかったので、壁と私でリンゴをサンドイッチにしてみる。
「むぎゅ!」
「グッドモーニング具材さん」
私は林檎サンドよりも苺サンドの方が好みだけど――この場合は『魂物』のリンゴだ。衝撃に丈夫とはいえ、圧迫感などは感じるらしい。目を白黒させ、首を素早く横移動。
「おはよう? ――そっか、ボク人間になったんだ。こうやって柚に挨拶できるなんて幸せだね」
そしてリンゴは部屋の全貌を確認するよりも早く、私の顔を見て相貌を崩した。にへら、と私の圧迫サンドを気にも留めないので、自分の器が小さくなった気がしてイライラする。
「あんたは人間じゃないでしょ」
「言い方ひど……リンゴって呼んでもくれないし」
「必要だったからつけただけ。私が呼ぶ必要はない」
「ぶー。けちんぼ」
もう一度サンドイッチにしてから、私はリンゴをひっぺがす。トースターの網に絡まった餅のような抵抗を見せたリンゴも、本気で嫌がっていると知ってしぶしぶ降りた。
「これからどうしよっか?」
「どうしたもこうしたもない。トイレ行って、また寝る」
「えー!? 起きたばっかじゃん、外に行って運動しようよ」
上目遣いで意味の分からないことを言うリンゴを気怠く眺めてから、私はドアノブを捻った。
一階にしか手洗いがないので、催す度に移動の手間がかかる。
「騒いだり運動したり、母さんの機嫌が悪い時に迂闊な真似はするべきじゃない。私たちが原因ならなおさら」
「別に運動は怒られないんじゃないかな……?」
……妙なところで頭の切れるリンゴは放置して、海老茶色の扉を開ける。屈む時に音が鳴らないよう注意して、沓摺をまたいだ。
はらり。
するとドアに貼りつけていたのか、メモ用紙が床に滑り落ちた。セロハンテープの下には「おつかい」という文字が躍っている。
「じゃがいも、にんじん、きゅうり、ハム、レーズン――何これ」
「いいから見せて」
拾い上げたリンゴの手から用紙を奪って、ポテトサラダが作れそうな材料群に顔を顰める。この野菜だけなら平気でも、切れた味噌や米(五キロ)、トマトジュースの補充まで求められているから質が悪い。不自然に折ってある紙の裏には五千円札が挟まっていて、この予算内で品物を揃えろと言外に伝えていた。
「夜ご飯のおつかいなんて、生まれて初めて頼まれた……」
文面の最後には「無視すれば今日の晩御飯を抜きにする」と書かかれており、要求よりかは脅迫の方が正しそう。
これまでは終日布団でごろごろしても怒られなかったのに、たった一日でその平穏が脆くも崩れ去った。母の張りつめていた堪忍袋に刃を添えたのは私と、そして――。
「ねーね、おつかいってなにすればいいの。モノだった頃にも話してくれなかったよね」
こいつだ。
どうやらリンゴにはモノとしての過去――私に買われた小学六年生からの記憶があるらしく、知ったような口ぶりも、私の独り言の内容や家族との会話を参照していたらしい。確かに私は独り言が多い方ではあるけど、それだけで知った気になられても困る。
そんなリンゴはとてもお気楽で、自分の指を絡ませて遊ぶ始末。人の事情に切り込む前に、多少なりとも遠慮して欲しいものだ。
丁寧に説明してやる義理も無いので、簡潔に「買い物」とだけ答えて、私は頭をがりがりと掻いた。寝起きの浮遊感は鳴りを潜めて、生活リズムの乱れた倦怠感だけが全身に広がっていく。
「買い物――ってことは外に出るんだよね!? 丁度いいじゃん、早く行こうよ!」
馬鹿正直に廊下を駆けだしたリンゴは階段をどたどたと下って、私が憂鬱の湖に浸りかけた瞬間には玄関前に辿り着いていた。眉だけでも整えるべきか、そもそも外に出たくないなぁ――そんな風に逡巡している私を急かして大声で喚いている。
「急がないと置いてくよ! あれ、でもボクだけじゃ道が分かんないや――っとうわぁ? 柚!! 靴ってどうやって履いたらいいの!?」
あれじゃ母に叱られるのも時間の問題だろう。
二度目の折檻はどんな規模になるか、想像するのも恐ろしい未知数がそこにある。リンゴに取り合う手間と母に怒られる恐怖を天秤にかけて、私は仕方なく前者を選んだ。
「ちょっと待って!」
果たして意味があるのか、私はリンゴに形だけの制止をかけて自室のクローゼットを開ける。
適当にセットで置いてある無地の長袖とデニムパンツに着替えて、横にある櫛で髪を整える。外出する予定がなかったせいかドライヤーの癖がめちゃくちゃで、特に前髪の寝ぐせがまとまらなかった。
「別に誰かと会うわけでもないし、これでいっか」
アイロンを当てれば解決するけど、手間をかけるのが馬鹿らしくなった。私は拘泥するでもなく早々におめかしを切り上げて、階段へとのっそり向かう。億劫さのあまりに眉を整える気にもならない。
「遅いよ柚! ボクもう待ちくたびれちゃった」
女子高生の着替えギネス世界記録に認定されてもおかしくない速度だったのに、玄関でリンゴは頬をむっつり膨らませている。足元には紐靴と格闘した痕跡が残っており、私のスニーカーが横に倒れていた。
「履けなかったの?」
「履けなかったんじゃなくて、大きすぎたの」
つまり履けなかったと。
リンゴは足を汚して、こけたのか右膝までをも土色に染めている。さっきまで外に出られると喜色満面だったのに、一つ上手くいかないだけで機嫌が悪くなったのか。
「子供だなぁ……ん?」
動きにくそうに身をよじっているリンゴを観察すると、髪の毛が地面に触れていることに気がついた。さらさらの毛髪は先が擦れて変色し、清純な白が損なわれている。
「その髪はどうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ。歩く度にズルズル引きずるし、足で踏んで転ぶし……」
そうしてリンゴの髪の毛と、すぐ横にある滑らかな太ももを眺めた瞬間、私は新たな問題点を見つけてしまった。
よくよく考えると、こいつのシャツ下は全裸も同然じゃないか。
髪の長さも容認しかねるけど、露出狂はもっとまずい。他人ならまだしも、隣を歩く人間(モノ)が変態扱いされると、私にまで火の粉がかかる。
「……ねぇ、その服装でうろつかれるとこっちが困るから、大人しく洗面所まで来てくれない?」
「洗面所に行ってどうするの?」
「どうするってそりゃ……」
常識が通じないと言うか、会話が噛み合わないと言うか……。
純粋な気持ちで首を傾げるリンゴに対しやりにくさを感じつつ、身だしなみの講釈を垂れる。
髪、メイク、服、小物。全部はやらなくてもいいが人間は身だしなみを整える――特に清潔感が大切だという説明を短くまとめ、髪と服を変えようと伝えた。
「うん? うん――分かった!!」
私の説明が進むにつれて、仏頂面のリンゴはみるみる笑顔になった。
どの部分が琴線に触れたのか分からないものの、上機嫌で廊下へと飛び出す。当然ながら、足裏の砂利スタンプが廊下にぺたぺた捺印される。
「拭いてから上がれ!」
「ギュエッ!!」
上がり框の数歩先でリンゴをクラッチして、首根っこを掴んだまま風呂場へと放り込む。
「あわわわわわわわわ! 水は駄目まじホント勘弁!」
シャワーに性格が変貌するほどの怯えっぷりを見せたので、アルコールシートで手を打つ。動物の世話をしている気分。
髪と足の砂を拭き取ったら、今度は頭をヘアゴムで括る。普通に縛るのでは長すぎるので、お団子を作ってからポニーテイルに。
「柚の手あったかい……気持ちいい……」
毛束を作っているとリンゴが気持ち悪いことを言い出したので、軽く手刀をお見舞いする。「えへへ」
リンゴはそれでも笑っていた。私も耳障りなら水でもぶっかけてやればいいのに、これ以上時間をかけたくない気持ちが先立つ。
「洋服はサイズが合わないから……私のお下がりでいいか」
洗面所の古着入れにあった小学生の頃の下着とフリルの長袖ワンピースを着せて、鏡の前に連れて行く。メイクで頬ひげも消したかったけど、入れ墨よりも濃く彫り込まれていて誤魔化せなかった。
「よっ、ほっ、とう」
リンゴは三面鏡の前で服をひるがえして、楽しそうに跳ね回っている。悔しいけど、私が頭で思い描いていた可愛い存在そのものだ。水色の生地は着る人によっては似合わないのに。
小学生を最後に可愛い服を着なくなった、いや、身長によって着にくくなった私は、昔と同じように揺れるスカートに目を眇めた。
「どう、似合う!?」
最後にくるりとターンして、リンゴは私にそう問いかけた。
私は前面にあしらわれた刺繍とリボンに目を奪われていたので、
「似合ってるよ」
つい、そう答えてしまう。
「え? 柚なんて――」
リンゴは動くのを止めて、何回も目を瞬かせた。視線を左右に振ったと思いきや、自分の体を見下ろしてワンピースを触っている。
「夢じゃ……ないよね?」
そして頬を伸ばせるだけ伸ばして現実を確認すると、爪先から脳天を震わせ、最後に頬をだらりと緩ませた。
「……あ!? いや、やっは今のなし」
その反応で自分の失態に気付いたものの、吐いた言葉は戻せない。せめて周りの空気をかき乱そうと手を顔の前で振り回しても、指の隙間からリンゴのにやけ顔が覗くだけだった。
「可愛いなら可愛いって、最初に言ってくれればよかったのにー」
最悪だ。
リンゴの中では似合う=可愛いで処理されたらしく、私の訂正にも耳を貸さない。その場で小さく撥ねると、鏡と私を交互に見て小躍りしている。
これまでの性格からして、次は間違いなくからかいの文句が出てくる。マカロンの怒りを完全に浄化できたわけではないので、煽られて我を忘れないか心配だ。
こんなことなら、素直に言うんじゃなかった。
私の後悔を置いて、リンゴは無言のまま玄関へと移動する。三人いなくとも姦しい奴が含み笑いをしたまま黙るというのは、なかなかどうして不気味なものだ。
「柚」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」
私は自分の想い、意見をそのまま肯定的に出すのが苦手だ。相手が何を考えているか分からないのに、安心や信頼のせいで、弱みを見せやすくなる。
リンゴは玄関の門扉に手をかけて、母の小さいスニーカーを履いた。鍵のかかっていない扉はリンゴの力でも簡単に開いて、夕方に近づいた薄い光が私たちに差し込む。
「褒めてくれて、ありがと」
「嬉しかった」リンゴは最後まで言い切らずに外へと飛び出して、そよぐ風に歓声を上げる。
「…………へ?」
呆気にとられ、扉の閉まる音でようやく我に返った。
別人のように淡く微笑んだリンゴの顔と、混じりっ気のない言葉が記憶に焼き付いて、変に胸が苦しい。
ふらふらと靴を履き、半ば自動操縦で扉に体重をかける。この先には厄介モノが待ち構えているけれど、相対せずにはいられない。
それがたとえ、私を惑わせる悪魔だったとしても。
「早く処分の方法を考えないと」
扉はまだ半開きなのに、その奥で満面の笑みを浮かべている少女が想像できて、分析できない感情のまま一思いに扉を開け放つ。
「あいつ……気遣いできるんだ」
最後にそう言い残してから、私は外の世界へと足を踏み出した。
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