第8話
私の家から最も近いスーパーマーケットは、路地を二本曲がってから小川の横を抜けた先にある。
ほんのり勾配があるにせよ、普通に歩けば十分もかからない好立地だ。日が暮れる前には家に帰れる、そう思っていた。
「風が当たれば気持ちよくて、太陽の光はこんなにも眩しい――凄い、凄すぎるよ柚。この感動が分かるかな?」
一本目の曲がり角を超すまでは。
リンゴは塀に頬を擦りつけたまま、だらけきった口元を動かす。
外出してから約五分間、彼女はブロック塀の方が外気よりも暖かいという謎の発見に飛びついてから動いていない。全身をアスファルトにつけている様は、真夏のセミにも見えた。
「はいはい、凄い凄い。感動していい返事が思いつかないから、移動しながら考えようかな」
「むぎぎ……」
引き剥がそうとしても細腕とは思えぬ怪力でへばりつくので、虫よりも質が悪い。必死の形相で抵抗し、何遍も自然の美しさについて説いてくる。
「外の景色なんて、いつ見ても一緒でしょうが……!」
「柚はそうかも知れないけど、ボクはこれが初めてなの……! ケチケチせずに待ってくれたっていいじゃんか……!」
続けて道端の雑草について語り始めたリンゴと、それを目一杯引っ張る私。端から見れば通報されてもおかしくない絵面だった。
「夜までに帰らないと、どの道ご飯抜きなんだよ……!」
ちなみに我が家の夜飯は七時だ。オーソドックスだろう。
それ故に、冗談抜きで時間がない。リンゴは関心が移りやすい割に、これだと決めたことは中々曲げないのが厄介だった。
地を語り空仰ぐ。このままだと視認できるもの全てに感動するまで足止めされそうだ。
「スーパーマーケットに行けば、もっと面白いものが見れるのになぁ!」
苦し紛れに吐き捨ててから、乳酸の溜まった腕に最後の力を込める。
「え、そうなの!?」
「はぁぁぁぁぁ!?」
リンゴはあっさりと手を放し、私の虚しい絶叫が近所に木霊する。
怒りの咆哮という面もあるが、それより尾てい骨の痛みが勝った。
声を出してあまり表現したくない格好で転がる私を他所に、リンゴは空中でバク転してから地面に着地。
それから「ゴーゴースーパーマーケット!」などとのたまいやがるので、鈍痛が引いてから相手の唇を思い切り抓ってやった。
「はひふるほさー」
「うるさい口はこうやって塞いであげる……!」
そのまま直進して、二本目の曲がり角を左へ。せせらぎの川を抜ければスーパーまでは目と鼻の先だ。
排水溝に詰まった落ち葉、そして水が循環する独特の音色を聞きながら、私たちは無言で歩く。通り過ぎる人々がドナドナの様子を不思議がっているが、野放しにするよりも目立っていないのは明らかだった。
「むーむーむー、むみめ!」
リンゴは川から遠い方に動きつつも景色に一喜一憂して、時折ばたばたと駄々を捏ねる。ハンドサインで川に放り投げる旨を伝えると大人しくなったけど、目の輝きだけは漏れ出してまま。
値段の変わらない自販機、おじいちゃんしか使わなそうなベンチ、眠たそうな小魚。どれも引っ越したその日から変わっていなくて、平凡な日常が横たわっているだけ。
私にとっては色彩を失った風景だし、それとなくぼんやりしている。
……がりがりがり。
「……うわ、やば」
物思いに耽っていたせいで、リンゴのスニーカーが削れる音に気づかなかった。母は几帳面が服を着て歩いているような存在なので、踵が削れていたら絶対にどやされる。
「いい、今から自由にするけど、ちょっとでも変な動きをしたら速攻川にぶち込むからね」
「ふんふん、ほーはい(了解)」
「私は冗談言わないよ。一回でも綿を出して、周りの目を引くような真似をしたら、そうだ――あそこの深い池があるでしょ? あそこに沈めてあげる」
「ふ、ふんふん」
適当に頷いたリンゴを脅して、大人しくなった所で解放する。呼吸が必要とも思えないのに、「ぷはっ」と息を吐いて苦しそう。
「し、死ぬかと思った……」
「ぬいぐるみが死ぬとか、私が学校に行くくらいあり得ないから」
私は寒さとは関係なく震える手をズボンに擦り、自虐気味に肩を竦める。
リンゴとの毒にも薬にもならない会話で薄れていた恐怖も、無視できない大きさまで膨れ始めていた。
克服できたと誤解していたけど、そう甘い話でもないようだ。
私はやっぱり、外が怖い。
「違うよ柚。人と一緒で、モノもその時が来たら死んじゃうの。だから大切にしないとだめなんだよ。ぷんぷん」
リンゴの情緒は相変わらず突拍子もなく、言ってることすら頭がいいんだか悪いんだかよく分からない。
「あっそ」
日が落ちるよりも早く、心が暗くなりそうだった。リンゴの会話はとりとめがなく流しやすいけど、身を任せていると億劫になる。
「それと――」
リンゴの口は瑞々しく回る。私は乾いた足で前へ進もうと、目の粗くなったアスファルトに重心をかけて。
「柚はきっと、学校にも行ける」
橋の下にある暗がりへ差しかかった所で、私の足はもう一度止まった。
短い付き合いでも、本気との区別はつく。リンゴが励ましも同情も飛ばして、根拠のない展望を話していることも。
血液が凍える吐き気に身をよじり、それに反発する暖かい空気を助骨に感じた。リンゴの影法師が無言で見上げて、瞳のない顔が私に問いかける。
「うるさいなぁ……めんどくさいんだよ」
短い息を歯の隙間から絞り出し、縫い止める影を私は置き去りにした。高架下の空洞も期待に応えて大きく反響し、虫取り網を持った少年が怪訝そうに横を通り過ぎる。舌打ちをしなかったのは、私が卑怯者だから。
代わりに腕を振ってしがらみと後悔を誤魔化しつつ、散歩道を抜ける。いつの間にかスーパーマーケットの目の前にまで来ていたのだ。数回しか訪れなかったので、想像よりも近い位置に現れていた。それでもリンゴのせいで相当のタイムロスはしただろうが。
「あれがスーパーマーケット、通称スーパーだね! 人が誘蛾灯に群がる虫みたいだよ!」
リンゴが偏った知識と比喩を出しつつも、変わらぬ調子で横に並ぶ。先の台詞で拒絶したはずなのに、店名の蛍光パネルを眺めている様子は普段通りだった。
「そこに立っていると車、通称カーに轢き殺されるよ。スーパーは店内、通称オートドアを抜けるまでは危険だらけ」
「通称の使い方ってそれで合ってるんだっけ? ――って危な! カーが突進してきた!」
道路のド真ん中で突っ立っていたリンゴは、買い物帰りの車にクラクションを鳴らされ、慌てて歩道まで避難した。
「ね、言った通り」
「あんな鉄の塊を勝手に走らせて、ぶつかりそうになったら怒るなんて、ここら辺の人はとんでもないね……!」
懲りたかと思いきや、またどこかズレたことを言っているリンゴ。
それでも車が危ないものであると理解したのか、そそくさと自動ドアの方へ私を引っ張っていく。
振りほどくのも面倒だったので、私は消化しきれない想いを抱えたまま店内へと吸い込まれる。
聞き馴染みのない店内BGMに歓迎されて、久々の買い物はあっさりと始まった。
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