第9話

「ぺぽぺぽぺー、ぺぽぺぽぺー、ぺぽぺぽぺっぽぺっぽぱぽ」


 リンゴが下手くそな鼻歌で音楽の真似をして、商品棚を興味深そうに眺める。しかし外に出た時よりも落ち着いていて、楽しそうではなかった。

 臓器を持っていない彼女は、食べ物に価値を見出せないのかもしれない。


「ねーね、ここにはマカロン売ってないの?」


 ……私もいい年だ。いつまでもネチネチと過去にこだわるつもりはない。


「売ってるわけないでしょ。材料ならあるかもしれないけど」


 そう言いつつも不機嫌さを隠しきれなかった私は、やっぱりまだ子供だ。

 リンゴは下唇に親指を当てて考え込んでいるので、内心を悟られてはいないだろう。


「材料って……どれを使ったらマカロンができるの?」

「さぁ、私もよく知らないけど――たぶん強力粉と薄力粉、ドライイーストを混ぜたら生地になるんじゃない?」


 それどころか詳しく訪ねてくる始末なので、当然のように嘘をつく。

 正直に教えてやってもいいのだけど、天邪鬼な精神に邪魔されてしまった。二種を混ぜれば生地らしくも粘っこい、パン生地が誕生するだろう。当たらずとも遠からずなのが意地汚い。


「ふぅん、分かった! ありがとね」


 当然の如く、無垢なリンゴは私の言葉を鵜呑みにする。

 内容はさておき、気移りの激しいリンゴが話題を固定するのも怪しいところ。


「そんなにマカロンに拘りでも……まさかまた悪戯しようとしてる?」

「いや、そうじゃないんだけどね、うん……あっちの方に行ったらあるかな」


 一応理由でも聞いておくかと尋ねると、随分とつれない返事だった。悩んでいるらしいリンゴはぶつぶつ呟いて、イースト類売り場へ向かおうとしている。

 悪さを企んでいるなら大根演技で誤魔化そうとするだろうし――。

 まあ、そもそも他人の考えすら分からない私が、ぬいぐるみの感性を理解するなんて不可能だろうけど。

 私は大人しくしているなら構わないと結論づけて、買い物を始めることにした。別の売り場へと行くのに監視をつけないのは不安だけど、流石のリンゴも突然綿をぶっ放しはしない――はずだ。

 店内の壁掛け時計を見ると、もう四時を過ぎている。ポテトサラダはジャガイモを茹でるのに時間がかかるので、五時までには帰りたいところだ。

 まずは目の前にある安売りのキュウリを選別する。

 その時。


「あははははは! マジあり得ないんだけどー!」


 自分が世界の中心にいるような大声で、そいつは現れた。


「現国の田中、あいつって絶対童貞だよね。『私語をする人間は、知能が低いと宣言しているようなものです』って! うぜー」


 相変らず校則のギリギリを攻めているのか、踵の高いローファーをかつかつと鳴らして、野菜売り場へと入って来る。

 何でここに。そうか今日は平日だから。買い食いしたいなら、総菜売り場は逆でしょ。

 締まらない思考が蛇口の如くだばだばと零れて、冷や汗が脇の下を伝う。膝から先の足の感覚が薄れて、キュウリへと倒れてしまいそうだった。


「はっ、はっ、はっ」


 貧血と過呼吸を併発したのか、視界がぐぐぐと狭くなる。

 お願いだから気づかないでと、私は信じてもいない神に祈った。


「お。お。お。あれれ、そこにいるのはもしかして~?」


 もしかしたら、最初から感づいていたのかもしれない。

 私が世界で一番嫌いな女――舞浜久留里は後ろを向いていたはずの私に迷わず近づき、そして野生動物を彷彿とさせる半月目でこちらを見上げた。


「やっぱりユズっちじゃん! こんな所で会うなんて奇遇~!」

 猫なで声なのに、目が笑っていなかった。俯いて逃げようとしたって、こんなに近づかれたら嫌でも目に入る。


「こ、こ、こんにちは……」

 

 か細い声で挨拶すると、久留里の目がスッと細くなる。

 この表情を、私は知っている。


「やだー、つれない挨拶。折角久しぶりに会えたんだからさ、もっと沢山話そ? まだろっこしいのは苦手だから、とりま本題から入るけど――」


 沢山話したい人間が本題から言うなんて、矛盾しているとは思わないのか。

 反駁したい衝動は、横から漂うキツイ香水の香りにかき消された。ピンク色のツインテールや真珠貝のピアスが照明に反射して、記憶と共に網膜を焼く。


「学校来なくなったの、あたしは別に悪くないよね?」

 

 捕食者の顔になった久留里は、異常なまでに肯定を強制する声で問いかけた。

 心当たりのない人間がこんな質問をするはずがなく、もちろん私は久留里のせいで学校に行けなくなったと考えている。

 きっかけは私が久留里の彼氏だとは知らずに、ある男の子に告白したこと。それが面白くないから私をクラスの輪から省いて、虐げるようになったのだろう。好きだと思っていた人にクラスラインで晒し上げられたあたりまでは、人の彼氏を無自覚でも寝取ろうとした罰だと思っていたのだけど――。


「――う、うん」

 

 潮が引くように私の周りから人がいなくなって、筆記用具も教科書もぐちゃぐちゃになって、そんな日に限って苦手な教科で刺されまくって、誰も教えてくれなくて、お弁当を買うための小銭が財布から消えていたりして――どんどん不幸になった。


「そっか! やっぱりそうだよね! いやー、あたしが原因だったらどうしようかと、ずっと心配だったんだよねー」


 「じゃあさ」と、久留里は肘の関節をゆっくり曲げて、私の首に歪な輪っかを作った。

 そのままぎゅーっと締め上げると、もちろん息が苦しくなる。


「いィ……」

「不登校になるのはまずいっしょ。疑われ始めちゃったじゃん。貴重な放課後がカウンセリング室の取り調べで減る気分、分かる?」


 自分の幸せしか勘定に入っていない久留里は、私の苦痛をないものとして扱う。


「全部全部ぜーんぶ、ユズっちが学校に来てくれたら解決するんだけどなー。クラスの皆はもう意地悪しないように躾けてあるから、安心して来れると思うんだけどナー」


 あたしは優しいでしょ、とでも言いたげに。

 優しいはずはないのに、ニタニタ笑っている取り巻きの顔や久留里の猫なで声を聞いていると、謝って逃げたくなる。

 すぐにでも、解放されたくなる。


「――――なに、してるの?」


 袋がひしゃげた音と、耳朶を震わす心地のよい声。

 現れたのは、売り場から帰って来たリンゴだった。酸欠故の錯覚か、目がぞくりとするくらいに据わっている。


「柚のお友達じゃあ……ないよね?」


 持っていた売り物のグラニュー糖は、ぐしゃぐしゃの状態で床に落ちた。リンゴは履き慣れていないスニーカーの底を鳴らして、私たちの元へと近づく。


「え、何々? ユズっちの妹? こんなちんちくりんがいるなら早く教えてよ~!」

 

 久留里が私とリンゴを交互に見て、感情と声を乖離させた。顔は笑顔で、声は突き刺すように。

 スーパーマーケットの来店者たちは異質な雰囲気を感じ取ったのか、キュウリ売り場を避けて動いている。妙な騒めきを察知した店員や、責任者らしき人間も現れていたが、遠目でトランシーバーや携帯をいじるだけで、接触する気配はなかった。

 目線だけが、集中して。


「……ねぇ、どうして酷いことするの?」

「ちょっと待って、喋り方すらユズっちの何倍も可愛いんですけど! こんな子も数年後には巨乳淫売女になるのかと思うと、遺伝子って残酷だねぇ!」


 巨乳淫売女とは、もしかしなくても私のことか。

 化けの皮が剥がれ始めた久留里は、リンゴの問いに答えないまま甲高い嬌声を上げた。口紅の端が罅割れていて、不気味な憎悪が伝わる。

 同時にだんだんと声量が増して、立ち止まる人も増えてきた。

 野次馬だけで誰も仲裁しようとしないのは、どうしようもない日本人の性。


「ちょい久留里、人集まってきてヤバいから、ここらで一旦仕切り直した方がよくない?」


 しかし取り巻きの一人はそれをよしとせず、久留里の耳元へひそひそ囁く。久留里は眉を顰めて目線を周囲に走らせ、ようやく状況に気づいたようだった。眉間に一瞬だけ皺を寄せると、出入り口の方へ目線を走らせる。いじめっことは総じて賢いもので、自分が悪者になりそうな場面では撤退を選ぶものだ。


「……そだね。先公にチクられても嫌だし――ユズっちは、そんなことしないもんね?」


 久留里は冷笑をたたえて、スーパーの入口を向く。この店は客の循環を意識していないのか、入口と出口が兼用だった。

 と、そんなことはどうでもいい。

 問題は私が助かるかどうかだ。

 もうこんな風に、世間の晒しものになるのはこりごりだった。疲れ果て、諦観に満たされた私は、恭順の意を頷きで示す。

 学校に言いつけたりなんかしませんよ。だって、後が怖いもの。


「ならよし。じゃあ家でグズグズしてないで、さっさと学校来てよ?」

 

 あたしの為に。

 そう言い残して、久留里は早足に店外へと去っていく。私は霞がかった視界でそれを見送り、泥のような後悔とやり過した虚しい安堵に身を任せる――。


「ボクの話はまだ終わってないのに、どこ行くの?」

 

 はずだった。

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