第33話

 命を絞り出している感触を味わったことはあるか。

 そう聞かれた暁には、迷わず今だと答えよう。

 地表に浮き出た根に幾度となく足を取られ、こまめに洗っていたスニーカーに泥が跳ねる。

 足裏に伝わる地響きが鋭くなっているあたり、靴底もかつてない速度ですり減っている。

 姿勢を整える余裕もない私は、頭を揺すりながら気力だけで走っていた。


「ぜー、こひゅー、ぜー、ぁぁぁー」


 前を行く久留里と旭は、一定の速度で林の隙間を進んでいる。勝手知ったる足取りは明らかに余裕を残していたが、速度を上げるつもりはなさそうだ。それどころか、後ろを振り向いて歩幅を合わせる接待つき。

 怒ってしかるべき場面でも、酸素の足りない脳みそではまとまった思考ができない。私は千葉県で、うさぎと亀のラストシーンを再現していた。

 違うのは、亀が絶対にうさぎに追いつけないところ。


 ――それでいい。


 極限まで削ぎ落された脳は、ひたすら己を肯定する。挑発に乗らないで、ペースを保てるのは私にとってこの上なく有利。逃げに向かって演じるのではなく、戦いに向かって欺くのだ。


「ほらほら、引きこもり柚ちゃん大丈夫でちゅか~? お家でママのおっぱいでもしゃぶって休みたいんじゃないんでちゅか~?」


 久留里の挑発に返す余裕もない。ただ次第に明るくなっていく樹林の木漏れ日が、道しるべのように地面を照らしている。汗で滲む視界でその情報だけを捉えて蹴り出せば、大抵は続きの道が見える。僅か数メートル先に揺れている私の太陽を追いかけて、更に進んだ。

 落ち葉のクッションがゆっくりと――ではなく、一瞬で切り替わる。常に俯いていた私には、丸みを帯びた石の数々が礫だと分かった。落ち葉は焦げ茶の朽ちた数枚が石の間に眠っているだけとなり、代わりに微細な砂粒が剝き出しの皮膚を撫でる。母方の実家でよく遊んでいた田舎の環境に郷愁を覚える暇もなく、前方から砂利の擦れる音がして。


「あらあら~。柚ちゃんはおっぱいよりも、絶望の方がお好みでちゅか~?」


 久留里か立ち止まった先には、城壁と間違えそうな巨大な円柱がそびえていた。

 上空――そう呼んでも差し支えないほど高い――の先端に近づくにつれて直径は短くなっているのだろうが、いかんせん底の面積が広い。円錐にしては空洞が広く、三角フラスコと表現した方が適切かもしれないそれは、上部の空洞から絶え間なく煙を吐き出している。


「……メイクも落ちるし、汗臭くなるし――ホント、熱くて嫌になっちゃう」


 小石を蹴り飛ばし、脇に退いた久留里。ゆらゆらと立ち昇っていた陽炎が幻覚ではなく本物であると、黒煙の香りが鮮烈に訴えた。大釜の下には大量の木がくべられているのか、赤い火花が時折はじけて宙を舞う。


「柚の泣き叫ぶ顔を見ながらじゃないと、やってらんないわぁ」


 私を挑発しても面白い反応が返ってこないので、久留里は興が冷めたらしい。他人の感情を察するのが下手くそと言うか――これまで自分が女王様で、会話の中心にいたせいで機会を伺うのが苦手なのだ。

 私からすれば、『魂物』が燃やされているのを見ながら普通の会話をする方が考えられない。

 中に入っているのは大型の家具だ。机、椅子、本棚、洗濯機、冷蔵庫――もはや原型を留めていない黒炭は、根元から徐々に崩れていく。陰で目立たないものの、煙突からは灰の欠片がはらはらと舞っていた。

 半人半物の中身が熱に耐えられず朽ちる。


「こんなのおかしいよ――やってること人殺しと変わんないって!」

「は? なに言ってんの? 『魂物』はただのモノだよ? 人が作った道具が勝手に動いて話すのを、処分してるだけじゃんか」


『魂物』の顔が苦渋に歪んでいても!?

 久留里の発言に耐え難い吐き気を覚えた私は、唇を強く噛んで逆流しかけた胃酸を飲み込む。

 大口を開けた窯にいる『魂物』は上半身が人間の形を保ち、下半身は溶解したモノの姿。見開かれた瞳孔と、今まさに燃えている褐色の歯と、その奥にある喉。気道にまで伸びている焔が、喉奥の提灯にまで移って一際強い業火を放ち。

 火の手が弱まった刹那、『魂物』の右目は無残にも灰となって地面に落ちた。

 窯から唯一逃げ延びた眼球は、ほとんど原型を保っていない。しかし、鉄の部品で作られたらしい水晶体が残っており――確かに私と焦点が合った。

 射貫いた視線に身を固めていると、洞の中に鋼鉄の風が吹き抜けたような、甲高い絶叫が大気をつんざく。

 肺腑まで焦がされた『魂物』の気道に生まれた上昇気流が音を発し、泣いている。


「あんたの『魂物』もすぐにこうなるから、楽しみにしててよね」


 鉄の目玉が久留里の足で潰れる。綻びていた外側から眼球にいたる中心まで、なんの躊躇いもなく粉々にされた。小学生の頃に校外学習で訪れた工場の、化学製品を処分する際に立ち昇る臭気が鼻孔をくすぐる。


 ――やめてよ。


 原型を失った灰が空に舞うが速いか、私はリンゴの元へと駆け出していた。

 追いすがって機会を伺うとか、そんな方策を立てている暇はない。久留里は卑劣な内容であるほど有言実行の女になるから、待っている間にリンゴが処分されてしまう。燃え盛る大釜にリンゴが放られ、あの家具と同じ運命を辿るのだと考えると、足の鈍痛すらも気にならなかった。礫に幾度となく足を取られながらも、全速力で飛び掛かろうとする。


「旭」

「うん、分かってる」


 旭が私たちの直線上に割り込み、両腕を大きく広げた。余裕があるように見えるのは、私の走る速度が意識しているよりも遅いからだろう。方向を変える余裕もなく彼我の距離は近づいて、当然の如く掴み合いになった。

 男女の差がいよいよ明確になる高校生。力比べにおいて、旭に勝てる道理などない。抱きしめるような形で止められただけで、一歩たりとも前に進めなくなる。


「触んないでよっ! 早くしないとリンゴが――!」

「柚の気持ちも分かるんだけどね。僕も久留里に頼まれたら断るわけにはいかないんだ」


 上辺だけの言葉とは裏腹に、旭の抱擁は内臓が曲がりそうなほど強い。隆起していないのに巌の如く動かない前腕は、ある種の不安定さを伴っている。形を変えずに力の調整が出来る体と、人間であれば感じるはずの体温が、私が保健室で見た光景が幻でないことを裏づける。


「あたしとしても、そうやって最後まで藻掻いてくれると燃やしがいがあるわぁ。柚ってマジで面白い。玩具ならこうして欲しいなーって思うことを、全部やってくれるんだもん」


 リンゴの頭を乱雑に掴んでいる久留里が、唇を薄くひん曲げる。ポニーテイルの根元を持ち上げて大釜に近づけると、リンゴの毛先が僅かに燃えた。

 幸いにも炎上には至らず、三センチくらいまで広がってから白煙に変わったけれど、チリチリとした音が傍で鳴り続けている。項垂れたリンゴは、まだ目を覚まさないまま。


「はーい、燃やしちゃうよー! カウントダウン――じゅう、きゅう……」

「起きてよリンゴ! ねぇってば!!」


 おかしい。普段なら呼びかけた瞬間に飛び起きて反応してくれるのに、苦しげに目を瞑ったまま固まっている。餌をぶらつかせるような仕草で久留里が左右に振っても、手足と重心が一緒に揺れるだけだ。慣性に従っているだけの挙動はぬいぐるみと同じで、生気を感じない。


「はーち、なな……ふふっ、ここまで繋がりが早く切れる『魂物』初めて見たかも! 柚ちゃんに酷いことでも言われたのかな~?」


 繋がり? 繋がりってなんだろう。

 私は初めて聞く単語に戸惑いながらも、迫る終焉に混乱させられていった。

 やはり今がモノの死ぬ「その時」なのか? 私はこうして振られた、人でもない『魂物』の腕に抱かれながらようやく見つけたかもしれない宝物を失うのか?


「ろーく、ごーお、よん……アハハ! いい顔! そういう捨てられる直前の子犬みたいな顔、あたし大好き!」


 掬わなければならない。

 こんがらがって織り込まれ、沈んでいく自意識の中心で、私の魂がそう叫ぶ。これまで零してきた成果の数々をここで覆し、私は私を肯定しなければならない。

 これまでの間違いは全てこの瞬間に集約される。家族との仲を取り持てなかったことを、引っ越しを免罪符にして人から目を背けたことを、一人の世界に引き籠って外界を諦めていたことを――なにより、諦めることに慣れてしまった自分を。

 救わなければならない。


「さーん――」

「リンゴー! 最初にあんたが『メタモルフォーゼ』した時、冷たくあしらってごめんなさい!!」


 いきなり叫んだ私に、久留里と旭がギョッとした顔をする。近くの枝に止まっていた鳥が飛び立つほどの大音声に、カウントダウンも止まった。旭は危険因子を潰すためか口を抑えようとしてくるが、顔を捻れば避けられる。体は止められても、音を止めるのは難しいようだった。

 構わず、重ねて。


「びっくりしたけど、話す相手ができて本当は嬉しかったの! 私のめんどくさい愚痴を嫌な顔せず聞いてくれるし、離れずに寄り添ってくれて! 感謝してもしきれないくらい!」


 私にとっての正解とは――自分に正直であることだ。結果がどうだったとかではなくて、心の赴くままに動いた結果を正解と呼びたい。


「!? 早くリンゴを焼却炉に!」

「ちっ! んなこと、お前に言われるでもなく分かってるわ!」


 旭がなにやら焦燥した様子で叫び、久留里も無駄口を叩かずに両腕を振り被る。


「最後の最後まで手間かけさやがって――ゴミは人様の迷惑にならないで、大人しく自然の中に還っとけ!」


 久留里が両腕を振りかぶった先は、紛れもなく大釜の奥。煌々ととぐろを巻く火の粉は、平等にリンゴの体を包んだ。綿の引火点である二百十度をゆうに超えている獄炎が、端々を待たずに芯まで着火する。

 間に合わなかった。


 ――――なんて、考えている思考の暇すらもない!


 旭の阻害をねじり飛ばして、私はもっと正直に、素直に伝える。自分が欲しくて、なのに受け入れるのは苦手で、でも焦がれて止まなかったもの。


「私ね、ずーーっと、ずーーっと寂しかったの! 今更遅いかもしれないけど、ねぇリンゴ――私と、友達になってくれないかな!?」

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