第17話

「あのさぁ……!」


 顔を顰めつつ、ありったけの力で首を上げる。

 カイは首と左腕を押さえているので、脊椎の僅かな可動域しか自由は効かない。

 しかし、余裕を持って話せるだけの気道が確保できればそれで十分だった。


「反省しろって言われても、その方法が分かんなけりゃ世話ないよね……!」

「――なんですって?」


 隣駅から到着した電車が、線路を減速しながら几帳面に停車する。

 ブレーキの音と、聞こえるはずのないドアの開閉音が耳朶を震わす。

 当たり前のように乗車して当たり前のようにそれぞれの目的地へ向かう人がいる一方で、常識のレールから脱線しそうな私がいる。


「こんな風になったのは、母さんと、久留里と、名前も知らない『魂物』と、お前のせいなんだから――ちゃんと責任取ってよ……!」


 自分の堕落した原因を他人に押しつけるな。

 そういう真っ当な正論は、歩道でスマートフォンを操作して電車に乗れる常識人にだけ通用する。路傍の女子高生を説得したいなら、もう少し捻くれた理屈が必要だ。

 私の反駁に目を白黒させているカイを尻目に、決定的な一言を喉へと溜める。乾燥した空気が喉を犯して、風邪を引きそうな心地だった。


「ちゃんと助けてよ――――リンゴ!!」


 唇についた砂利を弾き飛ばすように、私は肺の空気をまとめて放出した。


「そう言うのを待ってたよ――――柚!!」

「なっ――!?」


 リンゴは少女が隠れていた草垣の更に奥から身を乗り出して、絶叫に呼応するように喜び勇む。

 なにを隠そう、彼女は『回収屋』が現れる直前に私がむんずと掴み投げて、フェンス向こうへと飛ばしておいたのだ。意思疎通を図る時間もなく中空のアイコンタクトで語りかけたので、ギリギまで息を潜めてくれたのは奇跡としか思えない。

 典型的な失敗例としては、私がカイに組み伏せられた瞬間、リンゴの堪忍袋の緒が切れて突撃するという形。

 しかし実際には茂みを揺らしたのみで、限界の限界まで堪えてくれた。


「さあさあ、ボクの大切な相棒に手を出したからには、覚悟の一つや二つバッチリできてるんだろうねぇ!」

「一体どこから現れて――いや、気配を二重にぼかしたのか……? 考えなしの能無し思春期かと思っていましたが、当てが外れたようですね……」


 もし奇跡ではなく必然だとしたら、リンゴは自分でも理解しきれていない私の感情を、私以上に把握していることになる。

 意気揚々と『回収屋』の前で指さし決めポーズをした後に、失礼な思索に耽っているカイに無視されている――そんな少女に情緒で劣っているとは認めたくなかった。

 私が少女の真似をして「助けて」と言えたことを。

 母の前で飲み込んだ台詞をリンゴには伝えられたことを。

 この未来を見透かされていたのなら、私の顔は怒りで赤くなって、その後に襲いかかる別の感情でむず痒くなるのだろう。


 ――――ぎゃりぎゃりぎゃり!


 ふと。

 坂沿いの道から、コンクリートとの擦過音を響かせる一台の車がやって来た。

 黒いバンは車体の横に社名と電話番号が記載されており、浩二の呼んだ護送車だと察するには十分だ。


「さっさと乗りやがれ! クソッ、俺だって娘がいる身で誘拐の真似事なんざしたくねぇのによ……!」

「……やだ、助けてっ!」


 車の停車音と同時に少女の悲鳴が聞こえ、はっとして視線を向ける。

 思索に耽るあまりに膜が張っていた風景が戻り。

 そこには想定外の事態に悪態をつく浩二と、噛みつかんばかりの勢いで暴れている少女の姿があった。

 開け放たれたバンの後部座先に少女が押し込まれようとしている現状は、私を瞬く間に現実へと引き戻す。


「リンゴッ、早くしないと時間が!」


 扉の前でもがいている少女の顔が初めて苦痛に歪み、私は本能のままに声を上げていた。

 「時間が」――この言葉は電車に向けて? 学校に遅刻しそうな焦燥から?

 否。私は既に決断を終えている。こんな遠回りな経路を辿らなくとも解を導いている。

 だからもう考えないで、今は自分の背中を押してあげるのだ。

 私の選んだ正解はきっと――。


「任せて」


 リンゴが叶えてくれるから。


「ボクは柚の、友達だもんね!」


 その宣言を皮切りに、下りたチャックから凄まじい密度の綿が放たれた。

 腕などの形を作る上品な出し方ではなく、洪水の如き迫力で視界を埋め尽くす。

 天蓋から始まり、草垣やフェンスの色彩までもが白に塗り替わっていく。唯一の白である床すらも気づけば同化し、柔らかい感触に支配される。


「な、んだっ、これ――」

「おや――」


 皮膚が綿になるような触覚の中、浩二とカイの驚声を最後に聴覚すらも閉じていく。

 綿の繊維が眼球を掠めたのをきっかけに目を瞑れば、五感の全てが曖昧に溶けそうだった。

 呼吸が難しくとも、不思議と苦痛ではない。

 母に抱かれる赤子のような、布団でまどろむ深夜のような、心地のよい香り。

 ふわふわと漂う空間の中では、地上の重圧も掠め取られてしまう。


「お待たせ。ふふっ、今度はきちんと助けられたや」

「――ん」


 どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。

 突如として瞼を貫いた陽光に薄目を開くと、私はリンゴの腕に抱かれていた。身長的にも元の体では厳しいので、綿の腕を使っての抱擁。

 優しく微笑んだリンゴにあるはずのない慈愛を感じ、照れ臭さを誤魔化すために微睡んでいる振りをする。

 それを看破して追加の笑顔を照射してくる辺りが憎々しくて――憎めない。


「……リンゴ、すごい」


 逸らした視線の先にはもう一本の腕があり、そこに巫女服の少女がすっぽりと収まっていた。

 崩れていた顔は元の平坦さを取り戻しており、むしろ目の前の絶景に調子が上がっているようですらある。


「こん畜生め……! ゴホッ、ゲェェ……」

「これは……参りましたね……」


 それもそのはず、彼女に恐怖の限りを与えようとしていた『回収屋』の面々は、リンゴによって制圧されていたのだ。

 フェンス上から見下ろしても、二足で立っている者はいないほど。

 浩二は呼気を封じられたのか喉を押さえて咽び、バンの運転手も同様にハンドルへもたれかかっている。特に前者はこっぴどく絞られたのか、地面に向かってしきりに痰を吐いていた。

 カイの方は涼しい顔をしているものの、草垣に突っ込んだ姿勢から抜け出せないでいる。セットしていた髪に枝葉が絡みついて、公道を歩けない仕上がりになっていた。

 これを言うと私の性格の悪さが露呈しそうだけど、とにかく痛快だった。


「うわぁ、ちょっとやりすぎたかな……どうしよ」


 ここまでの威力を発揮するとは張本人すらも想定していなかったようで、リンゴは人差し指の腹を合わせて戸惑っている。

 こっちを向いて判断を仰いでいるけれど、私だって殆ど衝動のまま叫んでしまったのだ。惨事を帳消しにする策があるはずもない。

 未来のことは未来の自分がなんとかする――この言葉は、成長していく人間にのみ有効だと思った。


「どうしたもこうしたも、こうなったら選択肢は一つ――」


 自分の成長なんて、知覚する頃には成長どころか飛躍になっているものだ。私が羽ばたく前の蛹なら、ここ数日で進化していようとも、浮かぶ択はそうそう変わらない。

 リップクリームを塗り忘れた唇を薄く舐めて、動きあぐねているリンゴに指示を出す。


「――逃げるしかない!」

 

 リンゴはいじっていた指を東京タワーのような形にしてしばし硬直したものの、駅のホームから聞こえた電車の発射音で我に返った。

 口を開いていずとも表情が「それでいいの?」と雄弁に語っており、私を焚きつけた癖してどういう了見なんだと問い詰めたくなる。

 が、我慢。

 熱に浮かされた感情が、もう片方の台詞を用意してくれている。そちらの方がこの状況に合っていて、私とリンゴを縛る鎖を解いてくれそうだった。

 言葉にして反芻して――自分の背中をまた叩く。


「殻に籠るより、空を飛びたい気分だからさ」

 

 言葉にした瞬間、賽の砕ける音がした。

 もちろん幻聴だ。私の脳が作り上げた、常識という名のアラームが警鐘を鳴らしているだけだ。けれど、それは覚悟を決めた音でもあって、私を深く理解するモノへと真っ先に響く。

 

 リンゴは麻呂眉をくしゃっと歪めて目を細めてから、頬が裂けそうなくらい笑った。

 膝を折り曲げて溜めを作る姿勢に迷いはなく、困惑している少女ともども一息で隣家へと飛び移り。


「おじさんたちー! 酷いことしてごめんねー! 今度会ったらきちんと謝るからー!」


 高くなった視点から一方的にそう告げた。


「勝手なこと、言いやがって……! カイ、お前本当は動けるんだろ……急いであのガキ共を追え……!」

「そうしたいのは山々なんですが、腰が嵌って出られないんですよ。残念です」


 吹っ切れたリンゴの高らかな声に、息も絶え絶えの浩二が反応する。

 酸欠でふらふらの肉体を酷使して檄を飛ばすものの、カイにすげなく断られており、敵ながら同情を誘う情けなさだ。

 浩二は柳眉を吊り上げ二の句を継ごうと口を開いたが、痰が絡まって失敗している。

 俯瞰して見ると、カイの体は草垣に嵌っているというより乗っているようだ。

 上体を起こせば容易に脱出できそうなのに、迷いもせず泰然と切り捨てるとは。


「――行こうか」

「うん!」


 違和感を覚えつつ、私は陽気モードのリンゴに呼びかける。

 数多の疑問をしまいこみ、次の目的地を説明するのだ。電車が去ってしまった今、当初の目的である登校を目指すにはどうすればよいか。

 こんな非日常から当たり前の生活への戻り方を考えているのが可笑しくて、唇が無意識の内に曲がっていた。

 自嘲の私と、喜色満面のリンゴ。そして状況に追いつけていない少女を連れて、奇妙な三匹は屋根を駆ける。

 背後の眼下から感じる、凍てつくような視線に気づかないふりをして、私たちは大きな間違いを犯した。

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