第31話
リンゴの体が正面から横、背中へと移っていくのを追いながら、自分の中にもこんな情熱が眠っていたのかと驚く。押しつぶされそうな心臓が逃げるなと発破をかけ、拍動の間隔が狭くなる。四分音符から八分音符、ハイストロークの十六ビート。
警察に捕まるのなんか今更怖くない。ただ、自分にだけは負けられない。
断裂しそうな靭帯を伸ばし、軋む関節には血液を流し込む。踵が浮くのと同時に張った大腿四頭筋が非難の声を上げるように痙攣したが、そっと手を添えて宥めた。好機を伺うために、旭に振られてから短くした前髪で顔を隠す。
二人の足首が完全に逆になる。林の奥――恐らくはリンゴを処分するための焼却場へと向かっている。
無警戒になったことよりも、リンゴが燃やされるのを想像して体が動いた。
「リンゴを返せッ!」
本当に叫んだのか、真偽のほどは定かではない。息を殺すのに注力していたので無言だったかもしれない。迸る激情をそのままに吠えていたかもしれない。地面と靴底の摩擦に耐えきれなくなった落ち葉の数枚が、はらりと舞って風に乗る。
彼我の距離は概算にして三十メートル。五十メートル走が九秒台の私には荷が重い隔たりがある。引きこもり人生の中で、初めて運動不足を悔やんでいた。
この後悔がリンゴを救えなかった懺悔に繋がらないよう、肺に酸素を取り込んで駆ける。過去の自分を叱るよりも、未来の自分を嘆くよりも、今、今だけが足元にある。狭くなる視界の中には傾きかけた西日とリンゴの背だけが映っていた。私は太陽を追いかけて。
「単純なガキで助かるぜ!」
光に影が差す。
慣れたくもないのに覚えてしまった声が背後からそびえ立ち、男の体が私の光明を隠す。
頭と眼球だけで確認すると、浩二が両手を振り上げて掴みかからんとしていた。悪役がお姫様を誘拐するような状況で――私はテレビ番組でこんな絵面を見る度にまたテンプレートかよ、と馬鹿にしていたのだけれど、体験してみると逃げられないと痛感するだけの迫力がある。予め追いかけるための準備をしていたのか、久留里に飛びつくまでの時間を稼げそうにない。
「さーて、この映像を記録して警察に出してやりゃ説明する手間も省けるってもんだ! 実は俺もな、警察とあまり話したくねぇんだ! お堅い仕事を装っておきながら、手前らに都合のいい解釈ばかり取り上げやがるからなぁ!」
前傾姿勢のまま体を切り替えようとするも、凝り固まった足首は思うような方向に曲がらない。むしろ右か左に傾けようとするだけで捻挫してしまいそうだ。浩二の伸ばした手は空を切ったが、肩口の髪を掠めている。
加速していく意思とは裏腹に鈍重な足はどこまでも減速して、楔でも打たれたように推進力が損なわれていく。上がる息と血の味がする肺、きしむ関節が私の意思を覆そうとしている。
「捕まえた――」
言葉に合わせて肩のあたりに無骨な手が触れた。ろくにハンドケアもしていない荒れた表皮がうなじを撫で、肌が粟立つ。やめろ、私を止めるな。ここで折れてたまるか。
負けてたまるか――。
「ッ!? どういうつもりだ手前ェ!」
意思が通じたのか、浩二の腕が宙に浮く。私はその隙に乗じて拘束を振り切り、己の身体に喝を入れた。下がりかけた両腕を不格好ながらも振り上げて、ようやく後ろを振り向いた久留里たちに追いすがる。
「聞かれたところで、こうするつもりですとしか言いようがありませんね。行動の後に質問をするのは無能の証ですよ」
「裏切ったのかァ! 今までの恩を忘れやがって!」
膜の張った耳では細かな音まで聞き分けられないけれど、確かにカイの声だった。彼が私を助けてくれたのか。振り向きたいのは山々でも、「後ろ」という要素が含まれた動きは私から活力を奪い去っていきそうだった。
故に、呼吸の間隙を縫って唾を飲み込み、耳の膜を取り去ることにのみ集中する。喉は開きっぱなしで唾も溜まっていたのに、嚥下するまで時間がかかった。
「あなたに恩などない! 飼い殺した家畜が主に礼を言うと思うなよ!」
冷静な姿からは考えられない罵声と、拳がぶつかり合う音がする。片方からは金属を叩く重低音が響き、そちらがカイなのだと思えた。
理由を聞きたくて堪らなかったけれど、振り向くなと衝動に蓋をする。彼の封じていた情熱の一端が聞こえていたし、わざわざ問うのは野暮でしかない。お礼と言うにはズレているが、前を向くのが私にできる誠意の示し方だ。
「久留里! ボサっとしてないでリンゴを焼却場まで運べェ! ここで躓いたら俺たちの築いてきた信用がお釈迦だ! 頼む!」
地面に倒れた振動が足元に響き、遅れて浩二の罵声が飛んでくる。嗄れた声は煙草が原因なのか焦っているのか定かではないものの、焦燥に追われているのは間違いない。
「とっとと捕まえに行けよぉ! お前は班の飾りじゃないんだぞ!」
「すいません、でもこっちも手が離せなくて――なんでいきなり捕獲対象の『魂物』が――」
後ろから馴染みのある気配がして、思わず振り向きそうになる。落ち葉を慎重に踏みつつも、足首で葉擦れを楽しむ変わった歩調。
本人は頑なに否定していたけれど、自然の音が好きな彼女。
私のモノを見る目が確かなら、ここで声をかけようものなら間違いなく怒る女の子。
「……ここは、わたしが相手」
遥か後方、しかし自分とよく似た波長を持つゴエモンの声音は、私の耳朶を強かに震わせた。
一気に頬が熱くなり、盛る業火は血液のポンプたる心臓に流れ込む。気を散らしている己に更なる喝を入れる。私は永遠に独りだと思っていた、その独りよがりが恥ずかしかった。
私は繋がっている、少なくとも、私が思っている以上の誰かと。
想像の中のゴエモンは、恐怖に震えながらも両の足で立っている。どれだけ鳥肌が立とうとも、竦みあがって逃げ出したくとも、確たる意思で戦いの場に赴いている。
ゴエモンは部外者だった。その気になれば無関係でいられたのに、首を突っ込んでくれた。
「あああああああああああああああ!!」
喉の奥から、言葉にならない絶叫が迸る。酸素の無駄遣いだと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
浩二の命令通りに林の奥へと駆け込む二人を、今度こそ完全に補足する。
息は上がった。
腕は下がった。
肺は震えている。
足は攣りかけだ。
でも、止まらない。
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