第19話
「……はぁ」
心に滴り続ける苦痛があっと言う間に許容量を超えて、口から悩ましげな声が漏れてしまう。
話し相手が居なくなった廊下に、板書の音や生徒の笑い声だけが響く。担任に一報を入れるための、職員室までの道のりが――限りなく遠い。
居心地の悪さを凝縮したような独特の香りが鼻孔をくすぐれば、鞄を持つ手にも自ずと力が入る。五感の全てが学校を拒絶して、同時に疎外されているような気分になる。
「どうした? ため息なんてついて。悩みがあるなら先生が相談に乗るぞ?」
どうにか辿り着き、保健室の鍵を借りようとすると。
余計な気を回した、私の大嫌いな担任教師――東金熱血は、相手の意図を汲み取らない自己満足な問いかけをした。問題の不登校児がようやく体面で現れて、心なしかご満悦そうだ。
登校する以上彼との対話は避けられないのだけど、世間話をする気分にもなれない。
健康的な小麦色の肌に、エアショートの髪型。これだけで私と不仲になれる要素が揃っていた。不幸中の幸いは、リンゴたちがモノに戻る前に出くわさなかったこと。
「でもあれだな。ぬいぐるみを連れてくるなんて、見た目の割に可愛らしい趣味してるんだな」
「あはは……」
私が東金先生を苦手としている理由は、ひとえにそのデリカシーのなさにある。
常人なら表情の曇り具合で不調であると見抜けそうなのに、彼は私の持ちモノに見当違いの反応を返すだけなのだ。というか若干セクハラ気味ですらある。
もういいから、黙って保健室まで同伴して欲しい。そんな思いを胸にしまって、脇に抱えたアザラシのぬいぐるみを強く抱え直す。
「保健室の先生は――いないか。じゃあ蕪木は抱き枕をそこに置いて、私物である旨を紙に書いといてくれ。先生はHRに戻って、親御さんに電話しないといけないから」
「あの、母さんには――」
「ああ、きちんと登校しましたって伝えるから大丈夫だ」
養護教諭がいないのを確認した東金先生は、私に紙と鉛筆を渡してそそくさと立ち去ろうとしていた。
彼にも担任としての責務があるので、こうして手間を取らせてしまったのは申し訳なく思う。
『魂物』を目立たないよう隠すため、保健室に保管したいと考えたのは他でもない私だから。
ちなみにゴエモンは元が五円玉だったらしく、今はリンゴのチャックの中に入っている。
「蕪木も、教育熱心な家族に恵まれてよかったな」
「あ、はい……」
東金先生が母親を褒めると、胸が締めつけられるような疼痛を感じる。
その理由を考えるのも、どうして勘違いしているんだと反感を高めるのも、どちらも同じくらい億劫で。
私は頷いて、かさかさになった唇を噛みながら俯くだけだった。
――――リンゴが隣にいたら気が紛れるのになぁ。
無意識にそう考えた自分に驚いて、鉛筆を持っていた手が止まる。
目線を下にやると、モノとなり無言の無機物になったリンゴが膝に乗っていて、言葉に出したわけではないのに頬が熱くなる。
他人に何かを求めたのは、とても久しぶりのことだった。
自制していた感情がこうも容易く出た事実と、その相手が『魂物』という異常に、どうしようもなくたじろいでしまう。
この気持ちの名前は――。
「――い――おい! 蕪木!」
私が鉛筆を握ったまま口を半開きにしていると、眼前に誰かの掌がちらついた。
大きくて筋肉質なそれに焦点が合えば、頭上にはサングラスで表情の分からない東金先生の顔。
どうやら、また考え込んでしまったらしい。
「はい、なんでしょう」
結論を出す前に邪魔された不快感を隠すため、短い返答で茶を濁す。
私はこれから保健室で一日をやり過す予定なので、家族への連絡が保証された今となっては東金先生に用はない。むしろ早く出て行って欲しいくらいだ。
「なんですかって、釣れない返事だなぁ」
そんな態度が表に出ていたわけではないだろうけど、東金先生は私の淡泊な表情に肩を竦めてみせた。
こういう絶妙な噛み合わなさが、彼への好感度を下げていく。
「連絡事項。今日の一限、クラスレクだから。それ書き終わったら体操服に着替えて教室来いよ」
「…………え、どういうことですか?」
絶妙な噛み合わなさが極限まで至ったのか、東金先生が突然おかしなことを言い始めた。
私が怖くて教室に入れないと知っての発言なのか。いや、恥ずかしくて逃げたんだと勘違いしてるんだっけ。でも、ええ?
数分前に出来なかった行動がいきなり可能になる道理はないので、流石に冗談かと問い直す。
「――蕪木、さっきからぼーっとしてないか? だから、お前が学校に早く馴染めるよう、一限をクラスレクにしたんだ。大変だったんだぞ。先生方に掛け合って時間確保するの」
冗談でもなんでもない恐ろしい現実が、私の前へと迫っていた。
聞いてもいないし求めてもいない自分の功績を自慢する東金先生は、我こそが教師の鑑だと語って憚らない。
さながら不登校の問題児を改心させる救世主ってところか。
ありがた迷惑すぎるだろ。
至って真剣な目の前の人間に、苦手以上の感情――嫌悪を抱いてしまう。
「そ、それ、は、絶対に行かなくちゃ駄目、なんですか?」
急激に顔から血の気が引いていくのを自覚しつつ、震える舌で言葉を紡ぐ。
「ん? お前が主役なんだから当たり前だろ? それに――友達の久留里だって、ずっとお前のこと心配してたんだぞ? 会いたくないのか?」
絶句。
この教師はクラスの担任でありながら、人間関係すらも見誤っているというのか。
相手の声色はただひたすらに、純粋な友情を私と久留里に見出していて、純粋にそれを尋ねているのが明白だった。
なるほど、確かに私の肩にポンと置かれた掌からも、不純の気配は感じられない。
それ故におぞましい。
もはやこの教師と呼ぶのも憚られる人間は、この瞬間に私からの信頼度を地の底まで落とした。
「久留里とは別に友達じゃありません!」
東金の手を払いのけて、叫ぶように吐き捨てる。
彼は衝撃を受けたのか弾かれた掌と私を交互に見ているが、こちらからすれば当然の帰結だ。
肩に残る生暖かい感覚が自身の底冷えた体と相反して、鳥肌が立ちそう。
全身に巡る不快感は拭いようがなく、東金と同じ部屋にいる限りは続くと思われた。
「……友達をそんな風に悪く言ったら駄目だぞ」
「だからあいつとはそんなんじゃないんですって!」
東金は同じ主張を続け、私を苛立たせる。
売られた言葉は値引きされるまで放っておくのが私の主義なのに、そのままの値段で応酬してしまう。
「先生は久留里のことをなにも分かってないです! 知ってます? あいつ本当は酷い完璧主義で、自分に気に食わないことがあるとすぐに怒るんですよ? 私が学校に来れなくなったのも元を辿ればあいつの――」
口角泡を飛ばして衝動のままに訴えていると、醜い自分がだんだんと浮き彫りになってきた。
教師にチクるなんて久留里に最も嫌がられることで、とても情けない所業だ。
でもさ――これは私に許された権利なんだよ。
みんなだって私のいないところで陰口叩いてるんだろ?
「――少し黙れよ」
熱が最高潮に達する直前に、冷え切った一声で蓋をされる。
東金はいつの間にかサングラスを外していて、覗いた目元は大きく歪んでいた。
開いた瞳孔が私の額を射貫き、口元に浮き出た血管が力を貯めていく。
「お前なぁ、いくら自分の人生が上手く行ってないからって、他人に八つ当たりしたらいかんでしょうが。ここには先生しかいないからよかったけどな? 他の人がいるところで同じような真似してみ? 一発でご破算だぞ?」
東金はこめかみに人差し指を置いて、拳銃で撃たれる真似をした。
酷く芝居がかっていた。
…………あれ、今って私が怒る時間じゃなかったっけ。なんで立場が逆転してるんだろう。
…………これって、私が悪いの?
答える人は誰もいない。ここには二人しかいない。
「第一な、今回のレクを最初に提案したのは久留里なんだぞ? あいつはいい奴だ。出席の時もお前が休みだと『えー、今日もユズっちいないのー。残念―』なんて悔しがってな。蕪木がどうしてそんな友達を悪し様に言えるのか先生には分からんが、そういう態度は辞めた方がいい。周りが不愉快になる」
私が間違っていると、懇切丁寧に教えてくれる東金。
彼も母親と寸分違わず久留里の肩を持つのだ。クラスレクを提案したのが事実でも、私が休む度に「残念」と言っていたとしても、裏に隠れた本心はドス黒いのに。
周り周りと言うけれど、私の心情は気にかけてくれないんだなと。
扉の隙間から入り込んだ冷気が足首を撫でて、心臓が不規則な拍動を響かせた。
「………………」
「ふん」
押し黙った私に対し、東金は意図的に鼻を鳴らす。声が遠いなと思ったら、いつの間にか廊下へと出ていた。
「それでも教室に来なかったら、ありのままを家族に伝えるからな」
勘違いの混ざった正論ほど恐ろしいものはない。
誰と話しても、悪者になるのは私だった。無言になった自分の負けだった。
正しいのはいつも大人で、贔屓されるのは媚び上手の子供で。
そのどちらでもない私は、両者の板挟みによって潰されてしまうのだ。
「私にどうしろって言うんだよ」
強めに閉じられた扉を睨んで、母と同じように言い逃げしていった教師を呪う。
答える人は誰もいない。
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