第5話

「ん? 私の聞き間違い?」

「何だか嫌な感じがするから教えたくない」

 

 こいつは一体何をほざいてるんだ。

 額の血管がぶちぶちと音を立て、体中が運動とは違った感覚で火照っていく。


「ボクは柚に元気になって欲しいのに、マカロンでいたずらをしてもぜんぜん笑ってくれないし」


 マカロンでいたずら? ああ、やっぱりわざとだったのか。

 外出せずに錆びきっていた脳が回転を始め、沸騰と共に血が溜まっていく。


「柚が名前をつけてくれないなら、ボクだって柚のお願いを無視しちゃうもんね!!」

 

 大人しく従っていればいいものを。

 ふんぞり返って宣言する少女に向かって、私は握り拳を向けた。いつの日かはできなかった構えが、いとも簡単にとれる。


「いい加減に――!」

 

 振り上げた拳を下ろす理由もなく、そのまま少女の顔面を殴ってやろうとした。顔を殴るのは、私がなりたくてもなれなかった見た目をしていたから。

 ――こんこん。


「ねぇ柚、ちょっといいかしら」


 ドアをノックする音がして、私は大慌てで拳を止めた。


「ひゃっ」

 

 角ばった骨が少女の鼻先を掠め、ふんぞり返った姿勢からへなへなと座り込んでしまう。怖いなら虚勢を張らなければいいのに、変なモノだ。


「柚? 入るわよ」

「母さんちょっと待って、今部屋ものすごく散らかってるから片付けないと!」


 母親が来ているし、今はそれどころじゃなかった。やはり二階で暴れていたのが階下まで響いていたらしく、機嫌の悪いハスキーボイスが聞こえてくる。

 私はこの期に及んできょとんと呆けている少女の首根っこを掴んで「わお!」

 ちょ! 声出すんじゃない! とにかくベッドに放り投げて毛布を被せてやる!


「いい! 勝手に喋ったり動いたりしたら本当に承知しないからね!」


 少女が頷くのも待たずに、毛布の端っこにマンガや筆記用具を置いて剝がれないようにする。

 いや、これだと逆に怪しいか。いっそのこと、窓から外に放り投げて――。


「いつまで待たせるの! もう入るわよ!」

 

 そうこうしている内に時間切れになってしまい、母――蕪木鈴音がずかずかと部屋に入ってきた。

 母は典型的な中年のおばさんといった風体で、目つきが鋭いのと声が低い以外は私とあまり似ていない。身長も平均的で、中腰の私と同じくらいだ。


「あら、そんなに汚れてないじゃない」

「女子高生になってから清潔に目覚めたんだよね」

「ふうん。そうなの……」


 あいさつ代わりのつもりが、母親の目がスッと細くなる。


「学校に通わない女子高生なんて、面白い冗談言うようになったのねぇ……」

「あ、いや、その」

「大人しくしてるなら少しは許してあげようと思ったけど、どったんばったん騒がしいし――」

「運動不足だから、え、エクササイズしようかなって」


 詰将棋を想起させる舌鋒鋭き母は、私の苦しくもこれ以上ない最良の返事にも動じなかった。


「運動しても、お菓子食べたら意味ないわよ」

 

 ゴミ箱に素早く目を光らせ、無造作に捨てられていた高級マカロンの包装紙を摘まみ上げたのだ。


「これ、お客様のだって言ったよね」

「あ、ああ……」


 暫く母親と無言の睨み合いを続けたが、眼光の強さに歴然とした差があった。

 やがて項垂れた私は「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声で謝り、それを聞いた母は呆れて鼻を鳴らすだけだった。

 全く、身長と立場が釣り合っていない。


「いきなり『学校に行きたくない』って言い出したかと思えば、毎日毎日ごろごろしてばかり。母さんの我慢にも限度ってものがあります」

「だからごめんなさいって……」

「謝るんじゃなくて、何で学校に行きたくないのか教えて頂戴。人付き合いで嫌なことでもあった?」


 曲がりなりにも私の母親なだけあって、不登校になった理由に大体の目星がついているらしかった。そこまで知っているなら私に明言させる意味はあるのかと、口を噤んで返事をしてみる。


「あのね、学校っていうのは社会の縮図よ。先生の指示に従って授業を受けて、正しい集団行動を学ぶ。もちろん勉強も大切だけどね、それ以上にお友達と話すっていうのは心を育てるのに必要不可欠な過程なの」


 母の頬が痙攣を始めて、想像よりも怒っているのが分かった。黙ったのは失敗だったかもしれない。挽回するなら、おそらく今が最後のチャンス。

 ここで反省の言葉を述べでもすれば、説教が格段に速く終わる。母も血圧が上がらずに済むし、winwinの関係ってやつだ。

 けれど。


「私は柚がこのまま学校に行かないで、引きこもりの社会不適合者になるのが心配なの。ここに引っ越してから家族以外の誰とも話してないでしょ? お友達もいないみたいだし。いい? 断言するけど、あなたはこのままじゃ社会のお荷物になります」


 どうしても母親の言い分が理解できなくて、媚びようとした言葉を喉の奥に封じてしまう。

 

 不登校なだけで、ここまで言われる道理があるだろうか。母は腕を組んで偉そうに高説を垂れているものの、本人はただの専業主婦だ。社会に出でいない人間が、知ったような口を利いているだけじゃないか。

 

 正しい集団行動ってなんだ――集団に溶けこもうとしたら裏切られて、お友達になれなかった私は間違ってるのか。心が育たないのか。

 全部吐き出せたら、どれだけ心が楽になるのか。

 拳を握りしめ、肩を震わせたまま何も言えない自分が情けなくて、下唇を血が出そうなくらい噛みしめる。


「お願いだから、学校に通ってくれない? 柚が一人で塞ぎこんでるから、母さん心配で心配で――」

 

 もう、聞きたくない。

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