失う限度
都心から少し離れた郊外に、庭付きの純和風邸宅があった。そこは名の知れた小説家の先生が住んでいるというので、近所では有名な場所だった。
「先生!原稿を受け取りにきましたよ」
さて、そんな屋敷に中年の男が乗り込んできた。茶封筒を小脇に抱え家主を先生と呼ぶ姿を見るに、彼は担当編集なのだろう。
「待っていたよ。原稿は私の部屋にあるから、家内に持ってこさせよう。おーい、お前!すまないがアレを持ってきてくれ!」
そんな彼を、小説家本人が快く迎えた。
これは中々に珍しい光景である。小説家や作家などの物書きは普通、担当編集が家に来るのをよろしく思わない。なぜなら、それは〆切がやってくるのと同義だからだ。〆切とは恐るべきものである。速筆で仕事を常に素早く終わらせる人物だったのなら、この落ち着き様も分かる。が、彼は遅筆でも有名なのだ。
その疑問は担当編集も持ったようで、いつもは居留守を使ったり、窓から逃げようとしたりする先生が何故こんなにも余裕を持っているのか、軽く首を傾げたのだった。
「それにしても、来るまで二人して無言ってのもなんだ。暇つぶしに、私のちょっとした創作論でも聞いていかないかい?」
「は、はぁ…。創作論、ですか?」
これもまた妙だった。男が彼の担当となってから、かなり長い付き合いだ。性格も殆ど把握している。が、どう考えても、彼は二人して論じようなんて言う性格ではないのだ。
「先生、どこかで頭をお打ちになられましたか」
「馬鹿おっしゃい。私はこうしてピンピンしてるじゃないですか。怪我をしてたら、もっと怪我人のように振る舞いますよ」
「それもそうですね…」
確かに、彼の背筋はピンとしている。頭部に何かショックを受けて性格が変わったという線は消えた。ということは、彼の心境に何らかの変化があったのか。
何はともあれ、原稿を仕上げてくれているのなら良いのだ。担当編集として、それ以上もそれ以下も望んではいない。
ここで話を聞くのを断って変にヘソを曲げられても困ると、男は余計な詮索をせず、その話を聞くことにした。
「分かりました。その創作論とやらを、お聞かせください」
「うん、というのもそれは、私が今まで書いてきて得た気づきなんだ。君、私の処女作を知っているかい?」
「ええ、もちろん存じ上げています。あの歴史小説ですよね。処女作にして、総文字数100万字越えの力作──」
「そう、そこだよ。そこが問題なんだ」
「と、言いますと?」
「長すぎたんだよ。私は小説書きとして、もっと短い文字数で読者を楽しませるべきではないかと考えた」
「なるほど、ですから次の作品では10万字ほどの一般的な文庫本の長さに──」
「しかし、私はそれでも長いと考えた。もっと文字数を少なくして、内容を濃くできないかと」
「だから近年では、短編連作として一話一話を短く──」
「だがそれでも長かった。出来ることなら、一作で5千文字以下にしたかった」
「なのでこの間はショートショートを──」
「けどね最近、それではダメだと気がついた。だから今回の新作は、今までの概念をぶち壊す作品にしようと思ったんだ」
つまり、新作への創作意欲が強かったわけか。だから先生は早く書き上げることができたんだな──担当はこの創作論から、なぜ今日の彼がこんなにも機嫌が良かったのか、わかった気がした。
「にしても遅いな。すまん、家内の様子を見てくる」
「分かりました、先生」
それにしても遅筆で有名だった男を、ここまで突き動かさせた作品とは。これは名作の予感がする。もしや、歴史に名を残すものになるやもしれん。あわよくば、編集である自分の名前が後世に伝わるかもしれない。
担当は小説家を待つ間、頭の中で夢物語を描いた。だけれど、時間が5分、10分と過ぎると、その遅さに不安がよぎる。
「先生!どうなさいましたか!?」
玄関から、中へと呼びかけてみる。返事がない。まさか、部屋で倒れているのか。もしかすると今まで先生の様子がおかしかったのは、どこか病気だったからか。
「上がりますよ!先生!」
靴を脱いで家へ上がろうとした彼に、ふと背後から声がかかった。
「あら?編集さん。どうされたんですか?」
男は目を丸くした。背後に立っていたのは、小説家の妻だったからだ。
「あれ!?奥さん、家にいたんじゃ?」
「いえいえ、今日は婦人会の集まりがありまして…夫には伝えていたのですが、お聞きになりませんでしたか?」
──まずい、やられた。彼はドタバタと急いで、家の中を探す。裏口が空いていて、どこにも小説家の姿は無い。
小説家は逃げてしまったらしい。が、意外な事に、もぬけの殻となった書斎の机の上に、しっかりと綴じられた原稿用紙があった。表紙には『私の理想の創作論』と走り書きがしてある。
作品は完成していたのか?担当は急いで、原稿に目を通す。が、残念ながらその下は白紙。次のページも白紙、またその次も白紙であった。
めくっていくと、一枚だけ白紙でないページがあった。それは最後の原稿用紙で、左下に『完』とだけ記されていた。
それを見て、担当編集が嘆き混じりの怒声を上げる。
「先生!いくら文字数減らすって言ったって、全てを失くしちゃしょうがないんですよ!」
はたして彼の声はこの場から去った小説家に、届いているのか、いないのか──。
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