僕と桜
満開の桜を見ると、人は何を感じるだろう。「綺麗」「美しい」と感じる人もいるだろうし、「儚い」「切ない」と感じる人もいるだろう。
だけど、僕にとっての桜は「辛く」「悲しい」ものなんだ。
僕の家は3人家族だ。父さんと僕と、それから妹。妹とは2歳離れていて、元々身体の弱かった母さんは妹を産むのと同時に亡くなってしまった。だから僕の中の母さんの記憶はすごく曖昧で、写真を見ないと顔もぼんやりとしか思い出せない。
父さんに聞くと、母さんはとても優しい人だったらしい。好きな食べ物は苺で、好きな物は家族。そして好きな花は──もちろん桜。
どれだけ桜が好きだったかって言うと、子供の名前を桜に
母さんはいなくても、僕らは楽しくやっていた。父さんは暗い様子も見せずにずっと陽気で、ちょっとうるさくもあったけど、愛情たっぷりに僕らを育ててくれたし、僕も妹もそんな父さんが大好きで、みんなで助け合って生きてきた。
「式が終わったら桜を見に行こう」っていうのは我が家の家訓みたいなもので、僕や妹の入学式が終わると必ず家族で桜を見に行った。父さんに「何故入学式が終わると桜を見るの?」と聞くと、父さんは決まって「歳を取ったのが分かるだろ?」と返すんだ。それで、父さんは毎年決まった桜の場所に向かうんだけど、そこは僕ら以外誰も来ない謂わゆる穴場スポットで、そこに着くと父さんも妹も僕も桜を見上げて不思議と黙っちゃって、ざぁっと風に揺れる枝の音だけが聞こえたっけ。
僕が高校生になる時も桜を見る予定だったんだけど、入学式の天気予報は豪雨の予想で、とても花見はできそうになかった。「他の日にも見れるさ」と、前日の夜に父さんはそう言ってたけど、どこか寂しそうだったのを覚えている。
そして高校の入学式当日の朝、例年の春先より寒かった日に父さんは死んだ。いつも僕達より遅く寝て、僕達より早く起きていた父さんが珍しく寝坊したので、妹が起こしに行くと既に冷たくなっていたんだ。お医者さんが言うには急性心筋梗塞だったらしい。恐らく深夜寝ている最中に症状が出て、そのまま死んでしまったのだろうって。
それは本当に突然だった。実感が湧かないくらいに。父さんが火葬されて骨になってもそれは変わらなくて、家で父さんを呼んでは、もう居ないんだと自分に言い聞かせて、何度も、何度も涙を流した。この時は僕も妹も、これから先どうすればいいのか分からなくなっていた。
それでもやらなくちゃいけないことはあって、父さんの遺品整理を兄妹で少しずつやっていた。するとある日、整理していた本棚から一つの手紙が落ちた。
「貴方と春樹と桜へ。この手紙はもしものことがあった時のために書いています。桜はまだ産まれても無いのに、弱気になってこんな手紙を書く母さんを許して。でも、用意はしておくべきだから。
まず、貴方へ。私を見つけてくれてありがとう。私を好きになってくれてありがとう。私を愛してくれてありがとう。身体の弱い私を、ずっと支えるって言ってくれて、本当にありがとう。貴方には感謝しかありません。私も何か返したいけど、もしかしたら何も返せずに終わるかもしれない。なので貴方には、今この手紙で恩返しをします。それは、私の言葉です。『お疲れ様』これは頑張る貴方への労りの言葉。『休んでもいいんだよ』これは頑張りすぎる貴方への言葉。『頑張って』これはどうしても休めない時、あと一歩の背中を押す励ましの言葉。でもこの言葉は多用しちゃダメ、無理な時は休むのよ。まだまだいっぱいあります。『おはよう』『いってらっしゃい』『どうしたの』『泣いてもいいんだよ』…もっとあるけど、このままだと書ききれなくなっちゃうから、あとは貴方の中の私へ預けます。私が死んでも、貴方の中の私は死にません。もしも辛くなったら心の私に話しかけて。私はいつでも、貴方と共にいます。ずっとずっと、貴方が大好きです。
春樹へ。春樹は今年で2歳になりましたね。きっと2年間で色々な体験をしたと思います。でもこれから先、もっともっとたくさんの体験をするでしょう。楽しいことや面白いこと、辛いことに悲しいこと。時にはどうしてこんな酷いことが起こるのかと、絶望する時があるかもしれません。でも、春樹が出会う出来事に一つとして無意味なものなどないのです。きっと今起こっている出来事も自分の成長の糧になるはずです。しかしだからといって、辛く悲しい出来事に立ち向かう必要もありません。辛いときは辛いと言って、立ち止まればいいのです。ゆっくり立ち止まって、泣いたり怒ったりして、休んで、また歩けるようになったら歩けばいいのです。春樹は春樹のペースで進めばいいのです。また、これから桜が産まれれば、春樹はお兄ちゃんになります。お兄ちゃんとして、妹を大事にしてあげてください。これは母さんからのお願いです。大丈夫、春樹ならできます。なんてったって、父さんと母さんの息子ですから。
桜へ。お腹の中にいる桜がこの手紙を読んでいるとしたら、桜はとても大きくなったのですね。母さんはすっごく嬉しいです。手紙を読む桜が何歳なのかは分からないけれど、可愛いその顔を見れないのは本当に残念でなりません。何かあったら、いつでもお兄ちゃんやお父さんに相談してください。二人は桜のためなら何でもしてくれるはずです。お母さんが補償します。でも運命の人を見つけたら、お兄ちゃんやお父さんが何を言ってもその人を手離しちゃダメよ。もちろん意見を聞くのは大事だけど、桜の恋は桜のものなんだからね。あと、私が亡くなったら家に桜しか女が居なくなっちゃって、男のガサツさとかが嫌になる時があるかもしれないけど、出来れば二人を許してあげて。二人とも桜のことが大好きだから、怒られたらきっと泣いちゃうもの。だけど、どうしても許せない時は、少しばかり殴ってもいいと思います。そういう時もあるでしょうから。
最後に貴方へお願いがあります。春樹と桜の二人の入学式には、あの桜の木を見せてあげてください。子供たちが自分の名前と同じ桜の木を見て、自分の成長を感じられるように。あと、ちょっとだけでも私のことを思い出してくれたりしたら、嬉しいな。 お母さんより」
僕らは読み終わると、ぼたぼたと涙が溢れていた。それは号泣というより込み上げてくるような、あったかい涙だった。僕らはこの時に初めて、入学式に見る桜の意味を知った。
それともう一つ。遺品整理中に見つかったものがあった。それは父さんの日記だ。別に中身はその日その日の他愛もない内容だったんだけど、最後のページ、つまり父さんが死ぬ直前に、こう書かれていたんだ。
「明日は春樹の高校入学式。だが嵐で桜は見れそうもない。本当は桜を見た後に渡したかったがしょうがない。あいつらに明日、母さんの手紙を見せる。俺のエゴかもしれないけど、あの手紙を見て俺がここまで生きれたように、アイツらも元気を貰えるんじゃないかって、そう思っている」
「だからって死ぬなよ、ばか」妹は日記を見て呟いた。僕もそう思ったけど、そこに書かれていることは合っていた。僕らはあの手紙から、確かに元気を貰ったんだ。
──そうして今日、妹が結婚した。結婚式が終わって、僕はあの桜の木の下に立っている。僕にとっての桜は、今も「辛く」「悲しい」ものだけど、今年の桜はなによりも「綺麗」に見えるんだ。
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