彼に足りなかったのは
あるところに平凡な男がいた。彼はサラリーマンなのだが出世欲が無かったため、上司に気にいられようともせず仕事に大きな成功も求めない、いわゆるうだつの上がらない社員だった。
しかし酒やタバコ、女遊びをするようなことはなく、何か趣味があるわけでもなかったので出費は少なかった。それゆえ薄給ではあるけども、銀行にはそれなりの金額が貯まっていた。それを見ると余計に、これ以上の熱意を仕事に注ぐ気にならなくて、彼はより一層無難な道を選んだ。社内では「いるんだかいないんだか分からない、あの窓際の席の人」と陰口を叩かれることもあったが、本人はそれすらどうでもよいことと、気にもとめていなかった。
が、ある日とんでもないことが起きた。朝起きてふと自分の手を見つめると、うっすらと身体が透けているではないか。馬鹿な、眼がおかしくなったのか。男はドタバタと慌てて、洗面台の前へと立った。
──目の錯覚では無かった。着ている寝巻きを含めて、自分の身体全体が透過し始めている。試しに寝巻きを脱ぐと、それはハッキリとした元の色彩に戻ったのだが、自分の身体は変わらず、むしろさらに悪化し透けていく。
「大変だ、このままだと自分は消えてなくなってしまう!」
そう思った彼は寝巻き姿のまま、医者へと向かう。最初はタクシーを捕まえようとしたが、手を上げ続けても一向に止まらない。タクシーは諦め、次にバスを使おうとした。だがバス停にいたのが自分1人だけだったのが悪かったのか、運転手はここに確かにいるはずの客を見落として、バス停へ寄るそぶりも見せずに走り去っていった。
こうなったら走るしかない。彼は必死に病院へと足を動かした。透過現象は以前として止まらず、身体はかろうじて輪郭を保っているものの、もうじき完全に消えてしまうだろう。
彼は走った。人にぶつかるのもお構いなしに。けれど悲しいことに、人に彼の身体は当たらなかった。あまりに存在が薄くなりすぎたのだ。かろうじて物にはまだぶつかるが、ここまでくると、幽霊とほとんど変わらない。
それでも走り続けて、彼はやっと、病院前へと辿り着いた。もしかしたら医者だろうと自分に起こっている現象は手に負えないものかも知れない。しかしそれでも、看てもらわなくちゃ困る。心の拠り所が他にないのだ。
哀れな男は
──だが、残念ながら彼の命運はそこで尽きた。扉が自動ドアだったのだ。そんな物に反応できる存在感など、この現象が起きる前から消えている。
絶望、怒りと悲しみ、そして恐怖の全てに苛まれた男は、ドアのガラスを叩く。
「誰か、頼む!ドアを開けてくれ!気づいてくれ!俺は、ここにいるんだああぁぁ……」
……男の声が届くことはなかった。彼の嘆きは、彼の声も身体も、全てが消えさってしまった後の出来事だったのだから。
彼がいたはずの場所に、パサリとグレーのスウェットが落ちた。しばらくして、病院から出てきた1人の子供が不思議そうにそれを見つめると、持ち上げて、近くのゴミ箱へと入れた。
──彼が雇われていた会社で、同じ部署の同僚が話している。
「あれ?今日はあの人休みなんだね。何か連絡あった?」
「いえ、ありませんでしたが…まあ、どうでもいいでしょう。なにせいてもいなくても、別に変わらない人なんですから…」
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