破られた約束

 深夜1時。既に娘は寝かせ終わり、ひとりぼっちになったリビングで、私は深いため息を吐いた。


 「はぁ…」


 気落ちしている理由は至極真っ当というか、ごく当たり前なもので。今日、夫がいなくなったのだ。


 「なんで、どうしてよ」


 誰も聞いていないとしても別にいい。虚空に向かって私は嘆く。


 ──夫との出会いは大学一年の5月頃で、当時の私は眼鏡をかけた文学少女。その日キャンパスの中庭で本を読んでいると、貴方が声をかけてきた。


 「何を読んでいるんですか?」


 後から思えば、アレは俗に言うナンパであったらしい。だが、上京したてでそんな経験など一度もして来なかった私は、きっと不審者が声をかけてきたのだろうと思い込み、渾身の平手打ちを彼に喰らわせてしまったのだ。


 私の全体重を乗せた不意打ちビンタをまともに喰らって、彼はまるで漫画のように綺麗に吹っ飛んだ。…ついでに意識も吹っ飛んでいった。


 そうして、「どうだ、不審者を仕留めてやったぞ」と内心大手柄の私が、どれ不届き者のツラを見てやろうと覗き込むと、どこかで見覚えがある顔だった。短くて少し縮れた茶髪、通った鼻筋、大きくはっきりした目と二重瞼……


 そこでやっと、彼が同じゼミに所属する男性であることに気づいた。


 やばい、やってしまった!──思わぬ失態にあたふたとし、まずは彼の意識を戻そうと、濡らしたハンカチを腫れた頬に当て、彼が目が覚めるまで必死に介抱をする。


 「……うーん…?」


 5分後。彼はようやく意識を取り戻した。


 「大丈夫ですか?ごめんなさい、不審者かと思って…!」


 「ああ、大丈夫…」


 ホッとした。彼が眠っている間、もしこれで意識が戻らなければどうしようかと散々思い悩んでいたのだ。


 「本当にすみませんでした…じゃあ私はこれで…」


 「待って。君は僕にいきなり暴力を振るったんだ。何かお詫びをするべきじゃないかい?」


 その発言に冷や汗が流れる。普通だったら「何をふざけたことを」と返していたが、今回はかなり、いやほとんど私に非があるのだ。言い訳をできる立場ではない。


 「な、何でしょうか…。ごめんなさい、私は上京したての学生の身分。お金は親の仕送りに頼っていて、あなたの治療費や慰謝料を払う余裕はないんです…。もしどうしてもというなら立て替えていただいて、これから働いて返しますので、どうかご容赦を…」


 私は精一杯の弁明をした。するとそれを聞いた彼は盛大に吹き出し、大笑いをし始めた。


 「アッハッハッ!面白いね君!」


 「だ、大丈夫ですか?どこか頭を打って笑い出しているんじゃ…?」


 「フフフ、違う、違うよ!ますます気に入った!ねえ、お金なんかいらないからさ、今度一緒にランチ行こうよ。もちろん僕の奢りで」


 「えっ?でもそれって…」


 「嫌とは言わせないよ?これは僕へのお詫びだからね」


 お詫びと言いながら自らお金を出そうとするとは、彼はやはり頭がおかしくなっているのではないか。…しかしどうにも断る理由も無かったので、私は彼の願いを承諾したのである。


 ──これが、馴れ初め。


 彼は明るく楽しく、そして何より行動力があった。デートの誘いも、告白も、そしてプロポーズも、全て彼からだった。


 結婚した後も変わらず、彼は私を引っ張ってくれた。自分の仕事が忙しいのにも関わらず、料理や洗濯を躊躇いなく手伝ってくれて。


 子供が出来ても変わらなく、「子育ては大変だけど、僕が半分手伝えば苦労も半分になる。赤ちゃんを産んでくれただけで、すでに君には半分以上の苦労をかけているんだから、ここからは僕に任せて」って言って。その言葉だけでも救われたのに、彼はきちんと約束を守ってくれて。


 ある日、なぜ貴方はそんなに優しいの?と聞いたことがあった。そしたら貴方は困ったように微笑んで、こんなことを話した。


 「んー、僕は自分を優しいとは思ってないんだけど…。ね、レディーファーストって言葉あるでしょ?僕さ、あの言葉が嫌いなんだ。もちろん、いい意味合いもある。先に美味しいもの食べさせてあげるとか、先にプレゼントを選ばせてあげるとかね。


 でも、女性に『全て先にやっといてくれ』ってどこか言ってる気がしてさ。そんな無責任なことって無いじゃないか。


 だから、僕は惚れた女の子のためなら先に行動しようと思ってる。君が苦しまないように。1人で悩みを抱えないように。全部取り除けるわけじゃないけど、降りかかる苦難に対して僕が盾になろうって思ってるから、君には優しく見えるんじゃないかな」


 「それを優しいっていうのよ」と、私は彼に笑顔で返した。彼は「そうなのかな」と少し顔を赤らめ、恥ずかしさを隠そうと顔を背けた。その姿が何だか、とても愛おしく感じたのを今でも覚えている。


 でも、貴方はいってしまった。私に何にも告げないで。


 「ねえ、お母さん。お父さんは?」


 いつの間にか娘が、二階の子供部屋から寝ぼけ眼で降りてきて、父親の不在を不思議そうに尋ねてくる。


 「あら、起きちゃったの?」


 「うん、トイレに入ってたの。ねえ、お母さん、お父さんはどうしたの?」


 どうしても、答えが聞きたいらしい。私は娘を悲しませないように、無理矢理笑顔を作って言った。


 「お父さんはね、遠くへ行っちゃったのよ」


 「もう会えないの?」


 無垢な娘の質問が、心を抉る。


 「ううん、いつかまた、きっと会えるわ。さあ、今日はもう寝なさい」


 「…わかった、おやすみなさい」


 納得したわけではなさそうだが、私の辛さを汲み取ってくれたのか、それとも単純に眠気が勝ったのか。彼女は部屋へと戻っていった。


 再び一人になったリビングで、私は顔を覆って呟いた。


 「どうして…どうして、逝っちゃったのよ」


 今日の21時頃、酔っ払い男が閉まり始めた踏切を無視し、電車に轢かれそうになったところを、彼が線路上に飛び込んで助けたらしい。だが、男を突き飛ばした代わりに彼が電車に轢かれて…。


 ──ねえ、貴方。貴方はやっぱり優しい人よ。何でも率先してやって、知らない人まで助けたんだもの。 


 でもだからって、死まで先にすることないじゃない。もっと沢山、私と一緒に居てくれても良かったじゃない。貴方が居ないと、私は苦しんでしまうのよ。


 ねえ、貴方。約束したじゃないの。私を苦難から守る盾になるって、言ったじゃないの…。

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