痛み
「…ですから、言葉はナイフなんです。皆さんも気をつけて言葉を使いましょう」
はぁ〜いと、教室が生徒たちの気怠げな返事で満たされる。皆んなはきっと、「そんなこと知ってるよ」って思ってるんだろう。
でも私は違う。「言葉はナイフ」なんて嘘だ。
──道徳の授業が終わって放課後になる。生徒達がバタバタと教室から出ていく。私もその波に乗って、下駄箱へと歩いていく。
「せんせーさよーならー」「はい、気をつけて帰るのよ」
周りからはそういった声が聞こえる。私は下を向いて歩く。
「ねえ、あの子ってさ」「見た見た、体育の時間に。すごいアザだったね」「ちょっとあれは気持ち悪いよねー」
私を見て、ヒソヒソと話す声もする。でも、別に痛く無い。
──一人で帰ってきて家のドアを開けると、父がお酒を飲んでいる。
「…お前、帰りが遅いじゃねえか。どこ行ってたんだよ」
「ごめんなさい、授業が長引いて」
口から出した言葉が終わるより先に、父の投げたコップが顔を掠めた。
「口答えするな。」
父が立ち上がる。嫌な汗が背中をつたう。
「気に入らねえんだよ。出ていったアイツと同じその目が。」
父は拳を振りかぶった。私はギュッと目を瞑る。大丈夫、慣れっこだ。すぐに終わる。自分に言い聞かせる。
「お前が悪いんだよ。お前が。」
発散できない怒りを暴力へと変化させ、父は私を殴る。私は抵抗もせず、殴られる。
大丈夫。すぐ終わる。大丈夫、大丈夫。
「お前がっ、お前がっ、お前のせいでっ」
父の拳が飛んでくる。私はうずくまって、顔以外を殴らせる。あぁ痛い。
…ほら、拳はこんなに痛い。言葉だけならアザも残らない。怪我もしない。
満足したのか、何なのか。少ししたら、父は殴るのをやめた。哀しい目つきは変わらずに。
そして黙って、またお酒を飲み始めて、最後には眠ってしまう。出ていった母の名前を呟きながら。
私は眠った父の哀れな姿を見下しつつ、毛布を彼の身体にかける。その無防備な寝姿に、何度も殺意を芽生えさせて。
最後の一歩が踏み出せないまま、私もいつの間にか寝てしまって、次の日の朝を迎える。朝になったら、まだ眠っている父を尻目に、私は学校へと歩き出す。
毎日毎日、この繰り返し。でも、これは仕方のないことなんだ。母が別の男を作って父から逃げたのも、優しかった父がその日から一変したことも、そのせいで私が殴られることも。仕方のない、仕方のないことだから──
「仕方なく、ないよ」
──ササキ先生が私にそう言う。身体に殴られた痕があるって誰かが伝えたらしい。みんなが居なくなった教室で、たった二人きりの面談。
「いいえ、仕方ないんです。私が反抗せずに殴られてれば、父の気も晴れますから」
そう、私さえ我慢してれば何ともないんだ。父が私を見てムカつくのも、私の目が悪いんだ。だから。
「ううん、仕方なく、ない。」
なんでこの人は否定をするのだろう。同じ女性として、私に同情したのか。安っぽい同情なんて、要らない。
「仕方ないんです。私が殴られてればいいんです」
「違うよ。貴方は何も悪くない。貴方が殴られる筋合いなんてないの」
「何を、分かった風に」
段々とむかついてきた。この人に私の心が分かるはずもないのに。
「先生には、分からないんですよ」
「うん。分からない。分からなかった。今までも、私の生徒がこんなに酷い目にあってるとは、思ってもいなかった」
そうだ。誰も私のことを見てなどいない。私自身のことを見ていない。見ているのは生徒全体、殴られた痕、それと母の面影。
「でもね、私はもう貴方から目を離さない。絶対に。先生と生徒としてじゃなく、一人の人間として。」
「はっ、いまさら」
きっとこれは救いの手というやつなのかもしれない。けれど、悪態をつかずにはいられない。なんで、なんで今更。
「そう。今更なの。遅すぎたの。自分で自分が許せない。私は貴方を守れる立場だったのに」
「だからって──」
──言葉が、途中で止まる。先生の目から、涙がこぼれ落ちている。先生の噛み締めた唇から、血が垂れている。
先生は本気で悲しんで、本気で後悔をしているんだ。それに気づいてしまった時、私は何も言えなくなった。
「ごめんなさい、ダメな先生で。ごめんなさい、今まで気づいてあげられなくて。ごめんなさい、貴方の心を殺してしまって。ごめんなさい、ごめんなさい。」
彼女の懺悔にも似た言葉を、私は黙って聞いていた。哀しい目をして聞いていた。
「…帰ります」
「待って、コトハさん!」
私は鞄を持って、急いで教室から飛び出した。後ろから呼び止める声に振り返りもせずに、真っ直ぐと下駄箱へ向かって、上履きのまま外へと走り去った。
何故だか先生の言葉を聞いていると、あの場に居られなくなった。逃げ出したくなった。
どこに向かっているのかも分からずに走っていると、ポタポタと液体が落ちてくる。涙?違う、きっと汗だ。きっと。
息が切れるまで走って、走って。どこかも分からない場所で、もう走れなくなって。立ち止まって。
腕で汗を拭って、拭って。…けど、もう誤魔化せないや。拭いても拭いても前が見えない。私は涙を流しているんだ。
声にならない言葉を叫びながら、私は涙を流す。心臓が痛い、目が痛い、喉が痛い。いつぶりだろう。感情をここまで表に出したのは。
──あぁ、私をこんなに泣かせるなんて。やっぱり言葉って、ナイフなのかもしれない。
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