『万能』薬
「博士!」
「あ?なんだよ。馬鹿が大きな声出すな」
二人きりの研究室で、助手が博士に呼びかける。
「……つ、ついに出来ました!万能薬です!」
助手は小脇に抱えた瓶を見せた。瓶にはでかでかと「万能薬」と書かれている。その隣には「触れるな!」と注意書きもしてあった。
「はあぁ〜?万能薬ぅ?お前はだから馬鹿なんだよ。そんなもん作れるわけねえだろ」
「……。…本当なんです、今から証明してみせます」
そう言うと助手は、机の上にあった小物入れからカッターを抜き取る。
「何をする気だ?」
博士が怪訝な表情を浮かべるより先に、助手は頸動脈を切り裂き終わっていた。血飛沫が虹のように美しい曲線を描く。
「なんだぁ!?頭がおかしくなっちまったのか?ったく、自殺なら他所でやれよ!研究室が汚れちまうだろうが!」
瀕死の状態だろうと尚も罵倒を続ける博士の姿にほくそ笑みながら、助手はふらふらと瓶を開け、透明な液体を飲み込んだ。
すると何ということだろう。さっきまで血が噴き出していた傷口がみるみるうちに塞がって行き、終いには完璧に閉じてしまったではないか。喉元が真っ赤に染まっていなければ、彼が首を切ったなどとは誰も信じまい。
「どうです?信じてくれましたか?」
声も、顔色も元通り。まるで何事も無かった風に助手は振る舞う。
「…いや、すげえ。すげえな。ハッキリ言って驚いた。馬鹿なお前がこんなもん作っちまうとはな。ちなみにだが、この薬が効くのは傷だけか?」
「……いいえ。万能薬ですよ?試しに使ってみましたが、私の慢性的な頭痛に肩こり、睡眠障害に抑うつの症状。あ、それと──」
「あー、わかったわかった。じゃあそこら辺全部レポートにまとめて後で俺に出せ。な?」
「はい!わかりました!」
「で…あとよー、この薬は俺が作ったことにするから」
「……は?」
「あ?文句あんのか?ここは俺の研究室だぞ。お前は俺の助手なんだから、お前の作ったもんは俺のもんなんだよ。分かるか?それも分かんねえ馬鹿なのかお前は?」
「……わかり、ました」
理不尽な言葉の暴力。だが堪えるんだ、今は。助手は小さく返事をした。
「よしよし、それでいいんだよ」
「……ところで博士も万能薬、体感してみませんか?」
「いや、俺は別に今どこも悪くな──」
助手は無造作に、博士の指を切りつける。
「痛っ!?お前急に何すんだ!!」
「す、すみません。どうしても飲んでもらいたくって」
「だからって急に切りつける馬鹿があるかよ!ちょっと褒めてやったからって調子に乗りやがって!これだから無能はよぉ!チッ…おいっ、早く万能薬寄越せっ!!」
「……は、はい!」
助手は瓶を手早く開け、小さなコップに万能薬をなみなみと注いだ。
「ったく!」
そうして博士がごくりと薬を飲み干したのを見ると、
「わぁっ飲んでくれましたね!」
と、助手は手放しに喜んだ。先程まで暗かった表情が、みるみるうちに明るくなっていく。
「はぁ?お前が切ったんだから、治すために飲むに決まってんだろ!」
「そうなんですけど…ところで博士、万能薬について言ってなかったことがあります」
「ええ?今更かよ気分わりーな。最初に全部言えよ!」
「すみません、博士が薬を飲んでからじゃないと説明したくなくて」
何だそりゃ?そう言いかけて、博士は違和感に気づいた。助手の時はあんなに素早く閉じていった傷口が、今回は全く治っていない。
「…おい、ちょっと待て。傷が治んねえぞ」
「ああ、そりゃそうです。だってこの万能薬『瓶を持った人間が願う効能』になるんですもの」
「はぁ!?何馬鹿言って──ゴホッ!…えっ?……なんだこれ、血?」
咳き込んだ博士の口から血が流れた。だらだらと、止めどなく。
「あっ、もう効果が出てきたんですね!」
助手の表情がますます明るくなる。博士が今まで見たことないほどに。
「……お前、何願った?くそっ、気分が悪りぃ…」
「はい!私が願ったのは『博士が苦しんで死ぬ薬』です!」
──口がうまく動かない。吐き気がする。眩暈がする。内臓が裏返るような痛みがする。何だこれは。ふざけるな。
博士は虚な目で、助手の持つ万能薬瓶を狙って歩く。
「あー、ダメじゃないですか博士。血を撒き散らして歩いちゃ!研究室が汚れちゃいますよ?」
しかし助手は赤子から逃げるように、ひょいと軽く博士を避けた。
「よこせ…それ…」
ぜえぜえと言いながら、おぼつかない足取りで男は瓶に追い縋る。
「嫌ですよ。これは私が作った、貴方を殺すための『万能薬』なんですから。もちろん、これからは世のため人のために使いますけどね」
何で俺を殺すんだ。声も出なくなった惨めな男は、助手に目だけで訴える。
「『どうして』、ですか?ははっ、博士は本当に馬鹿ですねえ。気づかなかったんですか?私がこの薬を飲んで治した症状、全部貴方のせいで起こったことなんですよ?献身的に毎日尽くしてるのに、返ってくるのは馬鹿だなんだと罵倒ばかり。…私が死にそうになっても血の汚れを心配し、挙句研究を横取りしようとする。そんな男を、恨まないと思いますか?」
男はもはや立っていることもできなかった。へたり込んで、コヒューコヒューと精一杯の呼吸をしているが、きっと今にも死んでしまうだろう。
「例えここに私以外の誰かが居て、その誰かが万能薬を貴方に注いだとしても、誰も貴方を救えないでしょう。だって、貴方を心から救いたいと思う人など1人もいないでしょうから」
彼の言葉は聞こえているのだろうか。彼の上司だった人間は、いつの間にか倒れ込んでいた。瞳孔は開いて、ピクリとも動かない。
「ふむ、そろそろ死にますか。しかし私個人としては、もっと苦しんで欲しかったんですが」
彼はそう言うと、研究室の扉を開けて出てゆく。
「……ではさようなら、無能な博士」
──そうして電気が消された部屋には、一つの肉塊だけが残るのだった。
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