真っ黒なノート

 気に入らない物はノートに名前を書き込んで、真っ黒に塗りつぶす。それが僕のストレス解消法。


 朝食にトマトが出てきた。僕はトマトが嫌いだ。母さんは知っているのに、「身体にいいから」って出してくる。僕は自分の部屋に戻ると学生カバンからB5ノートを取り出して、HBの鉛筆で母さんの名前を書くと、上から塗り潰した。


 家から出ると近所のポチに吠えられた。ポチは僕がポチを「馬鹿犬」と呼ぶのと同じように、心の中で僕を「馬鹿人」と馬鹿にしているんだろう。僕は歩きながらノートを出して、取り易い位置にあったBの鉛筆を使ってポチと書いてから、上から黒く塗り潰した。


 学校に着くと陸が居た。陸は幼馴染で、毎朝下駄箱で話しかけてくる。「おはよう」「おはよう」他愛の無い挨拶をして下駄箱を開けると、自分の上履きがなかった。「おい、上履き隠されたのか」陸は心配そうにこっちを見てくる。僕は知っている。陸の下駄箱には、陸の上履きともう一足、僕の名前が書かれた上履きがあるってことを。スリッパを履いて教室に入ると、僕は2Bの鉛筆で「陸」と名前を書いて、グシャグシャと塗り潰した。


 授業中、僕は頭が良くないから縮こまる。けれど出席番号という理不尽に決められた席順で一番前に座っている僕はどうしても目立つ。分からないから手をあげないのだけれどその行為一つも先生の目につくのか、「このくらいなら解ける」と勝手な解釈で僕に当ててくる奴や「お前は何で解けないんだ」と目で訴えてくる奴がいる。僕は彼らの名前を覚えて、休み時間に3Bの鉛筆で思い切り塗り潰した。


 「君はいろんな濃さの鉛筆を持っているんだね。正確には硬さと言うべきなんだろうけど」


 僕が顔を上げると、渚が立っていた。別に彼女とは仲が良いわけじゃない。ただ彼女は最近僕がやっていることに気付いたようで、昨日からこうして話しかけてくるのだ。「別に」そう言うと僕はそそくさと筆箱に鉛筆をしまって、ノートも閉じた。「連れないなあ」と言った彼女は次にこんなことを聞いてきた。


「ねえ、本当に気に入らない人間がいた時、ノートが使えなかったらどうする?」


 僕は一瞬答えに詰まった。意外に考えたことが無かったからだ。けれど、答えはすぐに出た。


「可能なら殺すしかないんじゃないかな。」


 言葉に偽りはなかった。今までノートに書いたどいつもこいつも、力や法律の壁が無かったら僕は殺している。


 「そっか、やっぱりそうなるよね」


 僕の言葉に驚くかと思ったが、彼女は変わらぬ様子で何かに納得するように呟くと僕の前から離れた。僕は邪魔者が居なくなったので、やっと離れたと、心底清々とした。


 その日の放課後、人知れず屋上に忍び込んだ渚は飛び降り自殺をした。先生に資料運びを頼まれた僕はその時、資料室の窓の上から、何か黒い物体が落ちていったことに気がついた。気になって埃の被った窓を開け下を見ると、自らの体から出来た血溜まりの中に彼女が倒れていた。


 渚はなぜ自殺したのか。「絶対に見るな、早く帰れ」と先生達に半ば強制的に帰らされた帰り道で、僕は渚が自殺した理由を考えた。けれど考えても考えても、彼女が何を心に抱えていたのか分からなかった。きっと彼女は自分が嫌いだったのかも知れない。そう考えた時、気づいてしまった。彼女が僕に聞いた質問の意味を。彼女の中の「本当に気に入らない人間」が誰かを。


 気がつくと走っていた。僕は息を切らして家に着くと、手も洗わずに自室に入って鍵をかけた。僕は僕の名前を6Bの鉛筆でノートに書いて、叫びながらひたすら強く塗り潰した。力を込めすぎて紙が破れても、僕はただひたすらに塗り潰した。そうして使い物にならなくなったノートを、最後に僕はゴミ箱へと落とした。

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