見えない事情はお互い様
(──やかましい。何度目だこれで。)
ブブブ、ブブブと虫の羽音にも似たバイブがテーブルを揺らす。もしここで、リビングのソファに寝そべった男──コジマサトルが普段通りだったのなら、携帯の通話ボタンを押し、通常よりも明るめな営業用の声を作って「もしもし」と気前良く応対するだろう。
しかしながら今の彼の体調は、万全とは程遠かった。食べた何かが悪かったのか、それとも昨夜からの温度差で体が冷えてしまったのか、ともかく腹を壊してしまっていて、今日は朝からトイレと親密なお友達になっているのだ。
そういった状態であるからこそ、着信を報せる振動は彼にいつも以上のストレスを与えていた。しかし当たり前だが、通話してくる人間にはそんな状況を知るわけがないもので。
(なんでこういう日に限って電話が多いのだろうか)
彼自身が個人営業の職に就いていることも災いし、携帯には常日頃から電話がかかってくる。今日も最初のうちは「すみません、体調が悪いので」と一件一件、電話に出て丁寧に謝っていたのだが、量が増えるにつれ段々と
けれど、もはや着信自体がうざったくなってきたので、彼は携帯の電源を落とそうとテーブルに手を伸ばした。
「うるさいなぁ、もう」
すると、またも携帯が震えた。何だ、今度はどこの取引相手だろうか。携帯を手に持ってしまったせいで、見たいわけでもないのに名前が目に入る。
そこには『ヤマダ テツオ』と、懐かしい名前が表示されていた。
(テツオ?珍しいな、あいつが電話してくるなんて)
テツオは仕事の取引相手ではなく、サトルの中学からの友人であった。ちょっと変わった人物で学生時代にはよく遊んだものだが、二人とも社会人なってからはそこまでやり取りをしていない。今年なんかは年明けに「あけましておめでとう」と形式的な連絡を交わして、それっきりであった。
サトルは突然、電話に出たい衝動に駆られた。それは彼が一人暮らしであり、身体が弱って大きくなった不安を、懐かしさという安心感によって誤魔化してしまおうと出た欲求だった。
気づくと、サトルは通話ボタンを押していた。耳に携帯を当てると懐かしい声が聞こえてくる。
「…よ、久しぶり」
聞こえた旧友の第一声は、何だか弱々しく聞こえた。それでも、彼の気を紛らわすには充分な効果があった。
「久しぶり、元気か?」
だからといって、はしゃぎ過ぎていると思われても恥ずかしい。お互い、もう三十歳に近いのだ。
「元気かと言われると元気ではない。サトルはどうだ?」
変わり者のテツオらしい、ひねくれた回答が返ってきた。なんだか、これだけの会話でも愛おしく感じる。
「俺か?俺は今腹痛に苦しんでるよ。何かが当たったんだか冷え込んだせいか…とにかく大変でさ」
「お前も腹痛か、俺もなんだよ」
二人揃って同じ状況にいるとは──声や表情に出さないながらも、彼は驚いた。
「こう2人して痛むとは、やっぱり冷え込みのせいかねえ」
「さぁ、そっちはなんでか分からんが、俺の方は理由がハッキリしててさ、今も腹から液体が出てくる出てくる」
「おいおい、汚いなぁ。さっさと出し切ってしまえよ」
これぞ同級生のノリというか、気兼ねなく話せるのは良いものだ。と言っても、下痢の話はちょっと下品だけれど。サトルは軽口には軽口をと、冗談混じりで言葉を返した。
「いや、出し切ったらまずいんだ。というか、俺は出したくないんだよ」
「えっ!?何言ってんだよ、中身を全部出した方がスッキリするだろ!?」
「中身を出すのはもっとまずい。出来れば、現状のままがいい」
「はあ!?」
今度はまさかの返答に、サトルは声を出して驚いた。多少の変人だとは知っていたが、果たしてここまでだったか。
「おいおい、ふざけてるのか?それとも何か変なフェチズムを俺の知らないところで開花させちゃったんじゃないだろうな」
「それがフェチズムでも何でもなくて大真面目なんだよ」
ますます意味が分からない。テツオは頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「どういうことだよ、わけわからんことばっかり言ってると切るぞ」
「切られるのは困る」
一体何なのか、茶化されているのだろうか。そうだと思うと、フツフツと怒りが込み上げてくる。ぶつ切りをしてやろうか。
しかし続く言葉を聞くと、彼は切る気をすっかり無くして、テツオと通話を続けたのだった。
「──実は家に強盗が入って、腹部をナイフで刺されたんだ。強盗は逃げて、警察と救急はさっき呼んだんだけど、何かしていないと意識が無くなりそうだった。でも、俺は一人暮らしで話し相手もいない。それでどうにかしようと、サトルに電話をかけたんだよ。頼む、何でもいいから俺と会話を続けてくれ。何か話してくれ。そして俺を、どうか安心させてくれ」
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