誰もがそこに立っていて

 僕は、とてつもなく長い坂を登っている。これは登山と言っても差し支えないかもしれない。かなりの間登ってきたが、まだまだ終わりは見えない。


 坂の先を見上げると、会社の上司が立っていた。「近頃の若いもんはそんなんでバテるのか」なんて、よく聞く説教を垂れている。でもそんな憎たらしい事を言ってくる上司も、僕と同じくこの坂を登ってあそこにいるのだから、なんとも文句は言いづらい。ま、彼がどういう風にあそこまで行ったのかによっても変わるけど。


 そこからちょっと登って後ろを振り向くと、大勢の人間がいる。少し離れた場所には会社の後輩がいて、手の届くほど近くには僕の恋人もいた。


 僕はブツクサと文句を垂れて、坂を登る後輩に呼びかける。「いつか君もここまでくれば、見えるものが増えるよ」と。


 そして、恋人には手を差し伸べて尋ねてみる。「僕と一緒に坂を登りませんか」と。


 恋人はぐしゃぐしゃと泣き笑いをして、「はい」と返事をしてくれた。僕はこれからずっと、彼女の手を引っ張って坂を登り続ける覚悟を決めた。


 そうと決まれば──今度は坂を見上げて、彼女のご両親へと呼びかける。「トモコさんを、僕にください!」

 

 お義父さんはしかめっつらで、「君はトモコと坂を登りきる自信があるのか」と聞いてきた。お義父さんの圧に負けるものか。僕は大きく「はい!」と返事をした。


 僕らは正式に結ばれた。さっきまで坂の後ろにいた彼女が、今では隣に立っている。固く握りしめられた、僕と彼女の手の薬指には、まばゆいリングが嵌められていた。




 また少し登っていくと、坂の一番下に人影が現れた。僕らの子だ。彼はよちよちとした歩きで、しかしそれでもしっかりと坂を登り始める。


 健気に坂を登る姿は、僕ら両親にとって至上の喜びだ。いつまでもすくすくと元気に、坂を登って欲しいものだ。




 ──気がつくと、あの上司がいた場所まで登っていた。早いものだ。下を見ると後輩が、さらに後ろにいる後輩の後輩に向かって、「ここまで来ると、色々見えるぞ」って呼びかけている。…アイツ、俺の言ったことパクりやがって。でも、そう言えるようになったのは成長したってことだよな。何だか感慨深い。


 息子もかなり大きくなった。あそこは、私が上司に責められていたところだ。きっと彼も私と同じように、苦悩して坂を登るのだろう。


 さて、いつまでも止まっていられない。坂は一方通行だ。登らなければならない。段々と身体が悲鳴を上げているが、まだだ、まだ行ける。




 ……随分と登ってきた。同じように登ってきた周りの人々も、いつの間にか消えている。坂の下には大勢いるのに、上にはもう、数えるほどしかいない。私の身体もガタが来ていて、杖をついてなんとか登っている。


 「大丈夫かい、婆さん」


 私は彼女に声をかけた。


 けれど、握りしめていたはずの手の先には誰もいない。


 …そうだ、彼女は去年、坂を登りきったのだったな。




 ──後ろから声が聞こえる。後輩と、息子、それに息子の嫁。孫もいるみたいだ。


 「先輩」「父さん」「お義父さん」「じいじ」


 あぁ、長いこと坂を登っていると、いろんな呼び方をされるもんだなぁ。だけど、それもこれで終わりか。寂しくもあり、満足感もある。この坂は険しく、苦しくさに溢れていて、それと同じくらいの楽しみや喜びがあったな。


 ……ここで、私の坂は終わりだ。やっと登りきった。さようなら皆。君達も、ゆっくり坂を登るといい。大丈夫。自分から急がなくても、足は勝手に動いてゆくから。




 ──坂が終わって平面になった道の先に、妻がいた。僕は彼女の手を取って微笑む。


 「待たせたかい?」

 

 「いいえ。貴方こそ、もっとゆっくりしてきてもいいのに」


 「しょうがないさ。坂の終わりは、自分の意思とは関係なくやってくるんだから。それに僕はもう沢山登った。次は彼らの番さ」


 坂の頂上で、僕らは子供たちを見下ろす。あんまり早くこっちにくるなよ?だって人生って坂は、長く楽しんだ方がいいんだから。

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