第4話
運命の皇子と呼ばれる世継ぎ、セインリュースが生まれたのは、リュシオンが即位した時期である。
7代神帝が誕生したばかりの頃、歴史上で伝説と思われていたひとりの少女が、この世に生を受けた。
聖稀という位を冠する聖少女である。
彼女の生誕を予言する書物に、ひとつの重要な事実が記載されている。
聖稀という乙女が選ぶ伴侶は、この世で頂点に位置する男性だと。
つまり男性として自他共に認め、頂点に立つ者だけが得られる聖域の乙女なのだ。
至福の乙女とも最上の女神とも呼ばれる稀有な美女として、その存在は長く語り継がれてきていた。
男に世界を与える唯一の聖女として。
その動乱さえ招きかねない伝説の女神が、7代神帝の御世に誕生したのだ。
周囲の人々がどれほどの衝撃で、この事実を受け止めたのか想像に難くない。
しかも生誕を果たした聖稀が、神帝の姪として生を受けたとなれば、周囲の期待は高まる一方だっただろう。
生まれ落ちた聖稀はリュシオンの姉姫、クローディアの次女として誕生していたのだ。
彼女の嫁ぎ先は三大貴族のひとつ。
エルシオン侯爵家で彼女は現侯爵の奥方になっている。
聖稀は侯爵令嬢として生を受けたのだ。
だが、唯一生まれながらに聖女の格を有する彼女は、その価値故にリュシオンとクローディアのあいだの取り決めで皇家に引き取られていた。
戸籍上ではカミュレーンを名乗る皇女である。
別にリュシオンの養女に迎えたわけではなかったが、彼女は誕生と同時に正式に皇家の系図に加わっている。
命名もまたリュシオンである。
皇族は直系にかぎりフォースネームまで持つことが決まっているのだ。
セカンドから始まりファースト、サード、フォースへと繋がる名付けも、全く皇家の仕来たり通りだった。
リュシオンは名付けの段階から、皇家に連なる皇女として彼女を扱っていたのだ。
事実を知らされた者たちが、期待を抱くのは避けられない事態である。
伝説に記された最高の男性というのが、現神帝のリュシオンである、と。
彼らの気持ちとしては、現在名実共に頂点に位置するリュシオンか、或いは世継ぎの君以外では、納得できないという事情もあったのだろうが。
6代神帝の自決で幕を開けた7代神帝の御世は、始まりから動乱の気配が強かった。
あまりに特異なリュシオンの辿る運命。
それはあたかも古の祖王の伝説を、もう一度辿っているかのように思える。
祖王が辿った伝説的な生涯をリュシオンが再現しているように。
だれもが信じて疑わない。
祖王の寵児がリュシオンである、と。
彼こそが祖王の栄光を受け継ぐ運命の子だと。
彼が辿る数奇な運命はリュシオンが選ばれた者である証としか思えない。
リュシオンに傾倒する人々にとって、この時期に生を受けた世界を意味する聖女は、その象徴のように思えたのだ。
祖王にもまた聖女と呼ばれる絶対伴侶。
運命の恋人が存在したために。
皇家には絶対伴侶の伝説が伝わっている。
運命に繋がれた恋人が、必ず存在するという純愛神話が。
その発端の祖王と神妃の神話は今では伝説となっている。
リュシオンが再来として騒がれる時代に、同じ意味を持つ聖女が生まれることは、人々にそれを信じさせる結果となった。
祖王の運命の相手が伝説の神妃であったように、リュシオンの運命の相手こそが聖稀に違いないと。
しかし勝手に盛り上がる周囲の意見を知りながら、当事者のリュシオンが彼女のことをどう思っていたかは明らかではなかった。
穏やかに笑うばかりで本音を見せないリュシオン。
彼の意中の姫君は現在もなお闇の中である。
それを目にした瞬間、リュシオンはそのまま回れ右をやりたくなった。
だれの差し金かなんて考えるまでもない。
聖宮(神帝と世継ぎの君にしか居住権のない特別な宮。もちろん女人禁制である)ではないとはいえ、王宮の、しかも神帝の寝室に姫君の姿があれば。
瑠璃月はリュシオンの誕生月であり、祖王が生まれた月でもある。
おまけに現在は彼の世継ぎの君、セインリュースの生誕をも意味する。
半月違いで催される当代の神帝と世継ぎの聖誕祭に、祖王の誕生を祝う祝祭が重なって、瑠璃月は殺人的な忙しさだ。
今夜は聖宮に戻る余裕もなくて、王宮で仮眠を取ろうとしたのだが、どうやらつけこまれたらしい。
「あのタヌキ親父っ」
飄々としたタヌキの顔が脳裏に浮かび思わず毒づく。
即位と同時に皇子を得たリュシオンであるが、正妃は皇子が生まれた直後に亡くしていた。
つまり婚礼と同時に伴侶を失ったわけである。
それから現在まで独身を押し通してきたが、神帝がいつまでも独り身など臣下たちが喜ぶわけもない。
再三に勧められた伽も、なにかと理由をつけて断るリュシオンに痺れを切らしたのか。
到頭実力行使に出たらしい。
リオンクール公らしいお節介だと、リュシオンは深いため息をつく。
できれば回れ右をして、違う寝室でも使いたいところだが、今更移動するのも億劫で、リュシオンは前髪を掻き上げつつ、そのまま扉に手をかけた。
神帝の姿が部屋に現れると言い含められていた令嬢も、さすがに緊張するのか強く息を飲む気配があった。
素肌に夜衣を纏っただけの姿をしていて、その肢体もはっきりと目に入る。
たしかに美しい女性ではあった。
ほっそりとした肢体にも女性としての魅力がある。
顔立ちもまあ悪くない。
リュシオンと比べれば平凡だと言われるだろうが、それは彼が普通ではないので比べる方が悪いだろう。
しかしながら「さあどうぞ」と差し出されていると、どうにも白けてしまうのがリュシオンの悪い癖だった。
据え膳喰わねば男の恥、などというが時と場合による。
据え膳をその都度食べていれば、際限のなくなる境遇にいるのだ。
こんなふうにお膳立てされても、全くその気になれない。
却って鬱陶しいだけだった。
興醒めするリュシオンには気付かずに、令嬢は引き結んだ唇を震わせ、ゆっくり立ち上がった。
「悪いがわたしは疲れている。だれになにを言い含められたのかは知らないが、ひとりにしてくれないか。今はとにかく休みたい」
部屋にいる令嬢のことなど全く眼中にないように、さりげなく襟元を緩めながら、リュシオンは着替えのため、移動しようと踵を返しかけた。
だが、余程強く言い含められていたのか、意を決したように不意に令嬢に抱きつかれ、虚をつかれた彼が呆気に取られて立ち止まった。
「……陛下」
名を呼ぶ声が震えている。
抱きついて首筋に回された腕も、小刻みな震えがあった。
皇族の、しかも神帝や世継ぎの伽の相手は、必ず純潔が要求される。
おそらくこの少女もそうなのだろう。
なにがあっても事に及べと強く言い含められたのだろうか。
名を呼んだきり震えているのに離れようとはしない。
細いため息を漏らして、リュシオンは震えている令嬢の肩に手をかけて引き離した。
脅えたような瞳と真正面からぶつかる。
「悪いがわたしは自分を安売りする女性には興味を持てない」
冷酷に告げられた言葉ではない。
ただ淡々と告げられたありふれた拒絶の言葉。
だが、甘い美貌を持つリュシオンが口にすると、信じられないほどの衝撃を与えた。
憧れの君の異名を持つ神帝である。
その彼に軽蔑されることは、どんな拒絶の言葉よりも深く胸に突き刺さる。
「だれに言い含められたのかは知らないが出過ぎた真似だ。このような振る舞いをわたしが受け入れるはずもない。咎められることはない。約束するから戻るんだ。ひとりになりたい。わかるな?」
遠回しに退室を促す命令だった。
震えながら頷いた令嬢が小走りに駆け去るのを、リュシオンは疲れきった顔で見送った。
「やれやれ。先が思いやられるな」
苦々しく呟いて、リュシオンは今度こそ着替えのため、踵を返した。
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