第36話

 あのときから一度は訊きたいと思っていたことだった。


 さすがに気まずかったのか、普通なら黙殺するリュシオンも、このときばかりは黙秘はできなかった。


「例えを挙げるとしたら、自分の意思をしっかり持っている娘かな?」


「抽象的だな、それ。自分の意思をしっかり持ってたら、後はどうでもいいわけか? きつい性格でも優しい性格でも」


「そういうことになるかな? 表面上きつい性格で人当たりが悪くても、自分の意見をしっかり持っている娘なら、俺は綺麗だと思うだろう。外見ではなく、その娘の持つ資質が」


「ふうん」


「但し意味もなく我が強いだけの娘はダメだ。俺の一番苦手なタイプだな」


「なんか似てるんだけど、それ?」


 普通自分の意思をしっかりと持っていたら我が強いと思われるのではないだろうか?


「全然違うぞ? 言い換えれば我儘な娘という意味だ。意思がしっかりしているというのは、例えるならそうだな。俺やおまえが相手でも、自分が正しいと思えるなら、俺が間違っていると思えるなら、正面から制弾できるだけの意思の強さ。それを言ってるんだ、俺は」


「なるほど」


「我儘な意思の強さと、芯のしっかりした意思の強さは、質が全然、違う。俺が自分の好みを口に出すと、大抵の者はそこを誤解するんだ。意思が強ければ我儘でもいいのだと。俺はそういう女性特有の我儘は苦手だ。人としての意志の強さ。身分の違いなどに左右されない。それが大事だな。逆から言うと俺たちと同等の立場に立っていても、自分が間違っていたら、民が相手でも素直に謝罪できる。そういうところに惹かれるな。曖昧すぎる好みだが、俺の基準はそういうものだ」


 本当にとても暖味な好みだが納得できる内容でもあった。


 確かにそういう意思の強さを持ち、身分の差に左右されず謝罪できる女性。


 それは魅力だろうと思う。


 例え美形という形容詞から程遠い相手だとしても。


「じゃあ外見には拘らない?」


「どうでもいいそ、俺は。綺麗な顔なんて三日で飽きる。付き合っていて飽きない相手の方が俺は好きだな。外見より性格重視。一番、嫌いなのは我儘な娘と卑屈な娘かな? 卑屈な娘に関してはそういう性格なら仕方がないとは思うが、そういう場合、多分俺は興味を持たないから」


 勿論卑屈な娘といっても、曖昧な表現でそうみえても、実は気弱なだけだったりする場合もあるだろうが、リュシオンはその身分的に、そういう態度には慣れてしまっている。


 そのせいで卑屈になられると興味が失せる傾向にあった。


 きっき言った好みの中に、自分が相手でも糾弾できるという例えを挙げたのは、そういう意味だった。


「なんとなく言いたいことはわかるけど、それって普通、自分から苦労する好みって言わないか、親父殿?」


「そうかもしれないな。実は自分から靡く者には興味を持てなかったりして」


「え?」


 呆れた声をあげるリュースに、リュシオンは笑ってみせた。


「実は俺は口説かれるより口説くほうが好きなんだ」


 つまり自分で口説いて振り向かせるのが、リュシオンの好みだということである。


 呆れた神帝だ。


 好きになられるより、まず自分が好きになって、しかもその時点では相手に好意を持たれていないことを前提にしているのだから。


 なるほどこれではリュシオンが、自分の好みをはっきり口にしないはずである。


 言った途端にどんな騒ぎになるか、想像するのも恐ろしい。


 なんでもない顔をして、とんだ食わせだと、さすがのリュースも呆れていた。


「納得してくれたか? やたらとませてるセインリュース?」


 嫌味で問いかけるリュシオンに、リュースがぶすっとふくれた顔になった。


 不本意そうに父親の顔を睨みつける。


 扉に手をかけて出て行く素振りを見せた後、わざとらしく振り返った。


「夜の相手もいらないなんて、我儘言ってると変な勘繰りされるよ、親父殿」


「さっさと出ていけっ! 見たこともない非常識息子っ!!」


 真剣に怒鳴りつけられて、リュースは仕返しが成功し、高らかに笑いながら出て行った。


 アリステアが出て行き、扉が閉まった後で、リュシオンがぶつぶつと愚痴っている。


 乱暴に書類に手を伸ばし、不機嫌な顔つきで。


「皇子も大きくなられましたね。まさかああいう主張をなさるとは」


 笑いを含んだ声に、リュシオンがムッとしたように秘書官を振り仰いだ。


 笑いを堪えている親友の姿が目に飛び込んでくる。


「どうしてあいつはあんなにませてるんだ? 父親として悲しいものを感じるぞ」


「あれでも本当に心配なさっているのですよ。わかっていらっしゃるはずです。貴方なら」


 真摯な眸で訴えられ、リュシオンは気まずさから、さりげなく書類に視線を戻した。


 そんな彼に秘書官はやりきれない吐息を漏らす。


 頑なに現実を振り返ろうとしない、神帝に。

 

 いつになったら、あなたは現実を振り返るのですか、リュシオン。


 いつになればその蒼い瞳に、今の現実が映るのですか。


 心の中で問いかける。


 その言葉はリュシオンには届かない。


 現実の姿は映らない。


 現実を拒絶した瞳には、なにも映りはしない。


 現実を拒絶した神帝には。


 心はあのときに凍てついたまま、頑なに目覚めることを拒絶している。


 なにも見詰めようとしないほどに。


 あなたの心の中にまで、わたしの声も、皇子の声ですら届かない。いつになったら振り返ってくれるのです? 

 

 心配して待っているわたしたちを。


 どれほどの時が流れれば失った恋人を、忘れることができるのですか?


 既に亡くなって逢うこともできない恋人を、今も忘れられないリュシオン。


 そんな彼に現実の声は届かない。


 例え最愛の皇子の声であろうと、リュシオンの心にまで届かない。


 彼の心は目覚めることを拒否しているのだから。


 誰も失った恋人の代わりにはならない。


 彼女以上の魅力など、誰にも感じない。


 彼の言葉に秘められた意味を秘書官は見抜いていた。


 忘れられないから、違う相手を求めるつもりにもなれないのだと。


 孤独を噛み締めたまま心を閉ざしたリュシオンに、眼を開いてほしいと思う。


 心を現実に戻してほしいと。


 だが、彼の中で恋人を失い、殺してしまった負い目が消えないかぎり、心が先に進まないこともまたわかっていた。


 ティアーぜ姫以上に愛せる相手が現れて、罪の意識を拭いさるまで、彼は変わらない。


 変われない。


 それほど昔の悲恋が辛く今も心を苛んでいる証拠である。


 なによりも彼の初恋の姫君は絶世の美姫で知られた姫巫女だ。


 今振り返っても彼女ほど魅力的な姫君には逢ったことがない。


 絶世の美女と言われた彼の姫君。


 彼の心からティアーゼの想影を拭いさり、新しい想いを吹き込めるほどの姫君がいるだろうか。


 考えてもジェノールには心当たりすらなかった。


 或いは。


 口に出せない疑惑をジェノールは心の中で噛みしめる。


 至上の美を与えられた天上の美姫と呼ばれる聖稀なら、彼の聖域の乙女なら、あるいはティアーゼ姫以上の魅力を持っているかもしれない、と。


 祝福の乙女。


 愛されるため、愛するために生まれた聖女。


 或いは彼女なら、孤独なリュシオンを救えるかもしれない。


 未だ幼い聖稀の成長を、神帝と対面が叶う日を、ジェノールは祈る気持ちで待ち焦がれていた。


 ふたりが出逢うときを。


 たったひとつの希望を託して。


 だが、リュンオンは語らない。


 既に聖稀と知り合い、親しく付き合っている事実を。


 それは現実を拒絶したときから、リュシオンが決意していたことだった。


 誰のことも受け入れず信じないと。


 その現実の危うさを、リュースはまだ知らない。


 父親が抱えている秘密を。


 今も忘れられない彼の恋人が、実の母ではないという事実も。


 リュースの母の名はアンジェリーヌ。

 

 ティアーゼではない。


 その名は今では禁じられた名前。


 彼女がかつての巫女姫であり、神殿の頂点に立つべき姫君だったことを知る者は、現在数少ない。


 その神殿とリュシオンが不仲の意味もまた。


 恋人を巡るリュシオンと神殿との対立。


 今では過去の話となった確執の原点を知る者は、当時の悲恋を直接、体験した者だけだ。


 七代神帝リュシオンの皇子時代の悲恋。


 それは現在では語ることも憚られる、皇家の税密となっていた。


 誰もが眼を塞ぐ、現実の苦い裏切り。

 

 彼が立ち入ることを拒むから、誰も口に出せなくなった事実。


 それは未来永劫続くかと思われた。


 少なくとも、この頃はまだリュシオンが恋人を忘れたとは、事情を知る者には、誰にも思えなかったのである。


 この頃はまだ。

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