第7話
「令嬢たちと付き合うことがそんなに重要なのか? 俺にはよくわからないな。疲れるだけだと思うんだが」
ぶつぶつと愚痴を溢しつつ、リュシオンはゆったりした足取りで中庭を歩いた。
光を弾く黄金色の髪が緩やかなウェーブを描く。
優しい光を宿す蒼い瞳は、とても神秘的な色をしていた。
絶世と形容されるだけあって目を奪う容姿をしている。
100人に問えば100人とも美形だと答えるだろう。
両耳に映える皇家の紋章をモチーフにしたイヤリングが似合っている。
それは皇家の紋章をモチーフにした個人個人デザインの違うイヤリングで、皇位継承権第一位の世継ぎのみが身に付けることができる。
これを身に付けているということは、神帝か世継ぎの皇子であることを意味する。
常識として既婚者は左耳を外すのだが、彼は既婚にも関わらず両耳だった。
それは左耳が神妃(神帝の絶対伴侶を意味する絶対的な妃のこと)に送る神妃を証明するものだからである。
普通の妃では受け取れないのだ。
彼はまだ絶対伴侶と思わせる女性とは出逢っていなかった。
絶対伴侶とは皇家には絶対にいると言われている魂の片羽。
文字どおり絶対的な伴侶である。
如何なる運命も引き裂けない運命の恋人。
彼はまだそうだと思える女性とは出逢っていない。
だから、既婚者だが両耳なのだ。
スマートな肢体にイヤリングが映えて、とても似合っている。
ただ難点を言えば16、7の少年にしては体格が華奢なことだろうか。
細身と形容される体格に長身と呼ばれる身長の持ち主だ。
人間の基準で言えば、たぶん彼は年齢よりも身長は高いのだろう。
もちろん体格は標準より劣っていることは間違いないだろうが。
ただ体格的な欠点はあったもののプロポーションそのものは完璧だった。
均整のとれた身体付きをしているし、舞台俳優を思わせるほどに手足は長い。
華やかな容姿を裏付けするように生来の華のようなものを持っている。
そこにいるだけで注目を集めずにいられないような、そよな奇妙な存在感もあった。
人はそれをカリスマというのかもしれない。
執務の合間の散策はリュシオンの日課だった。
気詰まりな宮廷生活で唯一心を休ませることのできる時間なのだ。
いつものようにのんびり歩いていた彼はふと眉を寄せた。
「気のせいか? 今悲鳴が聞こえたような……」
皇族は異端者と呼ばれるほど、身体的な特徴が民たちと異なる。
聴覚も視覚も異様に発達しているのだ。
五感も超常的なまでに発達していて、力を(生まれつき身に宿している皇族特有の源の力のこと)使わなくても、色々なことを知ることができる。
身体的な能力はすべて超常的なのだ。
リュシオンの聴覚が捉えたのなら、幻聴だとは思えなかった。
彼がその気になれば宮廷内をすべて盗聴することも可能なので。
幻聴とも思えない声が、とても幼かったこともあって、リュシオンの足は自然と声が聞こえた方へ向かっていた。
「やめてっ。こないでっ。わたしに力を使わせないでっ」
悲壮な声がそう叫んだ。
今度は空耳などではない。
幼い少女の声が懸命に叫んでいる。
思わずリュシオンは歩く速度を上げていた。
「逃げないでください、姫君。わたしはただ」
掠れた声が追いすがるのが聞こえる。
それはどこかいやな感じのする声だった。
不快感を与える声音。
上擦った話し方。
なんとなくその声が秘めている感情が掴めたような気がした。
(まさかとは思うが、こんな幼い声の少女に……しているのか?)
胸の内でも形容詞を使う気になれず、リュシオンが怪訝な顔で利き腕の左で茂みを掻き分けた。
そこに怯えて踞る少女の姿があった。
手を伸ばそうとしている青年の目が、どこか血走っているように見える。
踞った少女の純白のドレスは汚れ乱れていて、その背に広がる髪も乱れていた。
怯えきったその姿。
それはいつもそっと見守っているしかできなかった少女。
すべてが飲み込めたとき、心臓が凍りつくような、激しい冷たい怒りを感じていた。
「こんなところでなにをしている?」
低くそう声を投げたとき、意味の違う視線がリュシオンに集中した。
追い詰められていた少女からは救いを求める眼差しが。
そして追い詰めていた青年からは絶望の眼差しが。
「よくもまあ俺の目の届くところで、こんな真似ができたものだ。感心するよ」
「……わた……し、は……」
相手が神帝だとわかる青年は言いかけた言葉を飲み込んだ。
言い訳を赦さないリュシオンの目の色に気付いて。
「消えろ。二度と足を踏み入れることは赦さない。俺の我慢がきくうちに消えるがいいっ」
低く恫喝する声に青年は弾かれるように駆け出した。
リュシオンの言葉が宮廷への登城を差し止めるものであることに気付き。
本気だった。
リュシオンの目の色は嫌悪感に満ちていた。
本当は殺したいほど我慢できないのだ。
だが、少女の前で殺したくないから、消えろと命じたのである。
青年はそれらをすべて悟り、慌てて逃げ出したのだ。
弁明の余地もないことを知っていたから。
助けられた少女は、しばらくぽかんとリュシオンを見上げていた。
窮地を救われたことはわかっても、あの一言だけで彼を退散させたリュシオンに驚いて。
リュシオンはしばらく逃げていく臣下の背中を眺めていたが、ふと少女のことが気にかかり視線を落とした。
蒼い瞳とまだ幼い同じ色の瞳が正面から見詰め合う。
その瞬間、奇妙な既視感がふたりを襲った。
言葉では形容できないその感じを一体どう説明すればいいのか。
リュシオンが感じていたのは、身体という器から引き摺り出された魂が、目の前の少女へと引き寄せられるような絶対的な吸引力だった。
目眩を起こしたような錯覚に足下が定まらない。
一方。
座り込んだまま彼を見上げていた少女も、同じような既視感を感じていた。
同じ色彩を持つリュシオンから引き寄せられるようななにかを。
吸い寄せられるように見詰め合った瞳は動かない。
呼吸をすることさえ憚られ、時だけが音もなく流れていく。
どちらが先に正気に返ったのか、それはわからないが、先に口火を切ったのは座り込んでいた少女だった。
「寒い」
夏に近いとはいえ、まだ終春である。
肌寒い季節に少女の身体が震える。
独り言が零れ落ちて、ようやくリュシオンは我に返った。
「大丈夫か?」
気遣うことすら忘れていた自分を叱責しながら、リュシオンも膝をつく。
覗き込んだは健気に微笑んでみせた。
「ありがとう。助けてくれて」
「いや。それは構わないんだが、どうして……ここに?」
躊躇いがちな問いに少女の顔色が変わる。
身分を知っているとは思わなかったと訴えてくる。
あどけのない驚いた表情。
苦笑してリュシオンは当たり障りのない返答を選んだ。
「聖稀の姫君だろう? 聖稀の乙女エディスターシャだ。違うか?」
「……どうして知っているの? わたしのことは一部の者しか知らないはずよ」
「その髪と瞳の色を見ればわかるさ。聖稀の姫君の噂は耳にしていたし」
十分に納得できる説明ではなかったが、世間に疎いエディスターシャは疑うことなく彼の説明を受け入れた。
ホッとしたように笑う。
その笑顔にリュシオンは罪悪感で胸が痛んだ。
「ちょっとした探検のつもりで森を抜けてきたの。そうしたらとても立派な建物がみえたから」
(……立派な建物)
呆れたように呟いて、リュシオンはこっそり嘆息をつく。
それはそうだろう。
この建物は神帝の居城である。
世界一の宮殿として名高いのだ。
外界を知らないエディスの興味を引くには十分すぎるということか。
それにしても宮殿を立派な建物の一言で片づけるとは。
「知らずに入ったのなら教えてやるが、この建物は神帝陛下の居城だ」
「……王宮?」
愕然とした表情で彼女が全く想像していなかったことが伝わる。
思わず呆れてしまうリュシオンだった。
「この建物が宮殿以外のなににみえるんだ? 貴族の屋敷でもこれほど巨大じゃないと思うぞ」
「そういうものかしら」
世間を知らないというのは、こういうことだと今、リュシオンは身に染みていた。
「とにかく場所を移そう。人に見付かると厄介だ」
「ええ。でも、匿ってくれるの?」
聖稀の乙女に関することは、すべて極秘事項である。
異性との面識は禁じられているのだ。
関わればリュシオンに害を招くと思ったのか、エディスターシャは怯えたような顔をしていた。
「乗りかかった船だ。気にするな。それより人に見つかるとマズイ。俺の部屋に移動しよう。歩けるか?」
片手を差し出して訊ねてみたが、案の定、エディスターシャは歩けなかった。
びっくりしすぎて身体に力が入らないのだ。
それまで全力で逃げ回っていたこともあり、彼女はすっかり疲れ切っていた。
「ごめんなさい。無理みたい」
何度か立とうと努力した後で、エディスターシャが心底済まなそうにそう言った。
「失礼」
リュシオンは短く断りを入れると、まだ幼い姫君を抱き上げた。
びっくりしたようにエディスターシャが腕の中で彼を振り仰ぐ。
「礼儀から外れていることは承知しているが、緊急事態ということで納得してくれ。それより人に姿を見られないように注意してほしい」
すこし照れているのか、早口の口調にエディスターシャが笑う。
口許に浮かべた優しい笑み。
それはどこか大人びた微笑。
抱き上げた腕の中の少女をリュシオンは不思議そうに見詰めていた。
後にすべての運命を決した出逢いと、祖王に形容される場面である。
7代神帝リュシオンと覇権を握る聖稀の乙女、エディスターシャ姫はこうして出逢った。
まだ初恋さえ知らないエディスターシャ。
このとき彼女はそうと知らずに運命の扉を開いたのだった。
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