第17話

「すみません」

 透は片山教諭を離し、インスリン注射の単位数を0に戻した。

「申し訳ありません」

 注射針を外し、インスリン注射一式を千津に返却する。

「ご家族様のお気持ちは、もっともです。教員の知識と配慮が足りず、申し訳ありませんでした」

 副校長と学年主任が頭を下げ、つられて富田教諭も頭を下げた。

「この件は、もう少し調査させて頂きます。生徒の生命に関わる問題です。二度とこのようなことが起こらないよう、対策を考えます……片山先生、職員室で話を聞かせてもらうよ」

 副校長と学年主任、不服そうな片山教諭が教室を出て、わずかな間だけ静まり返った。

 保原先生、と富田教諭が言いかけ、勝呂さん、と訂正された。

「やり過ぎです。でも、教員という立場でなければ、私も同じようなことをしていたと思います。それに、少しあなたを泳がせていました。事の重大さを片山先生に身をもって知ってもらいたかったことと、無理を言って他の先生を呼んで片山先生の身勝手さに気づいてほしかったので」

 透は、何も言えなかった。思うことはあるが、言葉にできない。富田教諭に行動を読まれて泳がされたことに腹は立つが、結果的に上の立場の教員に事の重大さを知ってもらうことができた。でも、架月や千津に嫌な思いをさせてしまったかもしれない。

 千津の表情を伺うと、彼女は目を輝かせて鼻を脹らませていた。

「勝呂さん、すごい行動力です。映画のワンシーンみたいでした。私は動くことができませんでしたし」

「あ、いや、俺は悪い例です。殺人未遂でしたよね」

「……確かに殺人未遂ですが、学校側が問題にするようなことは致しません」

 富田教諭が言った。

「それよりも、架月くんは大丈夫ですか?」

「そうだ、架月……!」

 うん、と架月は頷いた。何を示すのか、わからない。

「架月くん、飲み物でも買ってこようか。自販機の場所、知ってる?」

 千津に訊かれ、架月は、あっち、と案内を始める。

 教室に富田教諭とふたりきりになり、富田教諭が口を開いた。

「あのときのことは、謝りませんから。教育実習生のあなたに嫌な思いをさせられたのは事実です」

「ああ」

 ああ、としか透は言えなかった。透も謝るつもりは無い。

「でも、あなたが教員になる道を、私が絶ってしまった。そう思います。そのことは、申し訳ありません」

「でも、俺はリトライしなかった。薄々、自分の限界を感じていたよ。喋るのが上手くないし」

「本当ですよね」

「おい」

「あなたは、始めは女子に人気があったんですよ。華やかなオーラはないけど、イケメンの部類に入りますし。けど、教えるのは下手で、トークはもっと下手。極めつけは、球技大会」

「おい!」

「架月くんには内緒にしておきますからね。あなたが壊滅的な……」

「頼む! お願いします!」

「それはさて置き、安心しました。あなたも激昂することがあるんですね。人間らしい感情を目の当たりにすることができて、良かったです」

 嫌味ではなく、本当に安堵したように、富田教諭は顔を綻ばせる。透は、複雑だ。

「架月、大丈夫でしょうか」

「私にも、わかりません。彼は普段から大人しくて……お家で色々あったんですね。今日、千絵さんを守ろうとして声を荒げたと聞いて、驚きました。もしかしたら、あなたが影響を与えているのかもしれません……良い意味で、ですけど」

 架月と千津が教室に戻ってきた。良いタイミングなので、全員教室から出る。

「伝え忘れていました。架月くんは電車通学よりもスクールバスの方が良いかもしれません。一番近い発着所があそこなのですが……」

 富田教諭が教えてくれたスクールバスの発着所は、ラーメンチェーン店の敷地内である。架月を送迎するときに目の前の道を通っていた。

「ありがとうございます。検討します」

 駐車場で千津と別れ、透は架月を車の助手席に乗せた。本当は、こんなおにいちゃんが嫌なのではなかろうか。そんなことを考えてしまったが。

「おにいちゃん」

 架月は怯える風もない。

「あまりにも空気を読まないから言えなかったけど、おにいちゃんはダークヒ-ローみたいで格好良かった。俺もあんな風になりたい」

「ならなくて良い」

 透は容赦なく突っ込みを入れてしまった。

「夕飯、何が食べたい?」

「おにいちゃんの好きなもの」

 少し考え、透は車のエンジンをかけた。向かうのは、スクールバスの発着所であるラーメン店だ。

 店に着いてテーブルに案内されると、架月から衝撃の一言が発された。

「俺、生まれて初めて食べる」

「ラーメンを?」

 うん、と架月は頷いた。

「インスタントは? お湯を注いで3分待つやつ」

「あれ、どうやってつくるの?」

「お湯を注いで3分待つんだよ。逸樹も食べてなかったのか?」

「多分、お家に買い置きしていないと思う」

 あの母親ならストックしないよな、と透は思ってしまった。

 ふたりで醤油ラーメンを食べ、帰宅し、透はアトリエで金継ぎの仕上げをする。架月に見学してもらいながら、繕った部分をメノウ棒で磨いた。普段は粉固めをするが、今回は即座の発色の良さを求めたため、省略して磨きの作業をした。

「完成?」

「完成」

「おにいちゃん、素敵」

 架月は、黒い瞳を輝かせる。

「俺は素敵なんかじゃないよ」

「素敵だよ」

 家に戻り、架月が先に風呂に入る。透が風呂から上がると、お約束のように架月がセミダブルのベッドで寝ていた。

 透はベッドに横になり、架月の頭を撫でた。

「おにいちゃん……?」

 起こしてしまったかと思ったが、架月は目を閉じたままである。むにむにと唇が動き、満ち足りたように結ばれた。

 怖くないよ。大丈夫だよ。

 そう言ったように、透には思えた。

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