第8話

 アトリエを出ると、雨はしとしと降り続いていた。

 不安が雫のように落ち、波紋を広げる。

 先日から、架月のことばかり考えている。入学式に保護者代わりに出席したから無意識に親の気分でいるのだろうか。こんな自分が親のつらをする資格は皆無なのに。

 出自を嫌われ、後ろ指をさされることもあった。目指した夢は、理解のない年下の生徒に潰された。就職先で遊び半分に心を壊され、半年も経たないうちに退職に追い込まれた。

 それでも透は、手を差し伸べてくれる大人に恵まれた。

 後ろめたい過去を背負って愛情を注いでくれた両親。親戚から冷たい目で見られてもかばってくれた叔父の征樹。心を壊した透にいち早く気づいて職場から引き離してくれた灯子。それから、金継ぎと陶芸の師匠。

 普通の人生は送れなかった。それでも、見守ってくれる人がいる。自分も、そんな人になりたい。社会に見放された身だけど、手を差し伸べたい人がいる。

 透は車に乗り、山道を下りて夕方の街に出向いた。

 赤信号で停止したときに、スマートフォンのライトが点滅していたことに気づき、確認した。逸樹からメールが来ていた。受信の時間は、通話終了から30分後である。

『架月が来ない! どうしよう? 電車はダイヤ通りに動いているのに』

 返信しようとしたが、青信号になってしまい、スマートフォンを助手席に伏せてアクセスペダルを踏む。

 夕方の県道は車の流れが遅いが、渋滞というほどではない。ほとんど赤信号に引っかかることなく、駅前に着くことができた。日はすっかり暮れていた。

 ロータリーに車を停め、スマートフォンを確認する。逸樹から新しいメールが来ていたが、『かづ』としか書かれていない。架月に何かあったのだろうか。

 弱い雨がフロントガラスを濡らす。ウィンカーを出し、勝呂の家に向かった。この前は裏手のコンビニに駐車したが、そこまで頭がまわらず、家の駐車スペースに堂々と駐めてしまう。

「透!?」

「征樹!」

 征樹も今まさに自分の車を駐めたばかりで、突然の透の訪問に、声が裏返っていた。

「征樹、退院したんだ」

「うん、まあ。よくわからないけど上がってくれ。良い機会だから、この間の話の続きがしたいが……」

征樹は電話の着信があり、その場で対応を始めてしまう。

「ありがとう。お邪魔するよ」

 熟慮せずに押しかけてしまったが、家主の許可は得たので家に上がらせてもらう。

 母さんやめて、と逸樹の声が聞こえた。2階からだ。

 透は階段下から階上を見上げる。刹那、人が降ってきた。背中を打ちながら、落ちてくる。

 透は息をのみ、言葉を失った。制服姿でぐったり脱力しているのは、架月だ。スマートフォンが2、3度跳ね、足元に落ちてきた。

 透は床に膝をつき、架月を抱き上げた。薄い肩と背中で浅い呼吸を繰り返している。

「いい加減にしてよ!」

 階上で金切り声を上げるのは、透の叔母だ。

「私を殺そうとしないで! 逸樹を洗脳しないで! お父さんに迷惑をかけないで! 私達の家を壊さないで! あんたのせいで、何もかも滅茶苦茶なのよ! あんたが存在するせいで、皆が不幸になるの! お願いだから存在ごと消えてなくなってよ!」

 わめきながら物を投げようとする叔母を、逸樹が止めようとする。

「母さん、落ち着いて。俺は、こんな母さんを見たくない」

「そんなこと、私に言わないで! こんな母さんにさせているのは、あいつなのよ! こんなことしたくないのに、無理矢理やらされるの! 計画的に追い込まれて、やるように仕向けられるの! あいつがいるから、やらされるの! あいつがいなければやる必要もないのに!」

 叔母は床にしゃがみ込み、肩で荒い呼吸を繰り返す。

 透は歯を食いしばり、叔母を睨みつけた。架月に対して酷い仕打ちをしているのは明らかで、逸樹にそれを見せつけて嫌な思いもさせている。虐待を見せることもまた虐待だと、叔母も逸樹も気づいていない。

「お……にいちゃん?」

 架月が、か細い声をこぼした。

「おにいちゃん、に……言いたいことがあったの。言わないで帰っちゃった。俺、馬鹿だよね」

「架月、喋るな。怪我は」

「……入学式に来てくれて、ありがとう……おにいちゃんのネクタイ、桜のお花の刺繍、素敵だったよ。俺も、あんな風に素敵な大人になりたい……なれるのかな。なれない、よね」

 架月は大きく溜息をつき、痛みに耐えられないように、うめいた。

「おにいちゃんがスマホに入れてくれたアプリ……おばちゃんが消しちゃったけど、また入れたんだ。俺……おばちゃんを裏切っちゃった。おばちゃんに、面倒を見てもらっているのに。高校に通わせてもらっているのに」

 足元に放り出されたスマートフォンを見ると、今まさに画面上はアプリケーションが起動していた。透が架月のスマートフォンにインストールしたのは、録音アプリ。何かされそうになったら証拠を残せるように、入れたのだ。一度は削除されても、架月はアプリのことを覚えていて、再びインストールした。

 架月は、声高に助けを求めるようなことは、しない。できない。これは、架月からの数少ないSOSだ。

 透にできることは少ないかもしれない。

 でも、今、決めた。覚悟した。

「架月」

 もう、充分耐えた。頑張った。

「うちに、おいで」

 もう、耐えなくて良い。頑張らなくて良い。

「一緒に暮らそう」

 架月の頭を撫で、背中をさすり、壊さないように、優しく抱きしめる。

 うん。

 透の耳元で、返事があった。遠慮がちに、くいと服を引っ張られ、おもむろに背中に腕をまわされる。荒い呼吸が穏やかになってゆくのを感じ、透は深く溜息をついた。

 自分の決意は、架月にとって最良ではないのかもしれない。それでも、差し伸べた手を離すつもりは無かった。

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