第2章 繕う月は陽光に煌めく

第9話

 勝呂の家を出ると、雨は上がっていた。

 雲の切れ間から月が顔をのぞかせ、ほのかに夜空を照らす。一等星であろう明るい星が輝いていた。

「透……架月!」

 電話が終わったばかりの征樹が、玄関から出てきたふたりを見て、言葉を失った。全てを察したと言わんばかりだった。

「すまない! 俺が至らないばかりに、本当に、申し訳なかった!」

 征樹は、スーツの膝が汚れるのも構わず、その場で土下座する。

 おじちゃん、と、架月が呟いた。透のトレーナーの袖を、くしゅっと掴み、首を横に振る。

「おじちゃん、俺をかばってくれたのに」

「違う! ちゃんと架月を守れなかった。お母さんと、きちんと話ができなかったから、架月を危険な目に」

 征樹だって、限られた時間の中で架月と向き合い、妻の態度に頭を抱えたはずだ。透にも、容易に想像できた。だが、結果が結果だ。

「まずは病院に連れて行く。それから、うちで預かる。近いうちに話をさせてもらう」

 自分も酷い態度を取っていることは、透も自覚している。架月の安全が最優先だ。

 透は架月を車の助手席に乗せ、一番近い病院の救急外来に向かった。

 親戚の子で階段から落ちた、と伝え、レントゲンと頭部CTを撮ってもらった。氏名を伝えると、病院のスタッフは眉をひそめたが何も言わなかった。警察に通報されてしまうのだろうか。透は不安になったが、この日は杞憂に終わった。

 検査の結果は、異常所見なし。頭部MRIも撮ってもらいたいところだったが、この時間は脳神経外科の医師が不在ということで、また後日受診することになった。解熱鎮痛剤と湿布薬が処方され、透が支払いしようとしたところ、会計済みだと言われた。

 救急外来の待合スペースには、征樹が来ていた。どこの病院に行くか言わなかったが、予想がついたらしい。

「学校関係の荷物と、着替え、食べるもの。逸樹と俺で思いつくものを持ってきた。足りないものがあったら、夜中でも良いから教えてくれ。本当に、申し訳ない。病院の人には、事情を説明しておいた。警察に通報しないと約束してくれた」

 病院の駐車場で、荷物を透の車に積む。透が思ったより少ない。暴力と暴言以外の叔母の仕打ちを想像し、透は胸が痛んだ。

「征樹、ありがとう。俺では頭が足らなくて」

「そんなこと、ない。こちらこそ、礼が言いたい。うちに介入してくれて、架月の味方になってくれて、本当にありがとう」

 謝罪の語彙から、いつの間にか、御礼の語彙になっていた。

「ふたりとも、今日は帰って休みなさい」

「征樹もな。逸樹と叔母さんのこと、うちより大変だと思うけど、頼んだ」

 おじちゃん、と架月が征樹を呼んだ。

「俺、おじちゃんの家に来られて、良かったと思っているよ。おじちゃん、ありがとう。ごめんね……逸樹にも、おばちゃんにも」

 征樹は、架月の頭を、ぽんぽんと叩いた。

「うちの子になってくれて、ありがとう」

 架月を助手席に乗せ、透は征樹に頭を下げた。透が車を出しても、征樹は深々と頭を下げたまま、微動だにしなかった。多分、車が見えなくなるまで、こうしていたのだろう。

 すっかり夜が更け、街中の道路は車がまばらになった。

「お腹空いたな。何か食べるか」

 赤信号で止まり、助手席を見ると、架月は肩側のシートベルトに頭を乗せて眠っていた。綺麗な寝顔だった。顔は傷ついていないのが、皮肉なくらいだ。

 ほんの出来心で。膝に乗せた白く細い手に、透は自分の手を重ねてしまった。ぴくり、と指先が反応する。透は手を引っ込め、運転に集中することにした。運転席のドリンクホルダーには、今もクランチバーが鎮座している。空腹のあまり、運転しながら片手で食べてしまった。

 車は街中を抜け、山の中の自宅に着いた。眠そうな架月を起こし、鍵を開けて家に入れる。時間も時間なので、いつでも寝られるように風呂に入らせた。

 車から荷物を下ろし、着替えを探す。明日も学校だろうから、制服のシャツも出しておく。まだ新学期が始まったばかりだから、予定は不規則かもしれない。入学式で配られたプリントがないので、予定がわからない。

 時間は遅いが、わらにもすがる思いで、ある人に電話してみた。架月の同級生、酒々井千絵の姉、千津だ。

『はい、酒々井千津です。勝呂さん、お久しぶりです』

 千津はワンコールで応答してくれた。

「こんな時間に、すみません」

『いえいえ、大丈夫ですよ。千絵から聞きました』

 透は、冷や汗を錯覚した。が、想像した話ではなかった。

『放課後に突然、クラス全員に補修が行われたらしいんです。うちは学校から近いから、そんなに時間は気にしなかったんですけど、遠方から来ている子は、お家に連絡もできないまま補修を受けさせられたみたいなんです。千絵が先輩から聞いた話では、“ゲリラ補修”といって、あの学校の風習らしいんです。架月くん、無事に帰れました?』

 その話を聞き、逸樹のメールが腑に落ちた。ゲリラ補修のせいで、架月は連絡できないまま予定の電車に乗れなかった。逸樹は心配し、叔母は怒りそうなものだ。

『あ、でも、勝呂さんは架月くんと一緒に住んでいるわけではないんでしたっけ』

「それが」

 ラッキーだと思ってしまった。話しやすくなる。

「実は、うちで架月を預かることになりました。入学式で配られたプリントは保護者に渡してしまって、俺自身は何も把握できていないんです。近いうちに行事とかありますか?」

『ありますよ! 明日から1泊2日の研修旅行です』

「まじで……!」

『やっぱり、何も教えてもらっていないんですね。入学式で配られたプリント、該当部分を写メして送ります。足りない持ち物があったら、教えて下さい。コンビニで買ってきますから』

「酒々井さんに、そこまでして頂かなくても」

『お家は山の中なんでしょう。うちはすぐに買いに行ける距離なので、代わりに行けます。任せて下さい』

「すみません。すみませんが、お言葉に甘えさせて下さい」

 一旦電話を切り、千津からの写真のデータを待つ。

 架月が風呂でおぼれていないか気になり、風呂場を覗くが、架月の姿は無い。家の中を探すと、透のベッドに横になっていた。疲れたところベッドを見つけて横になってしまったのかもしれない。

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