第32話

 でも、もう若くない。透に結婚や就職をあからさまに急かす人がいないだけで、世の中の同年代は家庭を持ったり出世している人がほとんどだ。杏子のように、ひとりで好きなことをして生きてゆける人なんて、ほんの一握りだ。

「おにいちゃん」

 架月が箸を置き、どんぶり半分で海鮮丼をギブアップした。小食の架月に気の毒なことをしたと思いつつも、残りを食べるのが親の務めのような誇らしさもあり、透は架月の残りに手をつけようとしたのだが。

「俺、食べて良い? まだ足りなくて」

 海鮮丼の残りは、逸樹が食べてしまった。

「ごちそうさまでした」

 しかも、食べ終わるのが速い。

「じゃあ。帰ろうね」

 逸樹は、架月の表情を伺ってから、透に言った。逸樹なりのサインだ。またあの少年達と鉢合わせたら、大声で何を言いふらされるか、わかったものではない。架月と逸樹を守るのは、透が役目だ。

 幸い、少年達とすれ違うこともなくショッピングモールを出て、勝呂の家に向かった。駐車スペースには、征樹の車も叔母の車もある。

「様子を見てこようか?」

 また逸樹が気を遣ってくれた。透は車の中で待機し、逸樹が戻るのを待つ。架月は助手席で、膝の上で握りこぶしをつくり、俯いてしまう。

「架月」

 透が声をかけると、架月は弾かれたように顔を上げ、儚く微笑んで首を横に振った。大丈夫だよ、と言いたいように。

「あの、でも、ごめん。ちょっとだけ」

 架月は握りこぶしを解き、おそるおそる透に手を差し出す。透は、その手を優しく握った。車は冷房を効かせているが、それにしても冷たい手だった。

「おにいちゃん、温かい」

 架月の声が綻ぶ。架月こそ、冷たくて柔らかくて気持ち良い。そんな変態じみたことは、口が裂けても言えないが。

「架月、早く来て!」

 逸樹が突如、助手席のドアを開けた。

「早く、早く!」

「急ぐから、待って!」

 逸樹に急かされ、架月は車から降りる。透も、車のエンジンを切って勝呂の家に上がらせてもらった。

 逸樹は架月をつれて、冷房の効いたキッチンに向かう。そこにいたのは、透の叔母。逸樹の母であり、架月の義母だ。

「架月」

 名を呼ばれ、架月がびくりと震えた。近くのダイニングテーブルに、おはぎを食べた形跡があった。

「ごめんなさい。今まで、本当にごめんなさい。謝って済む話でないことは、わかっているわ」

 叔母は、自分の口についた餡を拭い、鼻をすする。

「おはぎ、美味しかったわ。つくるのは大変だったでしょう。あなたほどの歳の子が、こういうことに興味を持つなんて、思いもしなかった。あなたがつくってくれるなんて、思いもしなかった」

 すでに泣き腫らした目から、涙がこぼれる。

「ごめんなさい。私の気持ちが落ち着かないせいで、あなたの可能性を潰してしまった。あなたの身も心も、殺そうとしていた。やっと、気づいた」

 この場には、征樹もいる。静かにこの場を見守っていた。

「でも、私はまた同じことを繰り返してしまうと思う。あなたを近くに置くことができない。ごめんなさい」

 叔母は、深々と架月に頭を下げた。架月は口を真一文字に結び、目をうるませて首を横に振った。

「おばちゃん」

 義母に歩み寄り、手を伸ばそうとして、ためらう。

「俺なんかのことは良いから、おばちゃんは逸樹の優しいお母さんでいてあげて。おじちゃんの優しい旦那さんでいてあげて。おばちゃんが身も心も健康でいてくれると、俺は嬉しい」

 叔母は、おもむろに顔を上げ、架月を見る。手を伸ばし、架月の肩に触れた。

「薄い体ね。ちゃんと食べさせてもらっているの? この後時間があるのなら、うちで夕食を食べて行きなさい」

 架月は頷き、あっ、と透の顔を伺おうとした。透の許可なしに返事をしてしまったことを後ろめたく思う顔だった。

「架月さえ良ければ、お呼ばれしようか」

 ありがとう、と叔母は泣きながら笑顔をつくった。

「何だか、疲れちゃったわ。少し休んでも良いかしら。夕方になる前には起きて、夕食の準備を始めるから」

 叔母はキッチンを出た。征樹が様子を見に行き、昼寝するみたい、と戻って教えてくれた。その手には、着物のタトウ紙がある。

「架月、おじちゃんからプレゼントだ」

 征樹はリビングのフローリングに、タトウ紙を置いて開ける。タトウ紙に包まれていたのは、薄暗い夕方のような黒々とした青色である瞑色めいしょく単衣ひとえに、薄墨色の行灯袴。高校の制服であるネイビーのブレザーやベストに、グレーのスラックスを彷彿させる配色だ。

「新品でないし正絹しょうけんでもないが、おじちゃんの着物を架月にあげよう。サイズは合うはずだ」

「俺、着物は着ないよ」

「学校で着るんじゃなかったのか?」

 しまった。架月には、文化祭で茶道部が着物を着るかもしれないことを話していなかった。そのことを初めて架月に話し、架月は謹んで遠慮しようとした。

「まあまあ。文化祭で着なくても、もらってくれるかな。透と兼用でも構わないから」

 征樹がそう言うと、架月の目が光った。何を期待しているんだ、と透は突っ込みを入れそうになった。新品の襦袢と着付の道具も渡され、透は気づいた。もしも本当に文化祭で着物を着ることになったら、誰が着付をするんだ。学校の先生の中に袴を着付けられる人がいるだろうか。

「俺が覚えなくちゃだな」

 ほろっと独り言がこぼれ、俺も覚える、と架月が呟いた。

「なんでまた、架月は茶道に目覚めたんだ?」

 征樹に訊かれ、架月は恥ずかしそうに答えた。

「おにいちゃんがやっていたから」

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