第33話

 もしもこの瞬間に飲み物を口に含んでいたら、透は噴き出していたかもしれない。

 のろけてんじゃないよ。透が眉根を寄せると、架月は微笑んだ。

「おにいちゃんが素敵な人に見えた。俺も、おにいちゃんみたいになりたい」

「俺みたいになるなよ。人生を踏み外した人に」

「おにいちゃん、いつも謙遜してばかり」

 まあまあ、と征樹がなだめる。

「架月、試しに着てみようか」

「お着物?」

「そうだよ。おじちゃんが着付けてあげよう。いつもと違う架月を、透に見せつけような」

 架月の前で自分を「おじちゃん」と言いつつも、征樹の眼差しは、父親そのものだった。透は、昔に亡くなった自分の父親の顔を思い出すことができない。でも、父親と過ごした思い出や楽しかった感覚は、ありありと思い出すことができる。自分も父親から、こうやって目を細めて見守られたのだと懐かしくなった。

「俺も見学して良い? 着付を覚えたい」

「おにいちゃんは見ないで!」

 架月は珍しく声を荒げ、リビングとダイニングを仕切る引き戸を閉めてしまった。かつて暮らしていた家だ。勝手を知っている。

 リビングから閉め出されてしまった透と逸樹は、顔を見合わせて苦笑いしかできなかった。

「透くん、何か飲む?」

「あ、うん。冷たいものを」

 ダイニングとキッチンにはエアコンがなく、リビングから空気を流している。仕切りの引き戸を閉められてしまったため、そのうち室温が上がることは確かだ。

 逸樹は扇風機をつけ、冷蔵庫から冷たい麦茶を出してくれた。

 透は、ダイニングテーブルに置いたままになっていた、おはぎと小皿に視線を落とした。小皿は、透が帰郷してすぐに焼いた、黒マットの円い皿だ。失敗作だと思っていたが、以外とおはぎが映える。使ってくれていたのかと思うと、感慨深かった。

「おはぎ美味そう。俺も食べて良い?」

「構わないけど、そんなに数つくっていないよ。明日食べる分はあるのか?」

「母さんがスーパーで買ってくれたみたい。冷蔵庫に入っている」

 ふたりでダイニングテーブルに着き、逸樹は黒胡麻のおはぎをフォークで割って口に入れた。

「美味い! 黒胡麻のおはぎ、初めて食べた!」

 架月の「初めて」はよく聞くが、生活の質が高そうな逸樹にも「初めて」があったとは、意外だった。この年代は、季節ものに触れる機会が少ないのかもしれない。

「母さんがね」

 叔母の話題になり、透は思わず身構えてしまった。

「高校生の頃に、親戚がやっている和菓子屋でバイトしていたんだって。職人さんが餡を練ったり、綺麗な和菓子をつくるところも見たことがあって、その難しさも目の当たりにしたせいか、和菓子がつくれる人は格上だと思っていたらしいよ」

「その話、初めて聞いた」

「俺も最近聞いたんだ。母さん、最近よく雑談してくれる。昔読んだ少女小説?の話とかも」

 逸樹が挙げたタイトルは、架月がこの前図書館で借りたシリーズものだった。架月は一気に読み、すぐに返却してしまった。もしかしたら、叔母と話が合うかもしれない。

「逸樹は、無理していないか? 怖い思いをしただろうに」

 叔母が架月に酷い仕打ちをしたことを逸樹は知っており、透にも話してくれた。その現場も目撃している。

「見なかったことにはできない。あのときの母さんを許すことはできないよ。でも、これからは、心優しい穏やかな母さんに変える手助けができる。それが、俺の役目」

 逸樹は、2個目のおはぎに手をつけた。

「俺は傲慢だった。架月を悪意から守っているつもりでいた。本当に架月を守ったのは、透なのに。今は、透くんも架月も、うらやましい。架月はすっかり透くんと打ち解けて、俺はその中に入れない。架月は、これまでできなかったことをどんどん体験して、俺が予想していなかった架月になってきている。架月が素敵な人に見える……素敵って、人間性がね」

「そんなことないさ。俺には、架月と逸樹の中に入れない。ふたりは本当に信頼しているんだと思った。それに逸樹は、征樹に似て冷静で弁が立つ。これは、才能だ。架月と違う、素敵な個性だ」

 透は、逸樹の眉根を、指で軽く弾いた。架月にはどうしてもできない、昔から気心知れた逸樹だからできる、じゃれ合いだ。

 しばらく他愛ない話をしていると、引き戸が開いた。

「お待たせ。こら、架月。もじもじしない」

 征樹に背中を押され、袴を着付けてもらった架月が姿を見せる。体の線が細く、着せられている感は否めないが、言葉にならない新鮮さがある。何というか、雰囲気が美しい。透は、しばし見とれてしまった。

「おにいちゃん?」

「いや、あの、自分の子を嫁に出す感じって、このことかな」

「俺、男なんだけど」

 架月は、頬を膨らませた。似合うよ、なんて言ったら、架月は照れてしまうだろう。本当は、新婦のウエディングドレス姿を目の当たりにした新郎の気持ちに近いのかもしれないが、そんなことは口が裂けても言えない。

「架月、これ持って。和菓子屋か甘味処の跡継ぎ風に」

「逸樹、何の設定?」

 おはぎが乗った黒マットの小皿を持たされ、架月は困惑する。まさに、少女漫画の題材になりそうな、和菓子屋か甘味処の跡継ぎの青年みたいな出で立ちになった。

「着替える」

「待ってくれ。写真を撮らせてくれ。架月の成長記録として」

 征樹に写真を撮られ、袴のお披露目は終了した。着付にかかる時間よりも、着ていた時間の方が短かった。

 夕方、迎え盆に行き、夕食をご馳走になった。うどんに、野菜の天ぷら、季節の野菜。叔母は鶏天まで手づくりし、帰りに残りをもたせてくれた。またおいで、と泣きそうな顔で。

 帰宅する頃には、かなり遅い時間になっていた。車を降りると、蛙の大合唱が聞こえる。天の川が見えないものの、星が夜空を彩っている。

「楽しかった」

 架月が呟いた。

「でも、おにいちゃんとふたりきりの時間の方が、俺は好き」

 なめらかな声が、湿気を含んだ夏の空気にじっとりと混ざった。

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